
友達が川崎市の明治大学生田校舎で行われる「陸軍登戸研究所」見学会へ行かない?と誘ってくれたので、行ってきた。
陸軍登戸研究所とは、第二次大戦中、毒ガス兵器やら生物兵器やら研究していた場所で、悪名高き731部隊とも関連のあった場所だ。
廃墟好きなので、戦争遺跡がある場所として登戸の名は知っていたが、行った事は無かった。その遺跡を巡るガイドつき見学会が定期的に無料で開催されており、2010年に出来た登戸研究所の資料館も併せて見学出来るという。一度行ってみたかった場所だけに気軽な気持で参加した。
さすが親友!わしの廃墟趣味知ってて誘ってくれたんだ!と言ったら、
「え?違うよ?登戸研究所は中沢に来てたって知らなかった?その辺り詳しく知りたくて、見学会へ行きたいなと思ったんだけど…。年明けにも中沢の研究所に関する新資料が発見されたって信毎にあったんだよ」
何いぃ〜?!中沢に登戸?!Σ( ̄□ ̄;
実は大戦末期、この登戸研究所が、我が故郷・長野県駒ヶ根市の中沢地区(当時上伊那郡中沢村)に疎開して来ていたのだそうだ(!)
身近な戦争体験といえば、父の一番上の兄(私から言えば伯父)は、軍属(大工)としてニューギニアへ出征し、遺骨も帰って来ていないとか、先日亡くなった父のすぐ上の兄も、満蒙開拓団として満州へ渡りシベリア抑留の経験がある人だったと言うくらいで、体験談を聞いた事もなく。
子どもの頃、戦前生まれの父母に戦争中の事を尋ねても、当時は小さな子どもだった彼らからは、のんびりした話しか聞けなかった。遠く空を飛んでいくB29の機影を見たとか校庭の防空壕の上にサツマイモを植えたとか…。山の中のど田舎ということもあり、戦争といっても遠いものだったんだなと思っていた。
それなのに、国の最重要施設が自分の故郷にあって、戦争がこんな近くまで忍び寄っていたとは…。
しょっぱなめっさ驚いてからの、見学会となりました。
見学会は申込制で、始まる13時にはけっこう人が集まってた。
登戸研究所について研究をされていた先生をガイドさんに、学内に残された遺跡を巡り、その説明を受ける。トップの写真の動物慰霊碑の建立者は登戸研究所。その成り立ち、そして現在までここにあり続けた数奇な偶然。なんかもういろいろすごい。
70年以上前と変わらないままの所と説明されると、なんとも不思議な気分…
さすがに戦後70年経って当時の建物とかは大分無くなってしまっているけど、コンクリ作りの建物とかは残ってて。

そのひとつが今回の見学会の目玉の「
明治大学平和教育登戸研究所資料館」。ここでいろんな細菌やら化学兵器を作ってたと思うと、あんまり気持いいもんじゃない…(^^;;;
詳しくは、この見学会に出て見ていただくとして。
それでもこの場所が、こうやって残って来れたのは広大な敷地をそのままに、大学の施設として使われて来たからなんだそうだ。
登戸研究所についての詳しい研究は、戦後40年以上経ってやっと始まったということだけど、調査に当たったのは川崎と駒ヶ根の2校の高校生たちだったことに驚いた。しかも、その高校生とは私と同年代の人たち。
20年以上前に、こんな活動をしていたなんて全然知らなかった…。
敗戦を機に、研究内容の発覚を恐れて公的な資料は処分されて残っておらず、関係者は誰も語りたがらないゼロから調査活動。
いわゆる軍事機密だから、研究所にいた科学者たちはもとより、研究所に勤めていた一般市民まで、研究所内の事は他言無用と厳しく教育されていた。戦後もその戒めは心を縛り続け、そこで見聞きした事は墓にまで持って行くと決めている者がほとんどであったという。
その頑な心を動かせたのは、調査していたのが自分の孫と言ってもいい年齢の高校生だったから。大人達には話せないが、未来を担う君たち若者なら…と話してくれたそうだ。この後も地道な調査を続けていく中で、失われたはずの資料が時を同じくして出てきたり。登戸研究所の真実を知るためには、この40余年は必要な時間であり、また最後のチャンスだったんだと思う。
見学会の後、彼らの調査活動をまとめた本『高校生が追う陸軍登戸研究所』を図書館から借りて読んだんだけど、奥付には小学校時代の同級生の名前があってまたビックリ。
高校生達でなければ、知り得なかった研究所の真実。とても分かりやすくまとめられているので、登戸研究所に興味のある方はご一読を。
それにしても真実を語る、たったそれだけのことに40年もの月日が必要だったことは、戦争の罪深さを如実に物語っているように思う。
さて、資料館では「風船爆弾」が実はスゴかったことに驚いた。
歴史の授業で風船爆弾の話を聞いた事はあった。
名前の「風船爆弾」というのんびりしたイメージと素材(紙とコンニャク糊で作った)から、日本軍の戦争末期の悪あがき的な稚拙な兵器とも呼べないような代物だと思っていたけど、実際は当時の物理学、気象学、細菌学などを駆使した恐るべき兵器だったのね…。
サイズも直径10mもあり、風船というより本格的な気球。この風船は女性や子どもたちが、丈夫な和紙を幾重にも張り合わせ作っていた。この作業の影響で、少女達は肺を悪くしたり、指紋が消えてしまったり、生理が止まったりしたそうだ…。
<写真…明治大学平和教育登戸研究所資料館ガイドブックより>
デカ!!
