• 車種別
  • パーツ
  • 整備手帳
  • ブログ
  • みんカラ+

ノブヒデのブログ一覧

2015年11月30日 イイね!

スタンプラリー⑩

スタンプラリー⑩こんばんは。
遂にプラネタリューム、天文台スタンプラリーも完結編です。
と、その前に11/28(土)は次男が陸上クラブに入って初の大会、
2015年群馬県小学生駅伝競争大会兼小学生マラソン大会でした。
やたらと長い名前ですが、平たく言うと県で毎年やってる大会で、クラブの速い子や高学年の子は駅伝にチームで出て、低学年や駅伝の選手に選ばれなかった子はマラソンにも出られますよ。みたいな感じかな?と。
前夜の練習を「お腹痛い」と休んだので、少々心配しましたが、朝早く(いつものグラウンド【P】に6:10集合)元気に出て行きました。
私は仕事でしたので、カミサンに「初めての大会だし、デジカメでも携帯でもいいから写真撮ってよ。」と言ったところ「イヤだよ!メンドクサイ!」

と思いましたが、先日の籠原事件?(笑)もありましたので

なので、画像は一枚もありません(泣)。
1~2年生は600mなので、「マラソンにしては短いし、低学年は参加するだけみたいな、ゆるい感じなのかな?」と思ってました。
帰ってきたら「全然速いよ!マラソンのペースじゃなかった!600m走だね。」とカミサン。結果は35人中最下位だったそうです。
先週の小学校の持久走大会は学年で20番以内に入ったので、遅くはないのでしょうが、やはり県のアチコチの陸上やってる子の中に入ると、そんなものなのですね。
今までビリなんて経験が無いですから「辞めたい」なんて言うかな?と思いましたが、続けるそうです。
そんな訳で、今まで「いつまで続くのやら?」でしたので、靴も普段小学校に通ってるマジックテープの奴でしたが、帰りながら、ちゃんとした紐のランニングシューズと、着替えを入れるスポーツバックを買ってあげたそうです。

てな話を↓の人が聞いてまして、

「600mか~。小学校のグラウンドは200mだから、三周だよね。僕はギブだな。」だそうです(笑)。
家では一緒に走ってるし、持久走大会が終わっても、続けて一緒に走るそうですから、まあいいかな?



お父さんはこの日の晩は、秋からやってます、交通指導員の忘年会
年配の方々ばかりでしたが、「朝に旗を持って交差点に立つのは仕事をしてる、勤めの人など、やっぱりチョッと無理だよな?」と、聞いたところ、この数年で10人以上辞めてて、新い人が何年も入ってないそうです。
順番の交代で、年4~5回程度だそうですので、私は受けましたが、これから新しい人を見つけるのは難しいみたいですね。
地元商店街の方々が多かったです。お店だとオープンが10:00とかでしょうから間に合いますよね。しかしその商店街も他所でもそうなのでしょうが、閉店してるお店が多いですし、跡継ぎがやってるお店は少ないです。寂しい限りですね。


翌、29(日)は朝から、陸上クラブで利根川の河川清掃に参加

他にも色々なクラブ、サークル、企業など20以上の団体が参加。恥ずかしながら知りませんでしたが、もう10年以上やってるそうです。
今は川原も川も綺麗になりましたよね。私達が子供の頃が一番汚かったでしょうか?「こういった地道な活動によるものなんだなぁ。」と、改めて思いました。
終わったら、そのまま河川敷のグラウンドで一時間程練習。





天気も良くて、浅間山もよく見えました。もうスッカリ雪化粧ですね。


帰ってお昼を食べたら、スタンプラリー。最後は桐生市立図書館


の3F

住所と名前を書いて、後の手続きはやってくれるそうです。締め切り後の来年三月に景品が郵送で届くそうです。楽しみですね。
「最後くらいは一緒に見ようか。ココは無料だし。」(笑)とお父さんも久々に見ましたが、やっぱり眠くなっちゃいました(苦笑)。


