2018年10月06日
平成30年期 第2期 平成4-平成7年
平成4(1992)年下半期になり、景気が下降気味になっていきました。ただし当時の人々は、「景気循環の上下に関わる下降」だと考えていました。「3年から長くても5年経過すればまた景気は良くなるさ」と、楽観的に考える向きもありました。いつの時代でも「好景気はお金持ちから、不景気は庶民から」来るものです。不景気は庶民のみで、お金持ちはお金を貯め込んでいると思われていました。
しかし、「お金を使う競争」や「見栄の張り合い」の様相を呈していた好景気でしたので、「消費疲れ」もありました。生活を取り巻く状況も、徐々に変わっていきました。
概況
平成4(1992)年下半期は徐々に経済が後退している、という程度の状況でした。銀行は土地取得のための融資を制限され、回収が見込めない融資はせず、これまでの融資についても回収を始めました。土地や株、美術骨董品などを転売しながら利益を稼いでいたにわか富裕層は、それらのものを転売できなくなったために利益を得るどころか、買い手がつかずに転売できなくなりました。
一方、庶民の方はもともと現金しか持っていませんでしたので、それほど大きな被害はありませんでした。しかし、不景気が始まってしばらくした平成5(1993)年頃になってくると、給料が上がらなくなったりするどころか、会社がなくなるような人も現れました。
平成5(1993)年夏は、冷夏でした。一般的に関東地方で梅雨が明ける7月20日ころになっても、曇や小雨模様が続き、「ちょっと蒸し暑い」程度でした。東北地方に至っては「夏でも肌寒い」ほどで、秋の収穫に大きく影響しました。気温が上がりませんと、いわゆる夏物需要が低下します。夏物衣料、エアコン、ビールや清涼飲料水といった、一般消費が低迷しました。小売の低迷は、卸はもちろん、原料の販売にも影響し、最終的には経済にも影響します。
暑すぎる夏も、寒い夏も、どちらも不景気になるものです。この頃になると人手不足感がほとんどなくなりました。前年までのアルバイト情報誌は、「週二回刊行、それぞれ厚みは2cm」にもなろうかとしていました。しかし平成5(1993)年は「仕事は正社員で補うか、長期にわたって勤務している既存アルバイト」で補えるようになったためか、アルバイト情報誌厚さは、5mm程度になってしまうほどでした。なおバブル期は、アルバイトを続けるだけで十分生活出来たために、給料が良く責任が問われないアルバイトを続けたり、転々とする人が多数いたのです。この「フリーアルバイター」たちの存在が、後の派遣社員問題などへとつながっていくのです。
米の流通量は、それほど冷夏でもなかった西日本の新米が出回る秋はそれほど不足感はありませんでした。しかし、東日本の新米が出回る晩秋から流通量が減少したようです。翌平成6(1994)年は、年初から米を買うために多くの人が販売店に列をなしました。戦後の食料混乱期ではあるまいし、米を買うために人が列を作る風景は、多くの人に「不景気感、終末思想」を与えるもとになりました。
平成6(1994)年は、不景気が一般的になってしまいました。下げ止まり感はありましたので、「このまま不景気が進行して、世の中はどうなってしまうのだろう」という不安は、改善こそされませんが、底なし沼感はなくなりました。もちろん、「景気循環による不景気だから、あと2・3年もすればまた良くなる」と、希望を持つ人は多数いました。
「清貧・我慢」など消費を抑える行動が生まれ、既存のサービを値下げして提供する「価格破壊」が生まれました。国際電話の値下げも行われ、KDDでは西田敏行氏に「安いが一番」と言わせるCMを作成、価格の低下が起こった年でもありました。既存の百貨店等が売り上げを落とす一方で、単一商品だけを扱って価格を下げる「カテゴリーキラー」などの業態に注目が集まりました。酒やパソコンなどの販売店が注目されましたが、これも一時の現象にとどまり、1年程度しかもたなかった会社も出てきました。
平成7(1995)年になると、年初の「阪神・淡路大震災」、3月の「オウム真理教地下鉄サリン事件」などが発生し、人々の気分を暗くさせました。大卒者の就職状況も悪化し、「就職氷河期」と例えられました。世の中の雰囲気は前年の期待とは裏腹に、どんどん悪化するのでした。これ以降を「景気の二番底」とするために、時代を分けることにしました。
高度経済成長期を担った層について
この時期、本来は”再構築”を意味していた言葉の「リストラクチャリング」が、そのまま「会社の社員首切り」に当てられるようになりました。前の時代に、多くの企業が副業としてゴルフクラブを運営したり経営に参画していたり、レジャー施設を築いたりと、本業とは無関係な事業を推進していました。それらの施設の利用率が低下すると、当然その業務についていた人もいらなくなってしまいます。「時代は遊び」と言っていた人などです。
