今日はお休み。
しかしながら、これからスープの火入れと
チャーシューの仕込をしなければならない。
すこし空いた時間ができたので、日頃思うこと
を書いてみよう。
明日から、営業開始時間を朝、昼ともに30分早めることに
した、朝は11時半から、夜は6時から、
ショップカードなどで
告知している営業時間が浸透してきたため、
開始時間が遅れることはタブーになってきた。
仕込等がきつくなるが、良い意味で慣れてきた。なんとか頑張ろう。
ラーメンの数値評価。
いたるところで最近みかける。
テレビ、雑誌、インターネット。
この数値評価、行きたいラーメン店を探す人にはわかりやすくよい。
そしてラーメンは雑誌やテレビでブームとなった。
らーめんの味で勝ち負けも決める。
採点もする。そんな面白い業界の魅力を発揮し大衆をつかみ、
ラーメン業界も大きく成長したのだろう。
その恩恵には業界全体が今も浴しているだろう。
しかし、作り出されたブームには終わりが来る。必ず来るのだ。
勝ち残る為には何をすべきか、考えていかなければならない。
情報が濫立し数々のラーメン店ができた今、
そのラーメンの数値評価は本当に、探したいものが見つかるのか疑問が残る。
そしてそれがユーザーの為になっているか疑問だ。
数字にはいろいろなものがある。
点数で表されたり、それをうまくごまかし、星であらわされたり
あいまいなグラフで表されていたり、投票数や、ランキングだったり、
数値評価基準はあいまいで、それに数学的にいうと評価ではない。
たとえば点数だが、これは先入観を思いっきり人間に与える。
小さい頃から、資本主義は点数社会だ。
点数が高いほど100点満点に近いほど、良いと感じる。
これは仕方がない。
らーめんの点数採点をしているマスコミや雑誌、紹介サイトや評価サイト
などはもっと深く考えるべきだ。与える影響力は計り知れないのだから。
点数をつけている人間が個人だとしたら、その人を信じるしかない。
これには大いに疑問が残る。
自分の舌と点数をつける人間の舌は違うのだから。
多くのユーザーと点数をつける人間の舌は違うのだから。
多少、参考にはなろうとも自分ではない。
評価するのはユーザーであるべきだ。
大多数の意見を分析評価して初めて本当の評価や採点といえるだろう。
人間は誰一人同じでないのだから。
評論家が、
数値による評価が多数のらーめんを食し、様々ならーめん店を
比較していたとしていたら、パンチのある味、凝縮感のある味、
わかりやすいらーめんの点数を上げていくだろう。
仕事にしているならなおさらだ。
そして高カロリー、高エキス、の味を好むようになってしまうだろう。
そこに繊細なおいしさのラーメンなどは埋もれてしまう。
人間の舌は麻痺するものなのだ。
そして一度出した点数はなかなか変わることがない。
味が変化しようが、店がかわろうが期間がたとうが
その採点は付きまとう。自分の舌が馬鹿なことを知らない、
きづかない評論家に将来性の予測はできないだろう。
気づいている評論家は本当の評論家だろう。
評論家おすすめの店というのを良く見かけるが、
あなたのオススメは本当はどれ?って言うぐらい数が多い。
何百件だったり、何千件だったり、
はたしてユーザーの為になっているだろうか。
その評論家自体全部を把握してることは無理だし、
再訪に何年かかることか。
その情報はリアルタイムでもなく近い過去ではない。
パンチを出す味、凝縮感を出す味として化学調味料が良く使われる。
舌が麻痺するような、ピリピリとしたパンチのある味を作り出す。
小さい頃から大多数が食べているお袋の味だ。
味噌汁しかり、カップラーメンしかり。
だからパンチのある味を好む人は多い。昨今の若い人たちが
親しんできた味だからだ。
しかし、人間の繊細なおいしさを感じる部分は薄れてしまう。
健康もどうだろうか。これについては言及できない。
そして、本当にうまいものをお金をかけて作ると、
化学調味料に似た味になるのだ。これには化学調味料を使っていなく
手間暇かけて料理をつくってまいってる飲食経営者が多数いる。
あなたの舌はその違いを判断できるだろうか。
私の店は店員全員でらーめんの味見をする。
