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2020年04月14日 イイね!

日常的にマスク使っているけど、ダラーラ製とか欲しいんですけど

日常的にマスク使っているけど、ダラーラ製とか欲しいんですけどレースカー製造大手のダラーラ、新型コロナに対し医療用マスクとガウンの製造で協力

 スーパーフォーミュラやFIA F2など、様々なカテゴリーにレースカーを供給するダラーラ。彼らは新型コロナウイルスのパンデミックへの対応としてフェイスマスクと医療用ガウンの材料の供給に協力している。

 新型コロナウイルスの感染が世界中で広がりを見せていることで、モータースポーツイベントは中止や延期が相次いでいる。そして感染者数が爆発的に増加し、マスクや医療用の物資が不足する事態になっている国も多い。

 こうした緊急事態には、通常は医療分野でのビジネスを行っていない企業も協力する姿勢を見せており、F1チームはそのファクトリー施設で医療機器の設計や製造などを行なっている。

 そしてダラーラもそうした企業のひとつだ。彼らは2012年に設立したアメリカの拠点で、マスクと医療用ガウン材料のカッティングを支援している。

 ダラーラのスタッフは持ち込まれた材料を必要に応じてマスク及びガウン向けにカットし、それらはインディアナポリスにある、医療機器などの製造を行なうStitchWorksへ1日に2回送られ、完成品として仕上げられると、各病院へ納品されている。

 なおStitchWorksは医療関係者のためにマスクを作製する人員を集めるため、“Million Mask Challenge”プロジェクトのいくつかのグループと協力している。

 ダラーラUSAのステファノ・デポンディCEOはindycar.comに対し、こうした動きについて次のように語っている。

「我々はこの戦いを争うために、まず医師や看護師、そして関係者全員を助けるために積極的に動く必要がある。このウイルスを可能な限り早く克服することは、皆のためになる」

「そのため、レースカーのパーツを作ることが出来ないなら、地域の助けになることや、今苦しんでいる多くの人々の助けになる事を行なっていこうではないか」

 デポンティCEOによると、ダラーラのイタリア本社では人工呼吸器のパーツを製造し、エアロダイナミクスチームがその酸素の流れを改良しようと取り組んでいるという。
Posted at 2020/04/14 23:48:52 | コメント(0) | トラックバック(0) | 自動車業界あれこれ | 日記
2020年04月14日 イイね!

こういうクルマにはこういうカバンが似合う

こういうクルマにはこういうカバンが似合うエンツォも一発OK! フェラーリやブガッティ、パガーニの公式トラベルバッグとは?【イタリア通信】

■エンツォもひと目で惚れたスケドーニのトラベルバッグ

 モデナといえば、近辺に世界に名だたるスーパーカーメーカー、フェラーリ、ランボルギーニ、マセラッティ、パガーニが存在する街だ。

 それらのイタリアン・スーパーカーメーカーだけでなく、今や世界中の自動車メーカーと仕事をしているスケドーニ。現在4代目社長のシモーネ・スケドーニ氏に話を伺った。

 1880年、シモーネの曽祖父チェルソが靴職人としてスタートしたところからスケドーニの歴史は始まる。その息子、シモーネの祖父ジュセッペは13歳で孤児になったが、父親が残してくれた靴製造機械を元に家業を継ぎ、高品質の靴作りを目指すようになった。

 そして3代目となるシモーネの父、マウロの時代から事業が拡大していくこととなる。1960年代後半は、世界的に経済成長のさなかにあり、ファッションも花開いた時代だ。マウロは靴の他にカバン、ベルト、小物類などにも挑戦するようになった。もちろん、何をするにも祖父から受け継いだ、スケドーニのモットーであるクオリティ追求の精神はしっかりと彼のDNAのなかに根付いていた。

 そして1977年にスケドーニは自動車業界へと繋がっていく。この話に入る前に、前年1976年のクリスマスの際のエピソードを記しておこう。

 マウロはフェラーリ「308GTB」を所有している叔父フランコ・フォッリのために、トランクに入るトラベルバックセットをサプライズプレゼントした。フランコは、トランクにぴったりと収まったトラベルバックを見て感動。トランクに入る丁度良いサイズのバックが見つからず困っていたところだった。

 たまたまその時に居合わせた叔父の友人で、当時フェラーリ社の営業部長であったアメリーゴ・マニカルディもそのトラベルバックを見て、「トランクのなかにこんなに綺麗に収まるなんて!」と、マウロがフランコに贈ったプレゼントをひと目で気に入ることとなる。なぜならそれは、フェラーリオーナーがまさに欲しがっていたアイテムだったからだ。是非、フェラーリ社のためにも製造してくれないか、と、話は急展開することとなる。

 そして翌年の1977年の1月に、さっそくマウロはフェラーリ本社に試作品を持って出かけた。最終判断はエンツォ・フェラーリ御大だ。

 その当時からエンツォは、世界中のフェラーリファンから神格化された存在であった。マウロ自身も大のフェラーリファン。不安と期待が渦巻くなか、生まれて初めてエンツォ・フェラーリに直接会い、試作品をプレゼンする。

 エンツォもトランクに綺麗に並んだバックを見て、あまりの緻密さと品質の高さに感動し、その場で契約の話は纏まった。

 当時、308のほかに「512BB」、「400」も生産されていたので、すぐにコラボレーションを開始することになった。マウロにとって夢の世界の話が、エンツォのひと言で現実になった瞬間だった。その日はマウロにとって一生涯忘れられない日となった。

 スケドーニはその日から、フェラーリのサプライヤーとして途切れることなく40年以上関係を続けている。フェラーリ308 GTBから始まり、400、512BB、「モンディアル」、「288GTO」、「F40」……、そして、最近発表されたフェラーリ「ローマ」に至るまで、ワンオフバージョンを含め、数々のフェラーリのトラベルバックを製作してきた。

 フェラーリの新車発表会には、必ずといってよいほどスケドーニのトラベルバックがセットとなっている。もはやスケドーニは、フェラーリにはなくてはならないビジネスパートナーなのだ。

■フェラーリだけでなく、ランボ、パガーニ、ブガッティといった一流ブランドともコラボレーション

 1983年からは、スケドーニはF1のシートも手がけることになる。どうしてスケドーニがF1のシートをつくることになったのだろうか。

 1982年、ベルギーGP(ゾルダー)の予選2日目のことだった。ジル・ヴィルヌーブのフェラーリとヨッヘン・マスのマーチが接触してしまい、その衝撃でヴィルヌーブはシートごと車外に投げ出され、コース脇のフェンスに叩きつけられて死亡するという事故があった。