加えて、第一次オイルショックに伴う狂乱物価の時代は意外にも短く、その前の高度経済成長期もそのあとの低成長期も、結局「何もしなくても需要があって売れた」時期と言えました。「黙って座っている、または、部下を飲みに誘うか顧客を接待するのが上司の仕事」でした。しかし、そんなことでこの時期の不況は乗り切れませんでした。結果、そんな「鎮座上司」たちは、どんどん人をやめさせたり、新規採用を抑制したり、コストダウンをするなど、その場しのぎの策しか出来なかったのです。
当時、職業安定所に訪れた中年男性は、職業安定所の職員に「あなたは何ができますか?」と聞かれて、「部長の仕事ならできます。」と答えたそうです。「何もせず、部下が持ってきたことを良い悪いと言うだけ」だったのですね。
結果、当時の中年層を見る目は著しく低下しました。加えて、女子中高生の被服を中古販売する店に行く中年男性などがピックアップされ、「背広の人は汚らしい」という評価さえ出てしまったのでした。
後述する「家なき子」では、所謂「ワル」が警察署長に正論を説くシーンがあります。「背広組は大したことがない」、「少し悪い雰囲気くらいの人間のほうが正しい」などとする傾向が現れ、以後、20年近く「ちょいワル推奨」期が起こってしまうのでした。
いわゆる「バブル女象について」
今でもテレビドラマの回想シーンなどでは、バブル期について「トサカ前髪、蛍光色ないしは原色のボディコンワンピースの女が、センスを振り回してお立ち台に立つ」姿が描かれています。このような人たちはバブル期にもいましたが、注目されたのはこの時期でした。「イケイケ」とも呼ばれていましたね。フジテレビでは子供向け番組に、この「イケイケ」を誤英語化、逆語化して「ウゴウゴルーガ」と名づけて番組にしました。
彼女たちは、「オトコたちは不景気らしいけれど、こうやって踊って不景気を吹き飛ばすんだ!」としていました。しかし、遊ぶ金は結局給料です。これらの人たちがついていた、「一般職」は自然減と派遣ないしはアルバイト、アウトソース化され、一般職自体が徐々に消滅していきました。そもそも「不景気」は物理的な霧ではありませんので、吹き飛ばしたりするものではありませんでしたね。
嗜好や娯楽に関わる変化
この前の時代は、「いかにお金を使うか」ということにかかっていました。もちろん、この前の時代では給料が良くてもお金を使う暇がなく、レジャーが出来るときにたっぷりお金を使うしかなかった、という理由があります。中でもスキーは、スキーウェアや道具を毎年買い換えて自慢したり、アフタースキーのためのスキーでしたので、徐々に衰退していきました。
音楽について
この前の時代は、音楽を聞くことは主に高校生までの娯楽でした。平成3年までのロックバンドブームは、その代表格です。
平成4(1992)年の夏、テレビ朝日系深夜番組「トゥナイト」のエンディングテーマに、ZARDの「眠れない夜を抱いて」が選ばれました。秋には三井生命のCMでWANDSの「もっと君を抱きしめたら」が、東洋水産の「マルちゃん ホットヌードル」のCMには、大黒摩季の「DA・KA・RA」が選ばれました。いずれの歌手等も知名度が低い上に曲は多くの人が耳にし、「聞きたい曲」になりました。
既にカラオケはありましたが、オジさんが酔ってスナックや温泉旅館で使うものでした。非ロック系の歌いやすい曲が出てくることでカラオケブーム、聞いたり練習したりするためのCD販売量が増大しました。仲間で集まって居酒屋に行き、そのあとはカラオケボックスで歌をうたうような「お金がかからない遊び」が徐々に主力になっていきました。
さらに、エンターテインメントビジネスが十分に成立することがわかり、不景気の時代になりましたが、以後10年間程度大きな収益を上げることにつながりました。
私の時代区分(平成4年下半期~平成7年)では、この期間はほとんど「Bing」系という人たちが占拠した時代でした。WANDS、T-BOLAN、ZYYG、REV、ZARD、大黒摩季、MANISHなどです。いずれも「うまい」と思わせる仕上がり、キャッチーなメロディ、歌いやすい曲調などと、多くの人に受け入れられそうな条件を満たしていたのです。
被服について
こちらも他のレジャーと同様、いかにお金をかけたか、という点で「他人に自慢をする要素」になっていました。昭和61年以前は、20歳前後の男性服というと、それこそスタジャンにジーンズなど、おしゃれも何もありませんでした。
そもそも「カジュアルウェア」の概念がありませんでしたので、お金はフォーマルファッションに注ぎ込まれていきます。男性は海外ブランド(アルマーニ)などのソフトスーツが主力となり、女性は「保護者参観日にお母さんが来ていくような服」から、「スーツ」に変化していったのです。