ゴムではなく和紙を使った(もちろん物資の不足もあるだろうけど)のも、上空での気圧や気温の変化にも対応出来るように考えられていた。ヘリウムではなく安価は水素で膨らまし放球。夜間の気温低下による高度落下は搭載された気圧計による自動操作でバラストを放出して高度を確保。
動力は無いが、冬の偏西風に乗せることでたったの2日半でアメリカに到着。なんというエコ兵器!何処につくかはまさに風任せだけど…
終戦の半年ほど前に約10000発(!)放球、アメリカ大陸へは1000発弱着弾したらしい。実は20世紀において、アメリカ本土を直接攻撃したことがあるのは、日本だけとのこと。
風船には浮力の関係で小型爆弾が1発。
風任せの風船に載せて、アメリカの広大な国土のどこにつくかも分からない、しかも小型爆弾1発では大きな打撃を与える事はできない…。そんなことくらい分かりそうなのに、何故こんな風船爆弾を作ったのか?とお思いでしょうが、本来の計画では細菌をばらまく予定だったと言う。
つまり、農作物を壊滅させる病原菌や強力な害虫、さらに牛を殺すための牛疫菌をばらまき、アメリカの「胃袋」を叩く作戦だったのだそうだ。だてに国の頭脳が研究してなかったよ。この発想は無かった…。
結局この作戦は、収穫期の稲を焼かれる報復を恐れて中止されたそうだけど。
風船の飛行実験の段階ですでにアメリカはお見通しで、漂着が考えられる西海岸では警戒してたとのこと。
当時でも使用を禁止されていたBC(生物・科学)兵器。もしウチに使うなら報復するぞ!と先にアメリカから釘を刺され、中止に至った経緯があるようだ。
元々この風船爆弾は、心理的動揺を誘う謀略作戦の意味合いが強かったという。
当初アメリカは、日本の作戦の意図を汲み、この爆弾が飛来した事を報道しなかった。そのためか爆発せずに不時着していた風船爆弾を、それとは知らずに触ってしまった子どもたちと先生が爆死。アメリカはこの風船爆弾による死者(6人)が出るに及び風船爆弾に関する報道管制を解除、日本への攻撃の気運が高まったというんだから、もうなんちゅうか…。
この亡くなった6人が、「ピクニック」中にこの悲劇に見舞われたと聞くにつけ、当時の国力の差をまざまざと見せつけられる思い。片やアメリカの子どもたちは戦時中と言えど平時と変わらぬ平和な生活を続けられていたのに、片や日本では子どもたちすら風船爆弾という兵器を作らされていた。なんという皮肉。日本は空襲等で市民800,000人殺されてるし。やりきれん。
他にも登戸研究所は、怪力光線(電磁波ビーム)の研究とか、陸軍中野学校との繋がりでスパイ用アイテムを作ったり、偽札を作って中国経済を混乱に陥れようとしてたそうで。偽札と聞いて、ついリアル「カリ城」じゃん!!と思ってしまったの仕方ないですよね?(爆)
もう、いろんな意味で何重にも衝撃的でした。
見学会から帰って本を読んで、その中に出てくる言葉(帝銀事件・悪魔の飽食・戸山陸軍跡地の人骨)を調べたら、気分悪くなって来た…。その後も戦争はいろんな所に黒い影を残してるのね…。本当に罪深い。
人を正気のまま狂わせる戦争は、本当に恐ろしく愚かな事だと改めて考えさせられました。戦争、ダメ、ゼッタイ。
ちなみに登戸研究所の研究員は誰も戦犯に問われていないのですってよ。
とかく東京大空襲や広島長崎の原爆による被害など、被害者として語られがちな戦争体験ですけども、戦争の当事者・加害者としての日本の歴史にも目を向けることは、必要な事だと思います。
戦争遺跡を老朽化等で取り壊すなんて話も聞きますが、負の遺産としてのこれらを残し見ることで、その愚かさを体感する事は大切な反戦教育になるんじゃないかと。
以前Nスペで何度も開戦までには回避出来るチャンスがあったのに、それをスルーして戦争に突き進んでしまったと言っていた…
はたして今後もしそのような事態が起きそうになった時、私たちはチャンスを見逃す事無く踏みとどまれるだろうか?
戦後70年の節目、今またきな臭さを増す世界。どうか戦争を肯定する日本になりませんように…(>人<)
見学会にでなければ、この事実を知る事も無かった。
誘ってくれた友人に感謝!
※一度mixiに『高校生が追う陸軍登戸研究所』のブックレビューとして書いたけど、本の内容以外の事も書きたかったので転記&追記しました