 この事故から世間はF1に「安全性」を問うようになり、世間の目は事故を起こしたフェラーリに向けられた。そこでエンツォは、シートの安全性を確保するための解決策を、サプライヤーであるスケドーニに相談した。

 エンツォから直談判されたスケドーニは、先ずは資材選びから始めたという。いろいろとテストした結果、牛革より軽い豚革(ピッグスキン)の滑りにくいスウェードを選んだ。

 フェラーリから渡されたカーボンファイバーのシートシェルに、スウェードを張り、試作品は完成。その試作品をエンツォの元へ届けた。

 エンツォは、シートの出来栄えには感動したものの、なかなか金額が折り合わなかったそうだ。さすが実業家のエンツォは、最終的にこのシートは「ファンの一人としてフェラーリ優勝のために貢献したい」と、スケドーニからのプレゼントという形で決着がついた。

 こうした経緯があり、エンツォは申し訳ないと思ったのか、スケドーニのロゴをシートに大きく付けるようにマウロに直接提案する。おかげでスケドーニの名前が世界中のF1中継で時々流れるようになった。スケドーニファミリーにとって、これ以上の喜びはない。

 また、エンツォから、「剥がしたシートにはドライバー名、レース開催日、サーキット名を書き、サインをするように。このシートはただのピッグスキンではない、立派な芸術作品なのだから」と嬉しい助言までもらったという。

 こうしてスケドーニのピッグスキンのシートは、1983年の126C、ドライバーはルネ・アルヌとパトリック・タンベイから始まり2003年まで、およそ20年間も採用され続けた。

 残念ながら、軽量化のためスケドーニのピッグスキンはシートに張られることがなくなった。その後はドライビングに必要なパットのみをスケドーニは供給している。

 当時のF1では、ワンシーズンに6枚から10枚のシートの表皮が張り替えられていた。スケドーニがフェラーリに供給していた約20年の間に、およそ200枚のシートから剥がされたピッグスキンが、スケドーニ社内に保管されている。(スケドーニの社内には、フェラーリに供給していた約20年の間にたまった、およそ200枚のピッグスキンが保管されている。)まさしくスクーデリア・フェラーリのひとつの歴史といっていいだろう

 こうしてフェラーリと仕事をしていくうちに、スケドーニの評判は自動車業界に広まっていった。

 彼らの信頼おける人柄と、高い技術力は多くの自動車メーカーに認められ、フェラーリをはじめ、パガーニ、ランボルギーニ、アウディ、アストンマーティン、ブガッティ、マクラーレン、アルファロメオ、ベントレー、ロールス・ロイスはもちろんのこと、イタルデザインが手掛けた日産GT-Rにも採用されている。

 いまやスケドーニは、世界の高級自動車にトラベルバックやディーラー用の営業のためのケースを供給する一流メーカーとなった。

 スケドーニ社は、いつ訪れても、あたたかく私のことを迎えてくれる。従業員約30人。現在はシモーネの甥のアレッシオが、スケドーニ社の5代目として働いている。いずれは息子のニッコロもスケドーニで働く予定だ。

 従業員は皆家族、そんな雰囲気が伝わる古き良きイタリアの形を継承しているスケドーニは、「大勢の家族」とともに高い技術力と誠実さで、モデナから世界に挑み続ける。2019年には、新たにオリジナルのスケドーニ・ブランドを立ち上げた。スケドーニの名前を冠したバッグなどが、いずれ日本にも上陸することだろう。

 ちなみに、各メーカーのトラベルバッグが気になる人は、正規ディーラーに問い合わせるとよい(現行モデルのみ)。

・取材協力:スケドーニ/www.schedoni.com
Posted at 2020/04/14 23:46:55 | コメント(0) | トラックバック(0) | 自動車業界あれこれ | 日記
2020年04月14日 イイね!

マクラーレンの中でも別格の1台だからな〜最近はロードカー普通になってきたけど

マクラーレンの中でも別格の1台だからな〜最近はロードカー普通になってきたけど【スーパーカー年代記 048】「マクラーレン F1」はF1コンストラクターが作ったロードゴーイングカー

クルマ好きなら一度は憧れたことがあるだろうスーパーカー。その黎明期から現代までをたどる連載企画。第48回は「マクラーレン F1」だ。

マクラーレン F1(1993-1998年)
自らの名を冠したレーシングマシンを製作し、F1をはじめ多くのレースで勝利を得たブルース・マクラーレン。1970年に事故死した彼の果たせなかった夢は、マクラーレンの名を冠したロードゴーイングスポーツを世に送り出すことだった。

1992年、マクラーレン カーズ(現マクラーレン オートモーティブ)は、創始者の夢を実現した初の高性能市販車「マクラーレン F1」をモナコで発表した。エンジニアリングを手がけたのは、F1グランプリ マシンの設計でも知られるゴードン・マーレイ。デザインは、ピーター・スティーブンスが手がけた。

F1という名前が示すとおり、そのテクノロジーにはF1グランプリ マシンからのフィードバックが盛り込まれている。カーボン(CFRP)製のモノコックに縦置きミッドシップ搭載されるエンジンは、BMWから供給された6.1LのV型12気筒を4バルブDOHC化し、最高出力は627ps、最大トルクは69.3kgmを発生。当時「世界でもっとも出力の高いクルマ」として、ギネスブックに掲載されて話題となっている。

組み合わされるトランスミッションは、エンジンの後方に横向きにセットされた6速MT。最高速度は400km/hに迫っており、タイヤの性能にもよるが、もはや後2輪駆動では限界に近いものだった。

スタイルもパフォーマンスもアグレッシブだったが、けっして奇をてらったものではなく、とくにスタイルはスーパーカーのデザイン手法に則ったもので理解できた。現在のマクラーレン車にも継承される、前ヒンジのディヘドラルドア(バタフライドアとも呼ばれる)を開けると、衝撃的なシート配列が目に入る。

中央に運転席を置き、その両脇に少し後方へオフセットした助手席を左右にセットするという、特殊な3シーター レイアウトを採用していた。その採用理由は、1名乗車時の左右重量配分を適正化でき、しかもホイールハウスが邪魔しないので最適なペダル配置ができるというメリットがあると説明されている。

まるで人工衛星のようにエンジンルームの内側には遮熱用の金箔が貼られ、排気系にはインコネル合金を、ボディ外板や構造材にはCFRPを採用するなどコストを惜しまずに徹底した軽量化が図られ、車重は1140kgにおさえられていた。1億円ものプライスタッグが付けられたのも、納得できるハイパフォーマンスマシンだった。

マクラーレン F1はモータースポーツでも活躍し、1995年のル・マン24時間レースでは総合優勝を果たしている。

マクラーレン F1 主要諸元
●全長×全幅×全高:4290×1820×1140mm
●ホイールベース:2720mm
●重量:1140kg
●エンジン種類:60度V12 DOHC
●排気量:6064cc
●最高出力:627ps/7400rpm
●最大トルク:69.3kgm/4000-7000rpm
●駆動方式:縦置きミッドシップRWD
●トランスミッション:6速MT
●タイヤサイズ:前235/45ZR17、後315/45ZR17
Posted at 2020/04/14 23:43:59 | コメント(0) | トラックバック(0) | 自動車業界あれこれ | 日記
2020年04月14日 イイね!

