
「使い捨てライター」
マッチ、燃料補給可能なライター、それまで身近にあった発火器具を、短期間に殆ど全て駆逐してしまった、画期的な商品だと思う。
発売当初は企業努力による、国内生産としては驚異的な100円と安価で、寿命も数ヶ月。燃料や発火石の補給コストより安く、なくしても気にならない価格が大きな武器となり、従前のライターを一気に駆逐してしまった。
それまでは「ダンヒル」「デュポン」「カルチェ」といったブランド物が良く見受けられたが、「100円ライター」の出現以後は、ブランド物を持ち歩くのは「ダサイ」「時代遅れ」「変態」とさえ言われかねない風潮すら確立した。
かくして、どこのお宅にも、そこらじゅうに使い捨てライターが転がり、金属部が錆びた古い物でも、親指で押しさえすれば「シュポッ!」と点く。ガスの持ちも長く、ガス切れ前に行方不明になるのが殆どだった。
これだけ普及すると、自然と子供達が触る機会も増える。そこで行政指導で安全対策した新型への転換が強制された。この不景気、値上げもできず、設備投資の負担や製造コストの増加は経営を直撃し、大半は壊滅するものと思われた。
・・・が、私の読みは甘かった。業界は販売量の増加でコスト負担を乗り切った。
例によって独断と偏見で誠に穿った見方だが、最近の使い捨てライターは極めて持ちが悪い。1ヶ月持たなく、酷いときにはお店では点火OKでも、翌日には使用不能になる。新品時の充填ガス量も減っているが、十分残っていてもバルブの故障か点火不能になる。まあ、「点かないライター」は究極の安全対策とも言えなくもないが・・・
かくして私の身の回りには、「使えないライター」が氾濫することになった。
アジア製に代わったためか、露骨なコストダウンも目立ち、充填可能かと思いきや、ダミーの注入バルブ、底にある火力調整ねじは、ただの木ネジでこれもダミーなんてのもある。アジアの市場にいっぱい並んでいる、中身空っぽのダミー携帯電話のノリだ。見栄で使い捨てライターを購入する人はいない。
そこでガス切れになった古いタイプに、ガスを充填して再生しようと試行錯誤した。製造コストのうち、ガスの占める割合は0.数パーセント程度だろう。ガス切れだけで捨てるのには、元々抵抗を感じていた。
だが、やってみると極めて難しかった。ライターのバルブは、ノズルを引くと開く構造だが、これは充填するにはボンベの先を押しつけるのと矛盾する。とにかくガスが入らなく、大半は空中に漏れてしまう。
勿論やってはいけない事。よい子の皆様は絶対真似をしないでください。
色々考えたがどうやら無理そう。諦めかけた時、ふと閃いた。
目的はガスを燃やすこと。ボンベにはガスがいっぱいあるが、ライターにはない。ライターは道具であり手段にすぎない。なら、いっそ清くいっぱいあるところに直接・・・
これは更にやってはいけない事。よい子の皆様は絶対真似をしないでください。
私は問題を解決する時には、まず目的を単純化し、「絶対外せないもの」と「あれば良いもの」、つまり幹と枝葉に分ける。
資源、手段、品質、時間、コストのバランスを考え、実現策を練るが、「シンプル・ソリューション」・・・つまり単純な解決法が、往々にして最善であることが多い。
こう言えばいかにも聞こえが良いが、本当は生来の無精と、我が身のアホさゆえ、数バイトの超揮発性メモリーを特徴とする、私のオツムでは、物事を難しく考えられないし憶えられない。生体防衛本能で、ややこしい事には拒絶反応を起こす。私には単純策しかないのだ。
「シャンパン・タワー」、シャンパン・ツリーとも言うが、ご存知のようにグラスをピラミッド状に積み上げたものだ。超豪勢な結婚式やパーティー、昨今ではホスト・クラブでの散財勝負でご婦人方が火花を散らす催しだ。
