
恵まれた環境と言えばそれまでかもしれませんが
うちには
ずいぶん前から車がありました。
団塊世代の父にとって
そしてその父に育てられた僕とその兄も
あの当時
100万長者という言葉に世間はみんな?憧れたものでした。
100万円!!!?
そんな大金どこにあるん!?
て話でしたけれど。
僕が小学校の頃うちには確かトヨタのコロナ2000ccがありました。
父は”2000GT”と読んでいましたが
本当にあれが2000でGTだったかどうかは定かではありません。
ただ。
覚えているのは
父が乗ると
途方も無いスピードと途方も無い横Gと助手席のギリギリにいつも迫り来る
”ガードレール”が其処にありました
今思い出しても
ぞっーーーーーー!とします。
大人になってわかりましたが
あんな事をするのは
F○ドライバーのモナコのセナくらいのもんです(あくまでイメージです)
”あれ”を家族だろうとお客様だろうとお友達だろうと親戚が乗ろうと
やるわけですから
家族として家族以外の人を乗せるときは
”うちの車危ないけど、乗ってもいいけど大丈夫ですか!?”
とお伺いの誓いの一つも立てなければならない。
そもそも何が大丈夫なのか?
それすら説明が付かぬまま
10年が経ち同級生の影響もあり
F1とWRC好きの当時の少年であった私は苦労して運転免許を取得した。
初めて免許を取った暁の指導者は鬼の父である。
”優しいはずの兄”は僕にカローラだけを託し 転勤でほとんど自宅には居なかった。
僕のとろすぎる運転にイラツキ横ではため息を付きまくる父・・・
父の存在だけで
手に汗を握る・・・
何を言い出すかいつ怒り出すかわからない・・・
そんな人であった。
今思うと、運転だけで言えばとんでもない”危ないサラリーマンだった”と振り返る。
意外にというか当たり前だが
レーシングテクニックなど教えられるはずも無く
そもそも車は好きだが”運転には不向き!”父には判断された
我が家では出来損ないの息子と言われ育ってきた私にとっては
当たり前の状況であった。
スピードで言うと60Km/H以上が出せない駄馬である。
その頃父は一番好きだったと思われる
ジャパンスカイラインを売り飛ばし兄と共同で購入したローレルメダリストターボにチェンジしていた。
兄が買った虎の子のカローラGTは駄馬である私に手渡された。
私はあの頃アルトワークス、プレリュード、セリカXX(メカドックの影響)が欲しかったのだが
父に相談したら死ぬからやめろ!と一刀両断であった。
警察よりも法規や道や車に詳しく
その頃の車に関することは
父に聞けばいいとさえ思っていたほどだ。
しかし
その後
峠を駆け回る日々に変わり出した頃
私は転勤で単身岡山に乗り込み
モータースポーツを始めることになる。
それから1年
広島に帰って来た時
父は商売を始めてすぐで
一人で出来る訳も無かろうと
次の仕事が決まるまでやってみるかと
思ったのが今の仕事の始まりである。
最初の会社の車は1300のカローラワゴン1300DX
FRカローラ時代最後のワゴンである。
1300のボディに非力なエンジン満載された荷物に脚立を装備したはずの
車がとてつもないスピードでコーナーを山を谷を駆け回る
父の横に乗ると車は性能とかエンジンとかそんなのは関係ないのだと
本当にそう思っていた、特に雨の日・・・・
怖すぎて言葉にならない。ドリフトこそしていないのに。
説明ができないコーナリングスピードと安定感だった。
Gを逃がすとでも言うのだろうか?
それから1年が過ぎ運転を頻繁にさせてくれる様になった。
今でも忘れない
三次の仕事の日だった、次の日は朝五時におきて松江。
帰り道 父が妙な事を言った
”そろそろFRを速く走らせるやり方教えちゃるわ!”
嬉しかった!