都内とかしか乗らないならこういうのでも良いんだろうけどね

都内とかしか乗らないならこういうのでも良いんだろうけどね【なぜ?】多くのメーカーが「オールシーズンタイヤ」を出してきたワケ スタッドレスとの違いは

オールシーズンタイヤ そもそも何なのか

text:Kouichi Kobuna(小鮒康一)

3月29日に首都圏を襲った大雪。

幸いにも日曜日ということもあり、大きな混乱は見られなかったが、3月下旬以降に、都心で1cm以上の積雪があったのは32年ぶり。面食らった人も多かったのではないだろうか。

実際、筆者の周りでも「さすがに降らないと思ってサマータイヤに戻したばっかりなのに……」という声も多く、急を要する外出の予定が入らないことを祈るしかなかったようだ。

このように普段はスタッドレスタイヤに履き替える習慣のあるユーザーであっても、季節外れの降雪に対しては無力。

となると、俄然気になってくるのがオールシーズンタイヤではないだろうか。

オールシーズンタイヤはその名の通り、季節を問わず通年で使うことができるタイヤだ。冬と春に毎回行ってきたタイヤ交換の必要がなくなる。そのタイヤを保管するスペースも不要となるものだ。

もちろん絶対的な性能は専用タイヤには及ばないものの、首都圏に住んでいて冬には数回関東近郊のスキー場へ行く、というような使い方であれば十分こなせる実力を持ち合わせており、履きっぱなしでいいということは、今回のような予想外の積雪でも慌てる心配もないということになる。

欧州で火が付いたオールシーズンタイヤ需要

日本ではここ数年で一気に認知度が高まった感のあるオールシーズンタイヤだが、人気の火付け役となったのは欧州ドイツだと言われている。

日本と同じく四季のあるドイツでは、当然冬季になると冬用タイヤを装着する。

ドイツの法律では、凍結路や積雪路をいった冬の路面を走行する際には冬用タイヤを装着することが義務付けられており、サマータイヤで走行するだけで罰金と違反点数が課せられるのだ。

さらにその状態で事故を起こすとより重い罰金が課せられるだけでなく、過失割合はサマータイヤ側がほぼ100%となり、保険会社からの保険金支払いも拒否されてしまう。

つまり、冬の路面をサマータイヤで走るということは、過失ではなく故意に事故を起こしたという判断になるというわけだ。

そのため、ほとんどのユーザーが冬季には冬用タイヤを装着していたのだが、やはりコスト面と手間の面がユーザーに大きくのしかかり、通年履きっぱなしでOKなオールシーズンタイヤに人気が集中したのである。

日本ではまだそこまで厳格ではないものの、やはり交換の煩わしさやタイヤの保管場所問題などもあって、じわじわと注目を集めているというのが現状だ。

需要の高まり 各社がリリース 特色も

日本ではようやく存在が浸透してきた、といったレベルのオールシーズンタイヤではあるが、実は2008年から日本グッドイヤーがオールシーズンタイヤを輸入販売していた。

当時は輸入品ということもあり、日本の雪質にマッチせずに苦戦を強いられていたが、現行モデルは日本生産となり多くのユーザーに高い満足度を提供している。

数年前まではニッチな市場であったオールシーズンタイヤも、気づけば海外ブランドのミシュランやコンチネンタル、アジアンブランドのハンコックやネクセン、そして日本のダンロップ、ヨコハマと名の知れたブランドのほとんどがラインナップするようになっている。

これは前述のように日本でのオールシーズンタイヤの需要が高まっている表れであり、メーカー側も今後伸びていくジャンルと判断しているに他ならない。

そして多くのメーカーがオールシーズンタイヤをリリースしてきたことで、一口にオールシーズンタイヤといっても特色が異なるものが登場してきた。

大きく分けて性能的に冬用タイヤ寄りのものと、サマータイヤ寄りのものである。

これからはオールシーズンタイヤならなんでもいい、というフェーズではなく、自分の走り方や好みにあったものを選ぶ時代がやってきたと言えるかもしれない。


V字型に意味はある? オールシーズンタイヤのトレッドパターン。じつは……

「V」は性能よりもイメージ戦略!?

なぜ、オールシーズンタイヤはVシェイプなのか? 日常的に使えて突然の降雪でも走行でき、年間を通してはき続けられることで人気が高まっているオールシーズンタイヤ。オールマイティな性能は魅力的だが、今回注目するのはブロックパターンだ。夏用や冬用タイヤと、特別な違いはあるのだろうか?

オールシーズンタイヤのパイオニアであるグッドイヤーのベクターの印象が強いのか、オールシーズンタイヤのトレッドデザインは、他メーカーを含めてV字型のブロック配列、いわゆるVシェイプを採用するモデルが多い。特に乗用車用では現在のトレンドとなっている。

あるタイヤメーカーのプロダクトマネージャーに聞いたところ、ヨーロッパでも乗用車用オールシーズンはVシェイプのほうが人気が高いという。このメーカーは過去にスタッドレスタイヤに似たトレッドパターンのオールシーズンタイヤを発売したことがあるが、売れ行きはいま一歩だったという。そこでパターンデザインをVシェイプとしたモデルを発売すると一気に人気が高まったという。

ドライやウエット路面を軸とする性能を持たせた夏用タイヤと、積雪時に走行可能な冬用タイヤの性能を併せ持った全天候型タイヤであることアピールすることを目的として、特徴的なVシェイプのトレッドパターンが与えられた。オールシーズンタイヤにはユーザーへの説得材料が求められていたのだ。これはスポーツ走行を楽しむ人に向けたハイパフォーマンスタイヤとも似ている。タイヤの“顔”であるトレッドで“走りを予感”させるわけだ。

もちろんVシェイプのドレッドパターンは単なるイメージだけではない。メリットを、オールシーズンタイヤをいち早く日本に導入したグッドイヤーの担当者によると、V字を構成するグルーブによって高い排水性が得られるという。同社のベクター4シーズンズハイブリッドの場合はストレートグルーブがないが、太いラグパターンに近いデザインによってサイドに排水することでウエット性能を高めているわけだ。

バックに弱いってホント?