頂上のグラスにシャンパンを惜しげもなく注ぐ。したたり落ちる流れで、順次下段のグラスが満たされ、最後的には底辺のグラスもシャンパンで満たされるというものだ。
ホスト・クラブでのお祭り騒ぎで収まっていれば、害はないが、転じて記号化され、政府の雇用対策や景気浮揚策でも多用されている。社会の頂点と
騙される称される、公共投資、特別会計、都銀、経団連幹部企業に巨額を投入すれば、やがては最下層である庶民まで潤い、メデタシメデタシ、万事丸く収まるという「金科玉条」だ。
しかし「シンプル・ソリューション」を「金玉極上」と自負する私にとっては、酷くまだるっこしい。第一に最下段が満ちるまでに時間が掛かりすぎる。もし途中で「溢れさすのは絶対ヤダ」と溜め込まれたら、下まで届かない。中段にウワバミもどきのおっさんが群がって、全て飲み干されるかも知れない。漏れて行方不明になる量だって半端じゃない。
もっと酷いのになると、実は内輪だけでこぢんまりと固めた、別のシャンパン・タワーに注がれていたという錯誤狙いのもある。いつか来るものと、気長に待っていたら、宴会はとうの昔に終わっていたてなことになる。
底辺のを満たすのが最重要目的なら、当然一番下に直接注げば、確実速効なのは当たり前だろう。
町中で、よたよたと力無く歩く、痩せこけた餓死寸前の、ご老人を見かけることがしばしある。シャッターの閉じた店先に、生死不明の状態で横たわっていらっしゃることもある。
妄想を常々の習わしとする私、「このままでは、あと何日持つか?」とつい想像してしまう。「苦しむ他人を見るぐらいなら、自分が苦しむほうがマシ」という気もある。
「おっちゃん。最近メシ食ってるか?」
「いや」
「これで食えや」
「えっ?」
「これも」
ついでにタバコの箱とライターも渡す。
私も紙一重どころか、原子1個レベルの超ハイテク・ナノ薄膜レベルの差異。「明日は」どころか、「現在進行形で我が身」であるという同士感もある。
この先当分稼ぎの保証がある時には、家にたどり着ける額を、財布に残して、あとは渡したこともある。本当は財布ごとが漢らしいのだが、所詮小物ゆえ、そこまでの男気を、持ち合わせないのが恥ずかしい。
「失礼かも」とか「このぐらいでは」という躊躇を促す理性の声もあるが、「今、あの人にとっては自分は神様になれるかも。神様は助けるのが商売」という、誠におこがましい自己陶酔の念に従っている。
もちろん焼け石に水であることは重々承知。偽善にすぎないこともだ。
幸い今まで怒った方は皆無だった。ボロボロ涙を流しながら、何度も「ありがとう。ありがとう」を連発し、私の姿が見えなくなるまで、手を合わせて拝んでくださった方もいらっしゃる。ただの通りすがりのエロジジイには勿体ないことだ。
ほんの一瞬ではあるが、正に私に神様を演じさせてくださった、ありがたいお方だ。
ある夜中、枕元に小綺麗な白い衣を身に纏い、長い口髭をたくわえ、あご髭も胸元まで垂れた、光に満ちた爺様が現れる。
「お前が昼間に会ったのは、実はワシじゃ」
「何でも願いを叶えてやろう。遠慮なく申せ」
「まずは金髪のロシアン・ネータンと、ピンドン満たしたシャンパン風呂と、バケツ一杯の大粒イチゴ」
「ハリヤー・・・トヨタのじゃなくホーカー・シドレー製のな。空飛ぶやっちゃ。と、一生分のスペア・パーツと燃料」
「・・・ついでにF1も・・・、それからヨットもええな」
「グロックの9ミリ17連発・・・」
「帰って寝るわ。好きなだけ朝まで言うとれ」
や
「昼間にお前がくれてやったのは、どれじゃ?」
と、「1.薄いしわくちゃの札数枚」、「2.十文字の帯封付き札束」、「3.金の延べ棒ひと山」の3種を、目の前に並べられる。
「ハァハァ」と涎を流しながら、先読みをして知恵比べに悩む「決められない」私。