西本聖 現在59歳  投手 右投げ右打ち 
選手 1975~88読売ジャイアンツ、89~92中日ドラゴンズ、93オリックスブルーウェーブ、94読売ジャイアンツ
コーチ 2003阪神タイガース、2010~12千葉ロッテマリーンズ、2015ハンファ・イーグルス(韓国)
75年にドラフト外で巨人入り。同期のドラフト一位の定岡を目標、ライバルとして、二軍で猛練習に励む。二年目に二軍イースタン・リーグで最多勝。翌三年目には一軍で8勝。徐々に頭角を現す。
この頃の投手コーチだった杉下茂氏が、TBSラジオの解説で当時を振り返ってましたが、「長嶋監督に『西本のシュートはいいね。何とか一人前にしてあげてください。』と言われましてね。まぁ二軍の頃はシュートばっかり投げててね。余程自信があったのでしょう。キャッチャーのサインに首を振ると必ずシュート(笑)。『でも、それだけではプロでは勝てないよ。』と、カーブの取得に取り掛かったんです。握り方から教えて、腕の振りを覚えさせる為に、両膝を着いたままの体制で、ただひたすら何回も何百球も投げるの。毎日それの繰り返し。それでカーブを覚えたので、あのシュートが生きたんですよ。」
長嶋監督も現役時代は大洋平松投手のカミソリシュートに苦しめられましたからね。確か対戦成績は打率一割台だったかと。
四年目からは先発ローテーション入り。この頃には完全に定岡投手を抜いてました。
しかし5年目に一歳年上の江川卓が入団。当時を振り返って、「入って来るな!と思いましたね。やっとローテーション入りまで来たのに、アレだけの人が入ってくれば、外されるのは当然一番実績の無い僕でしょうから。」と、この時からライバルは江川になりましたね。
79年秋の地獄の伊東キャンプでは、たまたま隣同士になったブルペンで100球→200球→両者共に意地の張り合いで止めない。遂に300球を越えた所で「もういい加減にしてくれ!二人とも壊れちゃうよ!」とブルペン捕手の方が、止めたそうです。この頃には江川さんも意識してたんですね。
81年からは一年おきに開幕投手を努めるなど、藤田監督もあえて二人を競わせる事にしたそうです。
その81年ですが、江川投手は20勝して、最多勝、勝率、防御率、奪三振、ベストナインと投手五冠を達成したのに、沢村賞は18勝の西本と話題になりました。翌年から、スポーツ記者による投票→現在の様な、プロ野球投手出身の選考委員会での選出。と沢村賞の選考方法まで換えるという事態になりました。