V字型のパターンを採用するオールシーズンタイヤはタイヤの装着方向を指定している。降雪時の圧雪路でも走行も可能だから、前進時のグリップ力は得られるが、バック(後退)時のグリップが悪いと思っている人もいるようだ。じつのところ前後方向のグリップ力は変わらない。実際に圧雪の坂道をバックで走行したことがあるが、グリップ力は進行方向と変わらずスリップすることはなかった。

お国事情が生む需要の違い

グッドイヤーの担当者に聞いた話で興味深かったのが、欧州と北米のユーザーニーズの違いだ。欧州は降雪地域が多く、特にアルプス地方などでは高低差が激しいためオールシーズンタイヤでもスタッドレスタイヤに近いスペックが要求されるという。また、ドイツでは冬季は冬用タイヤの装着が義務化されているため、スノーフレークマークが付いたタイヤが必要となる。これに対して北米のユーザーは多少の雪でも走ることができれば気にしないようなのだ。これは新車時に装着されている純正タイヤの影響が大きいようで、北米では約90%がオールシーズンタイヤを装着。リプレイス用の市場構成比もほぼ同じだという。これはオールシーズンタイヤのほうがサマータイヤより一般的という、北米市場ならではの事情があるからだ。

〈文=丸山 誠 写真=山内潤也〉
Posted at 2020/04/14 20:12:19 | コメント(2) | トラックバック(0) | 自動車業界あれこれ | 日記
2020年04月14日 イイね!

スターリング・モス氏亡くなられたか…90歳だったんですね

スターリング・モス氏亡くなられたか…90歳だったんですね【偉業読物】モータースポーツ界のレジェンド スターリング・モスが逝去

F-1グランプリでのレジェンド、イギリス人のスターリング・モスが2020年4月12日に逝去した。享年90歳。スターリング・モスは現在のような極度にビジネス化したF1グランプリとはまったく雰囲気の違う戦後のF-1グランプリをはじめ、様々なレースで活躍した最後のドライバーだ。

幅広いレース参戦

スターリング・モスの両親は、イギリスのアマチュアレーサーであり、父親は歯科医で、母親もまたアマチュアレーサーで、その夫婦の間に1929年、誕生している。モスは9歳の頃から自宅の周りをクルマで乗り回していたという逸話もある。

戦後、1947年から各種のレースに出場し始め、1948年にはフォーミュラ3で優勝を果たし、その後も様々なカテゴリーのレースで活躍しイギリスで注目を浴び始めた。

そして1951年のF-1スイス・グランプリにイギリスのレース・コンストラクターのハーシャム&ウォルトン・モータースのマシン乗ってF-1グランプリにデビューを果たした。その後はイギリスの様々なチームのF-1マシンに乗ったが、いずれのマシンも戦闘力は低く成績はぱっとしなかった。その一方で、1952年にサンビームに乗ってモンテカルロ・ラリーで2位に入賞するなど、現代のF-1ドライバーとは違って幅広いカテゴリーで活躍している。

その後、モスは自費で購入したマセラティ250FでF-1グランプリに出場して才能を見せた。その結果、1954年にマセラティ・ワークスチームに加わることができた。しかし翌年には最強のチーム、メルセデス・グランプリ・チームに加わり、エマニュエル・ファンジオとともにグランプリ・レースに出場し、イギリス・グランプリでは優勝するなど活躍してシリーズ2位の成績を残している。

またF-1だけではなく、世界スポーツカー選手権でもメルセデス・ベンツ 300SLRに乗り、マニファクチャラーズ・チャンピオンを獲得。さらに公道レースのミッレミリアにもナビゲーターとして出場し優勝している。

クラッシュの後遺症

1956年からは再びマセラティ・チームに復帰し、シリーズ2位となっている。そして1958年にはクーパー・クライマックス・チームのミッドシップ・マシンに乗り、アルゼンチン・グランプリで優勝し、ミッドシップのF-1マシンとして初の優勝者になった記録を残している。ただ、この年には最多の4度回優勝を果たしたにもかかわらず、シリーズ・ポイントは2位に終わっている。

その後は、BRP、ロータス・チームを渡り歩くが、1962年にクラッシュ事故を起こし、頭部に重傷を負い昏睡状態に。その後は意識が回復したものの後遺症が残ったといわれている。モスは、その後レースに復帰しようとするが、思い通りに走ることができなかったため、32歳と早すぎる年齢ながらF-1レースからの引退を決意した。しかし、その後はツーリングカーレース、ヒストリックカーレースなどには出場しており、レースに対する情熱は途切れることはなかった。

そして2000年にモータースポーツの発展に貢献したとしてイギリスで「ナイト」の称号が与えられ、スターリング・モス卿と呼ばれることになった。 1度もF-1グランプリでシリーズ・チャンピオンの座につくことはできなかったが、イギリスでは英雄であり、「スターリング・モス・イングランド」と宛名を書くだけで手紙が届いたという。

また50年代から60年代は、イギリスの警官がスピード違反のクルマを止めた際に「スターリング・モスにでもなったつもりか」というのが常套句になったという。また映画「007カジノロワイヤル」にもゲスト出演をするなど、まさに国民的な人気者であり、ヒーローなのだ。

晩年、マセラティの100周年を祝うイベントにモスは参加した。ミュージアムに展示されていたマセラティの名車の数々を目にしたモスは、一つ一つのモデルを事細かに説明した。「250Fは高速マシンとして、すべての動作においてドライバーを満足させたモデルだった。300Sは素晴らしいバランスと並はずれた運転のしやすさを備えた1台。そしてこのふたつの特長を併せ持ったのが、ティポ61バードケージでした」と語っていた。

当時のF-1グランプリのサーキットは、ガードレールも少なく、エスケープゾーンも極めて狭く、非常にリスキーなコースだったが、そうしたサーキットでモスは巧みにマシンを操ることができた。またF1だけではなくスポーツカー耐久レース、公道レース、ローカルなツーリングカーレースにも積極的に参加するなど、最後の、本物のレース・エンスージアストだったということができるだろう。