その一時間半。
市内の某所で僕は信号待ちで5台目に停まっていました。
反対車線を走ってきたRX-7が雨でスリップして
中央分離帯を飛び越え
カローラワゴンの運転席に飛び込んだ・・・
筈でした。
写真は載せませんが
カローラは衝撃で4輪がバーストし
全部の窓が割れ
父と私は救急車で病院に運ばれました。
サイドブレーキは強く引きフットブレーキもちゃんと踏んでいたおかげで
後続車にはカローラからのダメージはありませんでした。
その日から
”走り屋”
という言葉に疑問を抱くことになります。
長いので書きませんが
次の日も休まず
松江に向かっていました
私は脳に衝撃が残り
痛みは当分消える事はなかった。
ただ覚えているのは
父の仕事に対する執念
それでしかなかったと思います。
それからカローラワゴンはこの世を去り加害者からは中古のFFカローラが支給されました。
それから
仕事も安定して僕が”クラウンに乗りたい”という父に
父らしい車をとスカイラインワゴンGTパサージュターボを買わせました。
マニュアル命だった父にオートマを渡したのは間違いだったかなと
思いましたがATしか発売されていなかったのです。
中古ですが良い車でした。
不意の手違いでジャパンスカイラインを手放してしまった父に
これほどハマル車は無かった。
ホントに水を得た魚のような走りでした。
スカイラインに対する熱い想いを沢山伝えてくれました。
良い車でした。(これも5ナンバー最強ですパワーは無いですけどね)
その後父はセレナカーゴに乗り
まぁよう壊れました。
よく走りました。
雨の日にサルも木から落ちるで
テールスライドを起こし事故もしましたが
リカバリーがすごくて、大した破損も無くそのまま仕事に良く行けたと
今でも覚えてます。
ただ・・・老いた父を責める言葉は僕からは一言も吐きませんでした。
そして父が会社を始めて遂にマイカーを買うと言うので
やっとクラウンか!
と思ったら
僕のシルビアと会社のADバン、そして上のセレナを面倒見てくれていた
日産プリンスで売られている
グロリアグランツーリスモ
1800ccの4気筒モデル(たしか185万かなにかでクラウンより少し安かった)
何故クラウンにしない?当時お付き合いがあったアリスト(初代)の方がまだ合っている。
と言うかエンジンが間違っている。
辞めなさい!!頼むから!!
試乗車に乗って5分も経たず父は僕の言うことが全部当たっていると判断し。
諦めて帰ると思ったら
なんと判子を突きました
グロリア3000 VG-30E(シングルカム)・・・・・シングルカムは無いやろう・・・と思いましたが
父がどうしてもと言うのでBBSとリヤウイングは僕の好みで付けました。
だって
車を買う為に
私の愛していたシルビアK’Sの極上車をここで下取りで手放すんですから。
”それがおまえの龍になるのかい?”
と解る人にしか解らない独り言を父に感じたが
まぁ買ってしまったモノは仕方がない。
絶対しょっちゅう乗りますから。
と父は母と僕に公約を立てたのだが
それから
なんどか買い換える話を父に持ちかけたが(特にBCNR33オーテックが出たとき)
母が乗りもしない車にお金使うなといつも怒っていた。
父にとって”クラウンに乗りたい”気持ちは決して消えることが無く
クラウンもしくはマジェスタがモデルチェンジを繰り返す度に
ええのう~ええのう~
とぼやいていた。
それから14年後。
父から車を買わないかと僕に持ちかけてきた言葉があった。
あの時の
シルビアを手放したことをやっとわびる気になったか!”ドあほう!”
父はC型肝炎を煩い近いうちに長期での入院が決まっていた。
たまに帰ってきて車に助手席で良いから乗せて欲しいと言う話だった。
もちろん
グロリアを全否定したわけではない
14年乗って僕は僕なりにあれを乗ってきたつもりだ
たった7000Kmしか走っていない極上車に敬意を払い
VG3000E型エンジンに鞭を入れ峠を駆け抜けてみた事もあった。
明らかに ”場違いである”
”予算は!?”
と仕事によって明らかに僕の自由な人生を奪った代償を”少ない言葉で父に求めた”
なんぼでも良い。(おいくらでも良いですよと言う意味)
クラウンにマニュアル車が消えてから既に半世紀か・・・
その話し合いに同行したのは
父と母と嫁と私。
押し入れの上から隠していたカタログを持ってくる私。
出した車は
BNR32
BCNR33(オーテック)
BNR34
クラウン(沢山)
チェイサー
アリスト
この中ならどれ?