もし、正直に1.を選ぶと、
「正直なやつだ。その心がけを肝に銘じ、これからも精進するが良い」
「・・・で?」 (ポカン) 「それだけか?」 (顔を覗き込む)
「然り。舌を引き抜かれなかっただけ、ありがたいと思え」
「おまえ、それ、話しが、ゴッチャになっとるやんけ」「どこの生まれじゃ、お前」
「大きなつづらなら、やれんこともないが」
「妖怪や蜂や蛇なんぞはいらん」「何しに来たんじゃ、ワレ」
「さらばじゃ」 (煙が出始める)
「おぃっ! こらっ!」「ちょっと待ったれや」「置いてかんかぇ」「ジジイ!」「クソジジイ!」
になっても困る。
はたまた、ある日突然、運転手付きのロールス・ロイスが我が家の前に止まり、出てきた執事が
「実は昼間の老人は私の主でして、あれは道楽がてらの仮の姿。莫大な資産を有効に継承してくださる方を・・・」
「・・・やっぱり。そうか。そうちゃうかと思とったんや」
「身なりはアレやけど、気品は隠せんかった」
「ワシの目に狂いはなかったんや」
「さぁっさぁ。お上がり。散らかってんけど」
「昆布茶でも飲んでいき」
・・・との、私の晴れ姿をいつも想像し、その日が来ることを信じているが、神様も忙しいらしい。あいにく、まだお見えになっていない。
いずれにしても、困っている人に手を差し伸べるには、絶対直接に限る。自信を持って言える。
掴みが滑ったところで、先ほど述べた「シャンパン・タワー」理論、なんと先の大震災での、復興予算の執行にも用いられている。今回程お役人の頭の良さと、潔いほどの図太い度胸に感心したことはない。
かねてから、ドサクサに紛れて、多かれ少なかれ、こうなるとは想像はしていたが、ここまで露骨にやるとは「想定外」だった。ただただ脱帽。
「風が吹けば桶屋が儲かる」を遙かに上回る「風が吹けば火星探検が成功する」に匹敵する超新理論を、「霞ヶ関文学」全開にして「ドヤ顔」で展開している。
全省庁に「ドンドン上げてこい。ケチるな」とハッパを掛けた、財務大臣のお子ちゃまぶり。予算編成能力皆無の内閣。恒久的増税に死力を尽くし、横流し用「打ち出の小槌ち」を霞ヶ関に献納した総理。内紛に明け暮れ、事業仕分けの後はホッタラカシの議員達にも責がある。
トンデモ補助金こそ「自粛」すべきで、むしろ愚策を糾弾すべき筈の経団連。「やっちゃいけない一線」を越えた、火事場泥棒、香典泥棒同様の企業、ジャーナリズムの本懐を死語にし、バラエティと仕込みが楽な政局紛争の報道に終始するメディア。
それに詐欺師にバラ色の未来を託し、選んでしまった側にも。
衆議院解散、参議院廃止、国会議事堂すら不要かも。テレビ会議みたくネット国会で十分だろう。霞ヶ関は勿論のこと、東大も分解して、全国の大学に分散吸収させるべきかと。根本的にエリート教育自体を作り替える必要がある。いや「エリート」という言葉も、葬り去る必要がある。
ポルポトの大悪政に習い、「霞ヶ関」ごと農村に移して「再教育」すら考えたくなる。
「選挙だけでは何も変わらぬ」
「この国はとっくにもう終わっている」
「67年前にやるべきだった、敗戦処理にそろそろ取りかからねば」
と思った次第である。
9月13日 木(水曜深夜) 0:25~ NHK総合で再放送があるので、ご興味のある方はどうぞ。
一つの報道を鵜呑みにせず、裏も取るべきなのだが、若干都合の悪い部分は省略されたきらいもあるが、番組内容の大筋・基本は間違っていない。欲を言えば国会中の増税法案決議前にして欲しかったが、勇気ある制作スタッフを賞賛し、エールを送りたい。
ただし血圧の高い方は、ご覧になるのを控えられたほうが良いかも知れない。
「NHKスペシャル 東日本大震災追跡 復興予算19兆円」
待ちきれない方は(無断リンク失礼します。リンク切れ御免)