スクーデリア フェラーリ、サー・スターリング・モスの逝去に追悼を捧げる

フェラーリにとってもっとも恐ろしいライバル

2020年4月12日、サー・スターリング・モスがこの世を去った。スクーデリア フェラーリは「最も恐ろしいライバルのひとり」の逝去の報に接し、追悼文を捧げた。以下、訳文を掲載する。

スクーデリア フェラーリは、1950年から1962年の間にサーキット上で最も恐れるべきライバルのひとりであったサー・スターリング・クロフォード・モスに敬意を表する。いかなる時も彼が偉大なるレーシングドライバーのひとりであることに疑いの余地はない。モスはイースターの日曜日、ロンドン・メイフェアにある自宅で亡くなった。御年90、彼の傍らには奥様のスージー、レディ・モスが付き添っていた。

自動車と恋に落ちた英国少年

スターリングはモータースポーツ一家に生まれた。父親のアルフレッドは裕福な歯科医であり、才能あふれるアマチュアレーサーであった。1924年のインディアナポリス 500では16位という記録を残している。母親のアイリーンもまた同じ時期にヒルクライムレースにたびたび参戦していた。

スターリングと妹のパットは乗馬の世界で優れた才能を開花させていたが、少年は自動車に恋をした。17歳になると、こっそり自分でMGを注文して父親のサインも代筆した。アルフレッドは当初そのことを喜んでいなかったが、彼のレースに対する情熱がいかほどのものかを知り協力することに決めた。そして自分のBMW製スポーツカーでレースすることを許可したのである。

パットもまたその道に続いたが、兄とは違うラリーを選んだ。フランスのミシェル・ムートンが登場するまで、彼女はラリーフィールドで最も成功した女性ドライバーであった。

エンツォ・フェラーリが目をつけた才能

1950年代初めになると、モスはいよいよ頭角を現した。1951年のスイスGPでアルタ/HWMのマシンに乗ってフォーミュラ1デビューを飾った。さらに、フォーミュラ2の戦績にエンツォ・フェラーリが関心を寄せ、同年9月にバーリで行われるF1グランプリのノンタイトル戦に自社のシングルシーターで出場しないかと持ちかけた。

しかしモスがどうにかこうにかイタリアのプーリアに辿り着いたとき、彼のマシンがすでにピエロ・タルフィに託されていることを知る。21歳の英国青年は激怒し、二度とスクーデリアのために運転はしないと誓って家に帰っていった。彼が携わったチームはメルセデス、マセラティ、ヴァンウォール、BRM、クーパー、そしてロータスである。

ドライバーに対する優れた観察眼をもっていたエンツォ・フェラーリは、モスの才能にいち早く目を着けた。エンツォは自著『piloti, che gente・・・』の中で、モスについてこう書いている。

「モスについて抱いている私の意見は非常にシンプルだ。彼は私が常々考えるヌヴォラーリクラスの人物である。スピードに対する情熱をもち、どのようなマシンでも速く走らせることができ、いかなるコースでもタイムを読むだけでマシンをジャッジすることができる」

「かつて私が言ったように、モスにはクラッシュを感知する不思議な才能が備わっている。彼がコースを外れてしまったときには、ヌヴォラーリが幾度か見せた有名なシーンのように、不気味なくらい似た方法で無傷のまま復帰してみせた。もしもモスが心でなく頭で判断していたら、ワールドタイトルを勝ち得ていただろうし、彼は十分それに値する人物だった」

ファンジオとホーソーンに阻まれた冠

モスは最高のドライバーでありながら、フォーミュラ1の世界チャンピオンに一度も輝いたことのない“無冠の帝王”としばしば称されている。1955年、1956年、1957年はファン・マヌエル・ファンジオに、1958年には同じ英国人ドライバーにしてフェラーリチームのマイク・ホーソーンに1位を譲った。加えて3度、3位を記録している。

キャリア終盤では、プライベーターのロブ・ウォーカー・レーシングチームでロータスを駆った。散発的にではあるものの、同チームのもとフェラーリでも数回レースに出場している。

250GT SWBで見せた快進撃

1957年、モスはバハマで行われたナッソー トロフィーにスクーデリア テンプル ビュエルから参戦。290MMで勝利を収めた。そして1958年にルイジ・キネッティがエントリーした335SでキューバGPを制している。1960年には250GT SWBでグッドウッドのツーリスト トロフィ、ブランズハッチのレデックス トロフィー、ナッソー ツーリスト トロフィーで1位に輝いた。

1961年にもブリティッシュ エンパイア トロフィー、ペコ トロフィー、ナッソー ツーリスト トロフィー、グッドウッドのツーリスト トロフィーで優勝。フェラーリを駆っての勝利、そしてロブ・ウォーカーとエンツォ・フェラーリとの関係性もあり、ついに1962年、ウォーカーチームのもとでモスにフェラーリのF1シートを供する動きが加速した。その年、モスのスポーツカーレースのシーズンは好調な幕開けを見せている。ブランズハッチのバンク ホリデイ トロフィーの勝利、デイトナ3時間のクラス優勝を250GT SWBで獲得していた。

しかし、グッドウッドのグローバー トロフィーでロータスを運転していたモスは大クラッシュで負傷。ついぞフェラーリのF1マシンで戦う姿を見ることはできなかった。グッドウッドの事故では昏睡状態に陥るほどの重傷を負ったが無事生還。1963年初のテストには参加したものの、現役引退を決意した。

マラネロで蘇った往年のワンシーン

モスは英国の有名人であり、そのパーソナリティは皆の知るところである。テレビや映画、レース解説などで長年活躍。勝利に対する渇望は留まるところを知らず、どんなことをしても勝つという姿勢を持っていたモスは、1992年まで英国で最も成功したドライバーであった。

2000年にナイトの称号を与えられたモスは、その数年後にマラネロへやってきた。250GT SWBのコクピットに収まり、かつての日々を観客の脳裏へ鮮やかに蘇らせた。モスが去り、モーターレーシングの世界は真の伝説をひとり失った。スターリング、どうか安らかに。貴方とのサーキットでの戦いのすべてに感謝を捧げる。

舞台に上がらなかったブリティッシュグリーンの250GT SWB

最後にフェラーリの副会長、ピエロ・フェラーリのコメントを紹介したい。

「スターリング・モスはモータースポーツの象徴でした。彼はレース史に忘れることのできない痕跡を刻みつけたのです。フォーミュラ1からスポーツカー耐久レースまで、あらゆるカテゴリーで活躍した万能選手でもありました。ロードレースでも素晴らしい能力を発揮し、ミッレミリアでも新記録を樹立しています。F1の世界チャンピオンにはなれずとも、まさしく彼は伝説的なドライバーであり、F1であろうと他のレースであろうと、フェラーリにとってものすごく恐ろしいライバルでした」