伝説の83年西武との日本シリーズです。内野ゴロ多いですね。
あの怪人ガルベス絶好調時に解説で江川さんが「今日のガルべスはシュートがいいですね。僕も西本君と一緒にやってましたが、シュートがキレると内野ゴロが増えるんですよ。ですからゲッツーが取れるんですよね。ピッチャーとすれば、たった1球で2アウト取れるのは、やっぱり見てて羨ましかったですね。」と言ってました。
ですから10安打以上打たれての粘りの完封勝利や、一試合四併殺、全27アウト中20以上が内野ゴロなんて試合がありました。
このシリーズ、西武は主砲田淵など「夢に出てくるくらいビデオを見た。」程の江川徹底マーク。しかもシリーズ前の練習で右太ももを肉離れ。テーピングでぐるぐる巻の登板で絶不調。
一方西本は好調でしたね。第五戦で田淵にホームランを打たれるまで、前回の日ハム戦から29イニング無失点記録。この記録は現在の日本シリーズでも破られてないそうです。
気付いたのですが、西本はゴールデングラブ賞の常連でしたが、江川は一度も取ってないのですね。もちろん西本投手の守備が抜群に上手かったのでしょうが、私なりにはおそらく、ピッチャーゴロや、ファーストゴロのベースカバーなど、守備の機会が断然多かったのでしょう。江川投手は殆どのアウトが三振でしたからね。
87年、パ・リーグから落合が中日に移籍してくると、開幕戦で『全球シュート』でセンター前ヒット1安打に抑えた。なんて名場面もありました。この年のオフに江川が引退。西本も4勝に終わる。「ふざけるな!って思いましたよね。一緒だった9年間で一度も勝利数は勝ってないのに。でもこれからは通算勝利数で江川さんを抜くのが目標になりました。」
89年には中日の中尾捕手とのトレード。引退も考えましたが、江川をまだ抜いてないので、トレードを了承して中日入り。この年20勝で巨人斉藤と同数で自身初の最多勝獲得。
91年に椎間板ヘルニアになり、92年に自由契約。
93年はかつての先輩、土井正三監督のオリックス。この頃はもうストレートは殆ど投げず、カーブ、シュートの横の揺さぶりのテクニックで5勝するも、またも自由契約。
94年、古巣巨人に。当時の堀内投手コーチは「今更、西本なんか取っても戦力にならん!」と猛反対しましたが、長嶋監督の「あの這い上がってくる精神は、若い選手のお手本となってほしい。」との一声で復帰。
一軍の登板は一度も無かったですが、最後が巨人だったのはファンからしても嬉しかったです。
翌95年1月、猛練習に励んだ多摩川グラウンド。かつてのライバルだった定岡正二氏率いる、サダーズ
との引退試合。3000人もファンが集まったそうです。当初は5回までなのをファンの要望もあって、7回まで延長。
最後のバッター。定岡監督は平光球審(コチラも懐かしい)に「代打、ナガシマ!」を告げると、バッターボックスには、キャンプイン目前の忙しい中に、革靴、スラックス、セーター姿で駆けつけた長嶋監督。サードゴロでした。これまたコノ日に駆けつけた、桑田三塁手がさばいてゲームセット。
この時の現役最後の西本の背番号は、長嶋監督が第一期監督時代に着けてた90番、通算勝利数では江川を既に抜いてました。
504試合登板 165勝128敗17セーブ 防御率3.20
最多勝一回 89  最高勝率一回(当時は連盟表彰なし) 89  沢村賞一回 81  ゴールデングラブ賞八回 79~85、89  日本シリーズMVP一回 81  日本シリーズ敢闘賞一回 83
またまた長文になってしまいました。長々とお付き合いありがとうございました。
Posted at 2015/11/30 16:34:00 | コメント(5) | トラックバック(0) | 子供 | 日記
2015年11月27日 イイね!

不思議な絵

不思議な絵こんばんは。
長男に見せてもらったコノ絵。
まぁ何て事無い、チョッと可愛らしいヘビの2枚の絵です。
大きさも、ほぼ同じです。






ん?上が短く見えます。

上下入れ替えてみましょう。

ん?長さが変わった?
重ねてみましょう。



やっぱり同じ長さ。

撮影や絵にも、一切細工はしてませんよ。 

信じるか?信じないか?は貴女次第です。


アッ!次男が「お腹痛い」ので陸上クラブはお休みしました。ズル休みなのか?本当に痛かったのか?
信じるか?信じないか?は貴女次第です。
Posted at 2015/11/27 21:06:34 | コメント(4) | トラックバック(0) | 子供 | 日記
2015年11月25日 イイね!

卓球&カプセルトイ

卓球&カプセルトイこんばんは。
11/23(月)勤労感謝の日は、朝から洗車→思ったよりもキテたので凹みました(前回ブログ)が、そうも言ってられず、気を取り直しまして「午後は天気悪くなりそうだから卓球でもやりに行くか?」
しかし、いつもの児童館は祝日はお休みなのでイセヤベイシアの4Fゲームコーナーに行きました。
エスカレーターで上ると、2Fにぐんまちゃん
早速、記念撮影

4Fに着いて

卓球の申し込み(30分¥300、ラケット、ボールも貸してくれます)をしようとしたら、

早くもゲーム?!どうもチャッカリお小遣いを持ってきたみたいですね。ゲームをやりに来たのではないのですが(汗)。
始めちゃったので途中で止めさせるのもなので、少し待って

やっと開始。

卓球してる間にゲームコーナーの隣の催し物コーナー

今回はザスパ草津みたいですね。



ココの展示は、結構チョイチョイ変わりますから、来る度に楽しみでもあります。
見終ったら、

お父さんも少し参加。

「お小遣いも使っちゃたし、帰るか?」
「↓一回だけヤリたい!」 *写真を撮り忘れたので、イメージです。

私達が子供の頃はガチャガチャと言ってましたが、ガチャポン、ガシャポンなどと言う地域もあるみたいです。正式名称は、カプセルトイだそうです。
昔はこんな↓だったかな?