ところが、平成4(1992)年はそれほどではありませんでしたが、平成5(1993)年頃になると、お金がかからないカジュアルウェアにシフトされていきます。この年は、「「白いポロシャツに、ブルーデニム」程度で、夏の若者らしいおしゃれでさわやかな服」とされました。今や、どちらもおしゃれでも何でもない服ですよね。
いくら不景気だからといっても、その時代や状況に合わせて楽しみを見つけていくのが、一般庶民です。平成6(1994)年になると、街中に「カジュアルジーンズショップ」が現れます。「ジーンズメイト」などがその代表格です。ブルーデニムを基本に、Tシャツなどのカジュアルウェアを販売する店舗です。
着る方もいろいろ工夫をして、日常生活を楽しくしようとします。この年には、
「古いアディダス等のジャージをタウンウェアにする」ことや、
「米国のボーイズサイズの小さめのTシャツを、やや肌にぴったりさせた感じで着る」着かた、
「上のパンツ(ズボン)を下ろし気味に履き、下のパンツ(下着)のブランドを見せる」履きかた
などが現れました。いずれも平成4(1992)年頃では、全く想像すらつかなかった服の着かたでした。服の着かたは、基本的にドレスダウン方向に進んでいきます。これ以後、ドレスアップをするおしゃれは、しばらく出てこなくなります。
テレビについて
テレビドラマの上では、平成4(1992)年下半期から少しずつ変わっていきました。既に所謂トレンディドラマは減少しており、各社とも次を探っていました。そんな中、フジテレビではこの少し前に「もう誰も愛さない」という、吉田栄作主演のドラマを放送していました。主人公は周囲の人に翻弄され、最後は誰かを殺害するか殺害されるかする作品でした。
そしてこの期は、TBSが「ずっとあなたが好きだった」を放送します。佐野史郎氏の怪演が話題になった作品です。放送当初はよくある家庭ドロドロ物語と思う人多数で大した視聴率は得られませんでした。しかし、途中から佐野史郎氏のマザコンぶりを強調した演技が話題になりました。恋愛モノ作品ではなかったため、これまでイヤイヤ恋愛モノトレンディドラマを見ていた男性も抵抗なく受け入れられ、「ドラマを共通の話題にしてお喋りを楽しむ」風潮が生まれました。
なお、所謂トレンディドラマの頃は、実際には「テレビを見るために早く帰宅する」ことははばかられました。結局のところ、テレビを見る娯楽は、お年寄りと子供と早く帰れる地元就職者のためのものだったのです。「東京ラブストーリー」が流行し、「街からOLが消え」たのは、テレビを若者の娯楽としても良い事実を作っていたのです。
「ずっとあなたが好きだった」以降、怪演や怪設定を売りにした作品が続きます。正編の「誰にも言えない」をはじめとして、「悪魔のKiss」、「高校教師」などが放送されました。不景気と相まって「登場人物たちが楽しそうに恋愛をしたり遊んだりしている」作品は忌み嫌われ、苦労をしたり数奇な運命をたどったりする作品が注目されるようになりました。
平成6(1994)年になると、野島伸司作品が注目されます。安達祐実主演「家なき子」は、童話の家なき子を現代的にオマージュし、主人公の”すず”が、犬の”リュウ”とともに、いろいろな家庭をたらい回しにされる作品です。すずは母親を救うために靴磨きの仕事をしています。戦争直後ならまだしも、「平成の世の中になって靴磨きか!」と、人々の郷愁と同情を買いました。荒唐無稽な状況設定ながら、ドラマチックな展開が見所でした。以後も、柴門ふみ風の群像もの「愛という名のもとに」、「人間・失格」、「聖者の行進」と続きます。
ドラマが野島伸司原作作品一色になったわけではありません。フジテレビでは、恋愛モノ作品の視聴者年齢層がやや上がったことを危惧し、「ボクたちのドラマシリーズ」を放送、松雪泰子主演の「白鳥麗子でございます」などが放送されました。TBSでも、「毎度お騒がせします」というよりは「寺内貫太郎一家」を思わせる「毎度ゴメンなさぁい」と「毎度おジャマしまぁす」が放送されました。
トレンディドラマをこの時代流に変更した作品もありました。「29歳のクリスマス」は、主人公たちが住む家を畳張りと黒電話として庶民の実生活に近づけたとしました。柴門ふみ原作作品も健在で「あすなろ白書」が、また、柴門ふみ調の作品も、各脚本家に寄って作られました。代表格は「君といた夏」です。
クルマ
この時期になると、高級車の売れ行きが急減速します。代わって、比較的お金がかからないキャンプやバーベキュー、釣りといった屋外系レジャーをする人が増えたからか、RV車の売れ行きが伸びます。RV車とは非常に大きな括りで、含まれるのは「車高が高い4WD車≒クロスカントリー4WD」、「セダンの派生車種であるステーションワゴン」、「いわゆる現代のミニバンの元祖」全てです。特に「デリカスペースギア」や「レガシィ」「アコード」のワゴン、「RAV4」や「オデッセイ」が好調で、多くの車がレジャー色を強調していました。