と父に問うとおもしろいことを言う
”おまえが好きなモノに乗れ”
じゃあこれ!!
前にも言ったけど僕にはこれしか好きな車はこの世にない。
父は言った
もっと新しい方が良くないかなぁ?
ならこれ
こっちの方が良いじゃないか!
(口先だけである)
そう?
ならこれは?
おおお!!それにせい!と父は喜んだ。
ほれ見ろ
俺の意見はそこにはない。
その時そろそろかなと密かに貰ってきていた見積を差し出す
275万円
BNR34ブルー(中古車)
まぁ・・・ええんじゃないか?
値段を重視してさらに父に見せる
275万円である・・・・
あるの?
グロリアが100万で売れるだろ!
馬鹿だこの人は・・・・・
と同時に父の中の予算が見えた。
それから僕は手を尽くし
グロリアを17万円という値段で買ってくれる知り合いの社長を見つけた。
それから
僕は
長い長い旅になるが
世界中の高級車+マニュアル車を探すことになる。
そして見つけた。
ベンツとBMWのマニュアル。
ドイツにはある。
日本には左ハンドルという僕にとっての大きなカベを外さないと
見つけることが出来ない。
それから問い合わせをしていたバルコムから
連絡が来た
BMW320iの6MTが入りました!!(中古)
仕事が終わって遅い時間に病院から父を連れ出して
杖をつく父と車を見に行った。
なんとか助手席に必死で座り込む父
まだその時は元気に見えた。
そして一時間後
はんこを突いた。
父は
駆け抜ける歓びを手に入れた筈だった。
それから現車があるのに
BMW様の厳選される200項目にも置けるチェック?
そんなくだらないモノのおかげと不意な外装の接触が合ったらしく
更に
納車が遅れる事になった。
間に合わないのではないか?
とまで僕は焦っていた。
そして予定を1週間も遅れ
父の最後の夢が我が家に届けられた。
父はたまたま年末で帰っており
部屋から呼ぶと
明らかに2週間前よりは動きが10倍以上遅い・・・
ヨボヨボしながら
何とか乗り込んだ。
自宅から20Kほど乗り自宅に帰ってきた。
満足そうだった。
僕からの”たむけ”だった(つもり)
が・・・
次の日もまたその次も日も。
父がその車に乗ることは無かった。
駆け抜ける歓び(BMW)の写真を手渡すと
病院に帰った父は本心で喜んでいた。
それから約10ヶ月後
ようやく父を助手席に乗せる機会が訪れる。
小さな箱に収まってしまった父だ。
日曜の休みの度
同じルートを同じように走る。。
それから
一年が経ち
”箱”から”墓”に移ってしまった父を乗せることも無くなり。
僕は乗りもしない駆け抜ける歓びに疑問を抱いたまま
保証の切れた高級車が置いてあった場所を
会社の倉庫に変える決意を固めた。
14ヶ月での走行距離1200Km
駆け抜ける歓びを語るにはあきらかに足らなかったかも知れない。
”おまえの好きな車を買えばいい”
そう言ってくれた父があんなにも早く自分の足で立てなくなるとは思っても見なかったのだ。
ずいぶん前だが
娘が2人生まれた頃親戚の集まりで父が自分の弟に告げた言葉がある
”昔は下手くそだったが、もうこの子の運転は誰に見せても恥ずかしくないけぇ。”
素直に嬉しかった
そんな事もあったなと・・・
書きながら 今 ふ と こんな事を思い出しました。
不覚にも書きながら泣いてしまった・・・・
結局趣味もなく車だけが好きだと言っていたくせに クラウンを選べなかった 父
焼き場に向かうときにクラウンエステートワゴンを選んであげたのを
覚えとるかい?
あなたは最後にちゃんとクラウンに乗れたんだよ。
”いつかはクラウン”
団塊世代だったからなのか・・・
今は車に憧れる若者などは極めて少ないのかもしれない。
”ココ”(みんから)には 沢山いらっしゃる のが僕にはとても嬉しいことだ♪