話はまた脱線しちゃしましたが、
「やってもどうせ当たらないから、1Fのフードコーナーで何か食べたほうがいいだろう。」と私が言ったのが聞こえたのか?ゲームコーナーのオニイサンが来て「何が欲しいの?」
「コマさん!」「お父さん、100円だとお店が赤字になっちゃうので、もう300円出してもらえればいいですよ。」
「かるたも優勝したから御褒美だな。」
とお金を払うと、オニイサンが、おもむろに本体オープン!ゴソゴソと当たりのカプセルを見つけて「ハイ」と手渡し。「ありがとう」

子供達は喜んでましたし、買えば多分¥2000~しそうな、ぬいぐるみで有り難かったですが、ガチャガチャの醍醐味からすると、どうなのかな?(笑)

エスカレーターを降りてると「喉がかわいた。」「コマさんもらったし、もう駄目だよ。」とフードコーナーには寄らずに、売り場で

ジュース買って帰りました(笑)。しかしベイシア安いな~。


相撲協会の理事長で、昭和の大横綱でもありました、北の湖さんが、今月20日に急逝されました。まずは謹んでご冥福をお祈りします。
強かったですね~。優勝回数などはもっと多い横綱の方も居ますが、イメージ的に強い!って感じでした。あまりに強過ぎて悪役にされてしまって、
昭和40年代の子供の好きな『巨人、大鵬、卵焼き』をモジって、昭和50年代は子供の嫌いな『江川、ピーマン、北の湖』などという言葉も生まれたくらいです。
北の湖さんについては、各方面、色々な方々が取り上げてますので、ココは同じく当時は『怪物』と言われ、凄過ぎて悪役にされてしまった、江川投手を取り上げようと思います。

江川卓 現在60歳 投手 右投げ右打ち 1979阪神タイガース 79~87読売ジャイアンツ
作新学院一年の時からエースとして活躍、栃木県予選、関東大会大会などで完全試合、ノーヒットノーランを連発して話題となる。
甲子園初出場は3年の春の選抜。江川見たさに5万8千人の超満員になったそうです。
一回は打者のバットにかすりもせずに三者三振。初めてバットに当てたのが、後に近鉄→巨人で活躍した、5番有田修三捕手。一塁側のファールだったそうですが、スタンドがどよめいたそうです!この試合は4安打19奪三振の完封。一気に江川フィーバーとなりました。
全国の強豪校は「いかに江川を打ち崩すか?」ファンは「いったい誰が江川を打つのか?」がテーマとなりました。
この大会は準決勝の広島商業戦で、ダブルスチール、ポテンヒットで負けました。
続いて、夏の甲子園は一回戦、二回戦とも貧打の作新学院の為延長となり、最後は押し出しのフォアボールで敗戦となりました。
この年のドラフト会議で、阪急の一位指名を受けるも、大学進学希望で拒否。
法政大学時代も記録を次々と塗り替え、「一体どの球団に入るのか?」で話題となりました。
大学四年のドラフト会議は、クラウンライターライオンズが一位指名。しかしこれも「在京球団ではないから」と拒否。一年間のアメリカ留学を経て、1978年のドラフト会議の二日前に巨人と電撃契約。『江川事件』『空白の一日』と言われ、社会現象となりました。結局、揉めに揉め、巨人小林投手と阪神がトレードという形で決着。巨人のエースだった小林投手に同情が集まり、一気に悪役となりました。
しかし、巨人入りしての活躍で、徐々に悪役のイメージもなくなり、エースとなりました。
しかし最後までエースナンバーの18番は「自分にはふさわしくない。」と着けなかったそうです。