「1962年の4月のグッドウッドでアクシデントが襲ったとき、フェラーリと彼の道は一本になろうとしていました。しかしその事故の結果、彼は高い実力を有したままレーシングキャリアに幕を引いた。あのとき、マラネロではブリティッシュレーシンググリーンをまとった彼のための250GT SWBを準備していました。我々のために運転してくれるという契約のもとに。しかし運命は違う道を指し示したのです。父は、スターリングがタツィオ・ヌヴォラーリを思い出させると言っていました。いかなるマシンであってもレースをすることをこよなく愛し、キャリアの最後までその情熱をまったく失わなかったのですから」


スターリング・モスはなぜ“無冠の帝王”と呼ばれるのか? 特筆すべきふたつの記録と3つのレース

 元F1ドライバーのスターリング・モスが90歳でこの世を去った。彼は主に1950年代~1960年代前半にかけて活躍し、F1でのタイトル獲得経験こそないものの多くの実績を残し、“無冠の帝王”と呼ばれた。今回はそんな彼のキャリアを象徴する記録とレースを振り返っていく。

■特筆すべき記録1:F1での7年連続ランキング3位以上

 “無冠の帝王”モスを最も象徴していると言えるのがこの記録だ。彼は1955年から4年連続でランキング2位となり、1959年から3年連続でランキング3位となっている。中にはファン・マヌエル・ファンジオやマイク・ホーソーンらと最終戦までタイトルを争うこともあったが、いずれもあと一歩のところで戴冠には届かなかった。

 なお、この『7年連続ランキング3位以上』をモスの他に達成しているF1ドライバーは、2019年シーズン終了時点でミハエル・シューマッハーしかいない(2000年~2006年)。モスと同時期に活躍したファンジオも、1年間の欠場を挟んで7シーズン連続でランキング3位以上に入っているが、ワークスチームを渡り歩いたファンジオと対照的に、ヴァンウォールやクーパー、ロータスなどのプライベーターに多く在籍してこの記録を残したモスは賞賛に値するだろう。

■特筆すべき記録2:F1通算16勝

 モスのF1における通算勝利数は16であり、これは歴代17位の記録だ(2019年シーズン終了時点)。ただ忘れてならないのは、モスが活躍した1950年代は年間レース数が8戦前後。現代の半分以下であるということだ。レース数が大幅に増加した1970年代以前に活躍したドライバーに限定すれば、モスの16勝はジャッキー・スチュワート(27勝)、ジム・クラーク(25勝)、ファンジオ(24勝)に次ぐ数字だ。

 そして何と言っても、モスはF1ワールドチャンピオンに輝いていないドライバーの中で最多勝を誇っている。まさに“無冠の帝王”だ。なお、モスの次に勝利を挙げている無冠のドライバーは、デビッド・クルサード(13勝)だ。

■特筆すべきレース1:1959年ニュルブルクリンク1000km

 1950年代のグランプリシーンにおいてモスとファンジオのどちらが優れていたかはしばしば議論の対象となるが、1950年代における最高のスポーツカードライバーは間違いなくモスだろう。彼はメルセデス・ベンツ、マセラティ、アストンマーチンなど、何に乗っても速かったのだ。

 特にその速さが顕著に発揮されたのが、1959年のニュルブルクリンク1000kmだった。アストンマーチンのオーナーであるデビッド・ブラウンは、ル・マン24時間レースに照準を当てるため、このレースには参加しないことを決めていた。しかしモスはチームマネージャーのジョン・ワイアーを説得し、何とかアストンマーチンDBR1/300を調達した。

 ジャック・フェアマンと共にレースに臨んだモスは予選4番手からスタートしたが、早々にポルシェやフェラーリの面々を交わしてトップに立ち、ラップレコードを更新しながらレース序盤で半周ものリードを築いた。全長22kmを超える当時の“ノルドシュライフェ”において、序盤で半周差をつけることがいかに驚異的であるかは想像に難くないだろう。

 44周のレースのうち17周を消化してドライバー交代を行なったモスだが、ここで雨が降ってきたことにより、代わったフェアマンは溝にマシンを落としてしまう。彼は力づくでマシンを溝から脱出させ、ピットに戻ってすぐさまモスと交代した。

 5分以上あったリードは消え失せ、トップから1分遅れの4番手に落ちていたモス/フェアマン組だが、モスの鬼神の追い上げにより最終的には2位以下に41秒の差をつけて優勝した。モスが記録したラップレコードは従来の記録を11秒も更新するものだった。

■特筆すべきレース2:1961年F1モナコGP

 F1の1961年シーズンはフェラーリ156が高い戦闘力を発揮し、8戦中6ポールポジションと5勝を記録した。そんな中で31歳となりキャリアの全盛期を迎えていたモスは、ロブ・ウォーカー・レーシングからエントリーし、非力なロータス18を駆り2勝を挙げた。

 特にこのモナコでの走りは特筆すべきものだった。予選でポールポジションを獲得したモスは、決勝でも驚異的なペースでレースをリードした。

 それに負けじとフェラーリのリッチー・ギンサーも好タイムを連発しながら猛追したが、結果的に3.6秒及ばず、軍配はモスに上がった。ふたりは1分36秒3という同タイムでファステストラップを記録したが(当時のタイム計測は小数点ひと桁まで)、これはモスが記録したポールタイム(1分39秒1)よりも3秒近く速く、まさに“激闘”と言えた。

 なお3位、4位もフェラーリ勢(フィル・ヒル、ウルフガング・フォン・トリップス)。他の“非フェラーリ勢”では、ダン・ガーニー(ポルシェ)が2周遅れで5位に入るのが精一杯だった。

■特筆すべきレース3:1955年ミッレ・ミリア

 1955年の世界スポーツカー選手権の1戦として行なわれたミッレ・ミリアは、イタリアの公道を1000マイル(約1600km)にわたって疾走するという危険かつ過酷なレース。モスはこのレースでメルセデス300SLRというベストマシンを手にしていたとは言え、ミッレ・ミリアはその特性上、地元のイタリア人ドライバーが圧倒的有利であった。かくいうモスもこれまでジャガーから3度ミッレ・ミリアに出走していたが全てリタイアに終わっていた。