自分だけの舌は信じてはいけないのだ。
体調だったり、好みだったり、人間の舌ほど多様でそして時には馬鹿で
生化学的に賢いものはない。
必ず、水を飲み、口をリセットしてから、テイスティングをする。
おっと・・・話がそれた。
数値評価の話だった。
本当にらーめん数値評価するのであれば大多数の意見を評価にするべきだ。
これが結論。ただ本当の評価にはつながらない。
それは規模も販売量も違うからだ。
しかし、平均値を探ることによって参考程度にはなる。
これを主として考えた場合、評価方法はどうなるだろう。
理論的には簡単だ。
たとえばらーめん店の点数をつけているサイトを見かける。
しかし、最初に点数をつけた人が真っ先に掲載されるところもある。
これではその人個人の意見が全体の評価につながってしまう。
比較評価なんぞにはならないわけだ。
本当に点数で評価するなら、たとえば評価人数が1000人集まった
時点でその点数の平均をとり、それを採点点数とするべきだ。
それ以前に採点してしまっては、採点人数の平均や全体との調和
が取れないだろう。ほんとうの評価にはならない。
採点点数には責任を持つべきだ。それを売りとするなら。
様々な舌を持った人がそのらーめん店のらーめんを食す。
そして個々の好みで点数をつける。
こうすれば参考資料になるだろう。うまいまずいの感覚もある程度
参考にできるだろう。平均的なのだから。
評価期間も大切だ。リアルタイムの情報を不平等なく解析するなら
期間を決め、一気に採点しなければ、比較評価は無理だろう。
たとえばユーザーの投票に関しても、期間などはなく垂れ流しで
ずっと投票されているサイトも見かける。そしてその店が上位にくる。
投票システム、ランキングを採用するなら、もっと考えるべきでしょう。
これはまったく味の評価につながっているものではなく、店が多いとか
評価期間が長いものがおいしいといった矛盾につながる。
結局はこういう投票は期間を定め、投票参加者人数を定めないと
データにはならないのだ。
これに気づかないユーザーも盲点をつかれているので責任はあるのだが。
そこに評論家の意見などがはいるともうまさにビジネスだ。
これが情報の氾濫を呼び、業界自体を衰退に向かわせる。
らーめん店が評論家に評価されやすい味をつくり、
それに踊らされたユーザーが
その味を知る。本当においしいものはどこへやら・・・
こういった構図が蔓延してしまっては遅いのだ。
らーめんはもともと大衆文化だ。
フランス料理でもイタリア料理でもない。
それを間違えてはいけない。口コミでうまい店は広がる。
他にも、味が濃い目や薄い目などの情報がのっているが
それは、参考程度にしかならないだろう、人によって違うのだから。
そういうのは雑誌に多いが、基準がまったくない。ニュアンスだけだ。
誰が評価したかなどは一切かかれていない。
結局、不可能なことが沢山ある。
評価すべきは一人一人のユーザーだ。
マスコミでも評論家でも誰でもない。
自分でするしかないのだ。なんでも同じだ。人は一人一人違うんだから
そして店側は評価される人数の確率が多い店ほど
店の規模に関係なく、生き残っていくと思う。
要は生き残るために、
本当においしいものを追求していくことに変わりはないのだ。
らーめん業界も健康をもっと考えていくべきだと最近感じる。
そのうちそういうブームがきそうな感じがする。
他の食はみなそういう道をたどった。
高齢化社会にも対応していかなければ生き残れないだろう。
ただ人ってオイラも含め、体が悪くなるような物が大好きな動物なんだけど
オイラは毎日テイスティングもするし食べるし、
店員も毎日食べるし
健康によくて、うまいらーめんを作ることに尽力していけば良いと考えます。
マスコミや評論家やいろいろな雑誌、サイトなどを悪いとは言わない。
私も楽しんでみて、らーめんなら”うまそ~~”ってよだれを垂らし
楽しい気分にさせてくれる。お店の情報を欲しいものだ。
しかし採点や評価をするなら評価や採点には公衆に発信している以上
もっと責任を持つべきだと思う。
これが今日のお話でした。
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