今見ても、速いですよね!題名にある「スピードガンおかしい?」の様に、「当時はスピードガン導入直後だったから、精度も悪く、遅めに表示された。今のスピードガンで計れば160km出てる。」や、「江川独特のスピンの掛かったボールで、打者の近くでも伸びる(初速→終速の差が少ない)から、実際のスピードよりも早く見える。」などなど。
また「81年の20勝がピーク」や、「大学二年の時一度肩を痛めてるから、高校時代が一番速かった。」などなど、今でも語られるのはやはり凄いですよね。
ストレート、カーブ二種類だけで、勝負した最後の速球投手とも言われてます。
余談ですが、球種も少なくポンポンとテンポ良く投げるので「今日は江川の先発だから早く終わるだろう。」と中継の余った時間での『長嶋茂雄特集』や『王貞治868本の軌跡』や『ボクシング名場面』なども楽しみでありました(笑)。
引退後は日テレの解説者で活躍されてますが、またいつかユニフォーム姿が見たいですね。
次回はライバルだった、西本投手を江川投手とのエピソードを交えなが取り上げようと思います。
266試合登板 135勝 72敗 3セーブ 防御率3.02  勝率.652
最多勝二回 80、81  最優秀防御率一回 81  最多奪三振三回 80、81、82  最高勝率(当事は連盟表彰なし)二回 81、84  MVP一回 81  最優秀投手二回 80、81  ベストナイン二回 80,81




Posted at 2015/11/25 18:29:30 | コメント(4) | トラックバック(0) | 子供 | 日記
2015年11月21日 イイね!

関根潤三

関根潤三こんばんは。え~、ほぼ毎回の様に昭和プロ野球名選手列伝などと勝手に命名してやらせてもらってますが、今回はこの御方、関根潤三翁(失礼)をやってみようと、色々調べましたら、さすが日本プロ野球の生き証人と言われるだけあって、出るわ出るわ、なかなか興味深いエピソードなどがありまして、とてもブログ終わりにチョコッとでは収まらないので、1ブログそっくり使って取り上げようと思います。
長文、乱文になってしまったので、お暇な時にでも読んでくださいマセ。
事の発端は、今年のオールスターで日ハム大谷翔平選手が、関根潤三氏以来52年振りの快挙!野手、投手、両部門でのファン投票で選出!とニュースになりました。
大谷選手は一昨年、外野手部門で選ばれ、昨年は投手で監督推薦での出場でしたが、今年は遂に先発投手部門のファン投票で選ばれ、快挙達成となりました。
一方、関根さんは1953年に投手、63年に野手で選ばれてる。と、ココまではニュースで見ました。
「そう言えば、関根さんの監督、解説者時代は知ってるけど、現役時代は生まれる前だし、知らないな~。大谷選手みたいに二刀流だったの?」と自称昭和プロ野球研究家(笑)の血が騒ぎまして、色々と調べてみました。
まずヤクルトの監督を勇退→フジTV解説者となって、プロ野球ニュースで「アノ頃の近鉄は大砲、長距離打者が居なくて、ピストル打線なんて言われててね。」と言ってたのを思い出して、近鉄の選手だったのは分りました。しかしポジションは?どんな選手?映像は無いかな?と検索したみたら、たった10秒チョイの動画ですが↓が、

エ~!?巨人じゃん!!巨人にも居たの?しかも左打ち?ホームラン打ってベース一周後に迎えた背番号1は間違いなく若かりし王貞治選手ですね。と言う事は打順は二番か?などなど、謎は深まるばかりです。益々血が騒ぎ(笑)調べたので、順を追って紹介しましょう。