 強力な300SLRを手にしたモスとナビゲーターのデニス・ジェンキンソンは、ミッレ・ミリアに向け入念な準備を進めていた。ジェンキンソンは“ローラーノート”と呼ばれる手引書を作成し、さらにはレース中に予測されることをモスに迅速に伝えるためのハンドサインも開発した。

 500台以上のマシンが参加する大規模なイベントであるミッレ・ミリア。スタートは1台ずつとなるため、土曜日の朝に一番下のクラスのマシンがスタートしたが、モスたちがスタートしたのは翌朝の7時だった。

 道中でストローベイル(藁の束)に衝突したり、溝にハマるなどトラブルもあったが、モスとジェンキンソンはレースをリードしていった。モスはチームメイトのファンジオからもらった精力増強剤の効果もあってか驚異的な持久力を発揮しており、さらに前述のノートのおかげで馴染みのないコースをフルスピードで疾走することができた。

「ほとんど全開でコーナーを曲がっていた。知らない道を時速170マイル(約274km/h)で走ることはひとりでは絶対にできなかったことだ。ノートのおかげで何が待ち構えているかを正確に把握していた」

 モスは自伝の中でそう記していた。

 そんな中、優勝候補のメルセデス勢はカール・クリングがクラッシュにより負傷し、ファンジオはトラブルに見舞われるなど、続々と脱落していく。しかしモスとジェンキンソンは安定したレース運びを見せ、トップでゴールした。2位のファンジオには30分以上の差をつける圧勝だった。

「あのレースは私のレース人生の中でも最高の瞬間のひとつだった」とモスは自伝で振り返っている。

「私が参戦した他のレースで、このレースと比較できるものは見当たらない」


巨星スターリング・モスが逝去。マセラティが偉大なるドライバーの死を悼む

スターリング・モスとマセラティの強い繋がり

モータースポーツ界の巨星、サー・スターリング・モスが2020年4月12日に逝去した。享年90歳。あまりにも偉大なレーシングドライバーの死に、マセラティが追悼リリースを発信している。

スターリング・モス卿とマセラティの結び付きは強い。彼がモデナに訪れた最後のイベントのひとつが、ミュゼオ・エンツォ・フェラーリで行われたマセラティ100周年の記念展示だった。居並ぶマセラティの名車一台一台について、モスは自らの言葉で細かく説明していった。

「250 Fはとても速く、あらゆる挙動でドライバーを満足させた。300 Sはバランスが素晴らしく、飛び抜けて運転しやすかった。そしてこの2車の特徴を併せ持っていたのがティーポ61 バードケージだね」

モスに愛された栄光のマシン、マセラティ 250 F

250 Fは彼のお気に入りのシングルシーターだった。モスは1956年5月13日のモナコGPで、シャシーナンバー2522を刻んだこのマシンと共に輝かしい勝利をあげている。彼にとって誇りでもあるその車両は、長年にわたりプライベートコレクションとして大切に保管されていた。

1956年にモンツァで行われたイタリアGPもモスは250 Fで1位を獲得している。その後塵を拝し2位に甘んじたのは、ピーター・コリンズからランチア フェラーリ D50を譲り受けたファン・マヌエル・ファンジオだった。

無冠の帝王と呼ばれた最高のドライバー

サー・スターリング・モスは1929年9月17日に英国ロンドンで生まれ、生涯そこを離れなかった。

モス一族にとって、レースとは定めのようなものだったのかもしれない。彼の父親アルフレッド E. モスは1924年にインディアナポリスで16位を記録。妹のパット・モス・カールソンもラリー界で活躍した。

スターリング・モス卿は1951年から1961年にかけてのF1で66のグランプリに参戦、うち16のレースを制した。しかしその強さをもってしても1955年から1958年は4年連続で2位に甘んじている。同僚やライバルから最高のドライバーと称えられていた彼が、“無冠の帝王”と呼ばれる理由である。

「スターリング・モスになったつもりか」

モスはまた、F1だけでなく公道レースにも伝説を刻んだ。1955年のミッレミリアは10時間7分48秒という大記録で優勝を遂げている。さらに、セブリング12時間、ツーリスト トロフィー、タルガ フローリオといった錚々たるレースを制してきた。

1950~60年代のイギリスでは、スピード違反のクルマを止めた際にイギリスの警官が発する常套句があった。

「スターリング・モスにでもなったつもりか?」

彼の人気がいかほどのものだったか、よく分かる。

モスは晩年まで精力的な活動を続けた。メルボルンで見かけたはずの彼が24時間後にはNYのTVに出演している、などということも珍しくなかった。ステアリングを握る限り、モスに疲れは無縁だった。

マセラティは、スターリング・モスがマセラティブランドに与え得てくれたものに感謝し、今後も彼を忘れることはないと追悼を捧げている。



【訃報】『無冠の帝王』スターリング・モス卿が90歳で死去 最も偉大な英国人ドライバー

529戦に出場して212勝

text:Mark Tisshaw(マーク・ティショー)

最も偉大な英国人レーシング・ドライバーの1人、サー・スターリング・モスが逝去した。90歳だった。

英国時間の4月12日朝、妻のレディ・モスがデイリー・メール紙に語ったところによると、サー・スターリング・モスは、メイフェア地区にある自宅で、妻の看病のもと長期にわたる療養生活を送っていたという。

F1世界チャンピオンに輝いたことは1度もなかったものの、スターリング卿はモータースポーツ史における最も偉大なドライバーの1人とされている。1950年代から60年代にかけて、彼はF1からスポーツカー・レースまで、異なるカテゴリーのレースで数多くの勝利を挙げる多才ぶりを発揮。1962年にグッドウットで起きた深刻な事故で重症を負ったことにより引退を決意するまで、全529戦に出場して212回の優勝を達成した。

F1に参戦していた1951年から1961年の間、スターリング卿は世界選手権ランキング2位で4度、3位で3度、シーズンを終えている。優勝回数は16。その中には1955年のイギリス・グランプリも含まれる。この母国レースでスターリング卿は、メルセデス・チームのチームメイト、ファン・マヌエル・ファンジオを抑え、F1初優勝を成し遂げた。

耐久レースやラリーでも活躍

F1世界チャンピオンを逃したことから、スターリング卿はしばしば「無冠の帝王」などと呼ばれるが、彼はF1以外のレースでも成功を収めており、モータースポーツにおける最も偉大なオールラウンダーの1人でもあった。1955年には過酷な街道レースとして知られるミッレ・ミリアにメルセデス300SLで出場し、平均速度の新記録を打ち立てて優勝した。1956年のル・マン24時間レースではアストン マーティンDB3Sでクラス優勝。さらにモンテカルロ・ラリーでも1952年にタルボ・サンビームを駆って2位に入ったことさえある。