その一方で、にわかレジャーの人も多数いて、「テントを買って、キャンプ場に来て初めて開封して組み立てられないお父さん」や、「キャンプ場に来たは良いけれど、風呂はないは虫はいるはで、二度と来ない子女」など、ブームはこの時期だけになってしまいました。しかし、その後にも続くステーションワゴンやミニバンの一般化の基礎を作ったのは、この時代でした。
一方、この前の時代にハイパワースポーツクーペに乗って走りを楽しんでいた人は、ランサーやインプレッサのハイパワーモデルに乗る傾向も出てきました。前の時代に多数いたことになっている「車に関心がある若者」は、この時代で「車をレジャーなどの道具に使う人」と「ハイパワー車に乗り続ける人」に二分化しました。
これ以外の車は、この時期に急につまらなく、地味になっていきます。「コストダウン」と「安いが一番」が幅をきかせていたのです。簡素で何もなくなってしまった「カムリ・ビスタ」や「カローラⅡ、ターセル、コルサ」と「ファミリア」、「ブルーバード・プリメーラ」など、技術的な進歩や魅力的なイメージをかなぐり捨て、旧型よりもコストを下げて利益を減らすまいとする、メーカーの事情が現れた車が多数を占めるようになりました。車の「白物家電化」論が出始めていました。
環境問題
日本の経済不況とは全く無関係に、それでいて同時期に始まったのが、「環境問題」です。これまた環境問題とは無関係に、前の時代には湾岸戦争が勃発し、原油にまみれた海鳥の姿が度々放送されたのでした。
高度成長期の「公害問題」は、排出者が特定企業、被害者が限られた地域、法規制等の未整備による「垂れ流し」問題と、人口が短い期間に年に集中したために、道路やゴミ・し尿の処理が追いつかないこと、養鶏/養豚場・工場の近くに宅地が出来たことなどの「生活に関わる問題」の二つが主体でした。
この時期の環境問題は、今でも続いている二酸化炭素の排出問題と、冷房装置や集積回路工場から排出されるフロンガスによるオゾン層問題の二つが中心でした。この問題は、多くの人に「エネルギーを利用して贅沢を味わう」ことが悪いことであるように印象づけるのに十分であり、経済活動の萎縮につながりました。
その他レジャー
既にこの時期には「TOKYOウォーカー」誌はありました。が、前の時代では「いかにお金を使って高級レストランに行くか」が重要であったために、街のお店、特にラーメンなどを食べ歩くなどというのは、変わった趣味と言えました。「アイドルはトイレに行かない」などという言葉がありますが、「女性はパスタ以外の麺類は食べない」のではないか、とすら思える程でした。
確か「TOKYOウォーカー」誌がラーメン店特集をした結果、「美味しいラーメン屋に行って並んで食べる」ことがレジャーの一つになりました。東京都内の環状7号線という道路には夜中にしか営業しないラーメン店があり、「車で行って路上駐車をして並んで食べる」ことがデートのひとつともなりました。
まとめ
この時期では、前の時代に築かれた文化がことごとく否定されました。お金を使って高級レストランに行くことも、毎シーズンスキーウェアや道具を買い換えることも、貯金をして無理して高級車や外車、スーツを買うことなどです。
加えて、趣味の多様化が認められるようになりました。前述の「ラーメンを食べに行く」ことのほか、アニメーションや鉄道、モータースポーツ参戦や星の観察など、これまで他の人に知られることを避けたようなことも、まだ歓迎こそされませんでしたが、「していても悪くない趣味」と扱われるようになってきました。
文化の変化により、時代の急変を当時も感じました。歴史上でも、壬辰の乱や応仁の乱、関ヶ原の戦いなど、その前後で大きく時代背景が変わった出来事はありますが、ちょうどそのような雰囲気です。経済的には決して良いとは言えない時期でしたが、この時期以後は「生きていて楽」と感じるようになったのも事実です。
この時期は、経済番組等では「株価と土地価格の下落により、急激に経済が悪化、失われた20または30年の始まり」とされる時期です。しかし、生活をする上では「色々な選択肢を選べるように」なり始めた時期で、旧態依然とした取引の仕組みや「こうあるべき」論が崩れた時期でした。
同じ平成時代とは言っても、平成3(1991)年と平成8(1996)年との間は、文化的には大きは隔たりを感じる時期なのでした。
ブログ一覧 |
歴史 | ビジネス/学習
Posted at
2018/10/07 13:34:22
タグ
今、あなたにおすすめ