フルタイムのレーシング・ドライバーを引退した後も、スターリング卿は時折ラリーや耐久レースに参戦を続けた。1980年には英国ツーリングカー選手権でレギュラー・ドライバーとして現役復帰したこともある。

スターリング卿が人々の前に現れなくなったのは、わずか2年前のことだった。2010年に自宅の事故で両足を骨折した後も、英国や時には海外で開催されるモータースポーツ・イベントに姿を見せ、ヒストリックカー・レースに出場することさえあった。グッドウッド・フェステイバル・オブ・スピードでは毎年、かつて共に戦った伝説的なマシンに再び乗り込み、観衆を沸かせた。

「彼は生きている時と同じように、立派な姿で息を引き取りました」と、モス夫人はデイリー・メールに語った。「彼はただ疲れ果てて、美しいその目を閉じたのです。それが最期でした」。


マセラティ、スターリング・モス氏を追悼…1950年代に「250F」で活躍

マセラティ(Maserati)は4月12日、元F1ドライバーのスターリング・モス氏(Sir Stirling Moss、享年90歳)の死去を悼む声明を発表した。

モス氏とマセラティとの結びつきは、非常に強いものだった。彼はマセラティ車をどう駆るべきかということについて、誰よりも適切に解釈してきた偉大なチャンピオンの一人。彼は速いことはもちろん、エネルギーに満ちた度量の広いドライバーで、明るくダイナミックな性格の持ち主だった。

中でも、マセラティ「250F」は、お気に入りのシングルシーター車だった。1956年5月13日、モナコGPにおいて、彼はマセラティ250Fとともに、生涯で最も美しい勝利のひとつを挙げている。シャーシナンバー「2522」のマセラティ250Fで、レースを終始リードし続けた。

同年モンツァで行われたイタリアGPにおいては、コリンズがファンジオのタイトルのために託したランチア・フェラーリを破って、モスのマセラティ250Fが勝利した。こうした理由から、彼はマセラティ250Fを非常に誇りに思っており、プライベートコレクションに長らく保管されていた。

マセラティは、モス氏がブランドに与えてくれたものに感謝し、今後も彼を忘れることはない、と追悼の声明を発表している。


無冠の帝王スターリング・モスが愛したマセラティ3台とは?

■マセラティ250Fで、スターリング・モスのF1人生は開花した!

 スターリング・モスは、1956年のモナコ・グランプリをマセラティのF1「250F」で初制覇するなど、マセラティとも関係が深い。マセラティの100周年を祝うイベントがイタリア・モデナのムゼオ・エンツォ・フェラーリで開催されたときには、マセラティの名車のなかでも特に次の3台を評価していた。

 ミュゼオ・エンツォ・フェラーリを訪れたスターリング・モスは、マセラティの名車を1台1台、事細かに説明したという。

「250Fは高速マシンとしてすべての動作においてドライバーを満足させたモデルだった。『300S』は素晴らしいバランスと並はずれた運転のしやすさを備えた1台。そしてこのふたつの特長を併せ持ったのが、『ティーポ61バードケージ』だ」

 スターリング・モスが認めたマセラティの3台の名車、250F、300S、ティーポ61バードゲージとは、いったいどのようなクルマで、モスとどのような関係があるのだろうか。

●マセラティ250F

 1954年、モスは自費で250Fを購入し、F1グランプリにプライベーターとして参戦した経緯も持つ。その後、マセラティのワークスチームへと昇格し、1956年にマセラティに復活したモスは、5月13日のモナコ・グランプリで、彼の生涯でもっとも美しい勝利のひとつを挙げた。

 このレースでモスに勝利をもたらした250Fは、シャーシナンバー2522のマシンで、彼がレースを終始リードし続けた上での初勝利だった。

 そして同年モンツァで行われたイタリア・グランプリにおいては、コリンズがファンジオのタイトルのために託したフェラーリを破り、モスが運転する250Fが勝利を収めた。

 こうした理由から、モスは250Fを非常に誇りに思っており、プライベートコレクションに長らく保管していたという。

●マセラティ300S

 エンジンは250Fの2.5リッター直列6気筒をボアアップして3リッター化したものが搭載されている。ブレーキも250Fのほぼ流用で、サスペンションは強化されたものが組み込まれている。リアアクスルは、ド・ディオンアクスル式が初採用されている。

 300Sは、モスが好きなマシンとして公言しており、1956年のニュルブルクリンク1000kmレースにおいては、300Sで優勝を飾っている。

●マセラティ・ティーポ61バードゲージ

 2.9リッターの直列4気筒エンジンを、軽量化と高剛性を両立したスペースフレームに搭載。パイプフレームはクロムモリブデン鋼が用いられ、まるで鳥かごのように複雑な構成だったために、バードゲージ(鳥かご)とも呼ばれる。

 独立したフロントサスペンションに、4輪ディスクブレーキ、5速トランスミッションを装備し、ド・ディオンアクスル式のリアアクスルが採用されている。

 1961年のニュルブルクリング1000kmレースでモスは、このティーポ61でモスは優勝を飾った。

* * *

 スターリング・モスは、1929年9月17日に英国ロンドンで生まれ、生涯をロンドンで過ごす。彼の父親アルフレッドE・モスは、1924年にインディアナポリス500を16位で終了し、妹のパットもいくつかのラリーに参戦をしていた。

 スターリング・モスのF1の経歴は、1951年から1961年にかけて66のグランプリに参戦し、うち16のレースで勝利を収めている。

 しかし、その強さをもってしても1955年、1956年、1957年、1958年と4年連続で2位の結果に終わっている。これが、モスが無冠の帝王と呼ばれるゆえんだ。

 また、彼はサーキットだけではなく公道レースにおいても伝説を残している。1955年のミッレミリアでは10時間7分48秒で制覇し、セブリング12時間、ツーリスト・トロフィー、タルガフローリオなど数々のレースを制している。

 1950年代から1960年代においては、英国の警官がスピード違反のクルマを止めた際に「スターリングモスにでもなったつもりか」というのが常套句になったり、映画『007 カジノロワイヤル』にもゲスト出演をするなど、国民的な人気を得た人物でもあった。


Posted at 2020/04/14 20:07:40 | コメント(0) | トラックバック(0) | 自動車業界あれこれ | 日記

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