関根潤三 現在88歳 投手、外野手 左投げ左打ち
選手 1950~64近鉄パールス、バファローズ 1965読売ジャイアンツ
コーチ 1970広島東洋カープ 1975読売ジャイアンツ  二軍監督 1976読売ジャイアンツ
監督 1982~84横浜大洋ホエールズ 1987~89ヤクルトスワローズ
戸籍上は1927年(昭和二年)3月15日生まれですが、実際は1926年(大正十五年)12月25日だそうです。御本人曰く「丁度、生まれた日に大正天皇が崩御されて(亡くなられて)、オヤジが届出に行ったら、役所も何も全部閉まってたんですよ。で、そのまま三ヶ月くらいオヤジが忘れちゃってね。」だそうです。ちなみに、全く同じ日に生まれた植木等さんも同じ様な理由で、戸籍上の誕生日が違うそうです。
「でも、そのおかげで戦争に行かなくって助かったんだよ。大正生まれから順に戦争に行って、もう人が居なくてね。でもその頃戦争が終わったから。」と、同じ様な話を、昭和三年生まれの私の父からも聞いてます。六人兄弟の末っ子の父の御兄さんは大正一桁生まれですが、開戦間もない頃のニューギニアで戦死してます。その後大正二桁生まれが召集されて。と言う訳ですね。父も旧制中学の卒業が一年早まってます。「あと一年も戦争が続いてたら俺も分らなかった。」と、いまだによく言ってますね。
また話が脱線しちゃいましたが、関根さんは旧制日大三中で、二塁手、その後投手として活躍。左の二塁手ですが、「3回ほどダブルプレーを成功させた。」らしいですが、どんな事やったのでしょうか?
この頃に、アノ沢村栄治投手とキャッチボールをして、直々に指導も受けたそうです。
その後、法政大学に進み、本格的にエースとして、同時に打者としても活躍しました。
卒業後は社会人野球の新日鉄八幡の野球部に就職が内定してたそうですが、日大三中→法政大学と恩師だった藤田省三さんが、近鉄の監督になった為に誘われて、50年に近鉄入り。51年、53年と開幕投手を努めるなど、当時は万年最下位だった近鉄で、8年間エースとして活躍。
その後、外野手に転向したそうですが「当時は中三日も開けてくれない登板間隔で、20勝して一人前なんて言われてたから、もう投手として限界を感じてたんだよ。どんなにやっても16勝止まりだったしね。」と言われてました。確かに最多勝が30勝、40勝なんて時代ですから、20勝で一人前ってのも分かる気がします。
しかし私が調べた所、投手時代の通算成績で、先発が157試合、内完投が87試合と半分以上完投してるのですよね。しかも通算勝利数が65勝ですから、勝ち数より完投の方が多いんですよね。万年最下位のチームでなく、もっと打線の援護があったら楽に20勝してたのでは?などと想像してます。それと、投手時代も打数は少ないですが、2シーズン3割打ってます。
で、首脳陣に野手転向を申し入れたら「転向しても下位打線では困る。」そリャぁそうですよね。チームのエースがいきなり抜けちゃうんですから、打者でもソレ相応な成績を残してもらわないと。って事ですよね。
そこで、試験的に5番ライトで3試合限定で出場したら、初戦でいきなりのホ-ムランを含む3安打!2戦目も2安打、3戦目も3安打と活躍。しかし転向してそんなすぐに打てるんだから凄いですよね!
こうして57年からピストル打線の中軸選手となりました。
その後、65年に巨人に移籍。現役最後の1年で、自身初のリーグ優勝、日本一を経験しました。後にこの年が、巨人栄光のV9の最初の年となりましたね。
通算50勝、1000本安打は2リーグ制になってからは、他に誰も居ないそうです。
この時38歳で、当時は30台前半の引退が殆どでしたから、川上監督以外はコーチを含め全て年下だったそうで巨人ナインには「お父さん」と呼ばれてたそうです。「アノ歳まで現役を続けられたのも、両方やったから。大谷君も二刀流だと、どっちつかずになるかも?だからドチラかにしたほうがいいと思う。30過ぎても打者には転向できるけど、逆はキツイね。」と言われてました。
その頃、長嶋さんと仲が良く、長嶋邸で深夜まで野球談義にふけったそうです。「だから一茂は幼稚園の頃から知ってるんだよ。アイツを一人前にしてやれなかったのが、唯一の心残りかな?」後に、人材育成の名手と言われた関根さんならではですよね。一方「池山、広沢は体が頑丈だったからね。どんなにシゴイても壊れないって安心感があったよね。弱い選手だと壊れそうで怖くってね。」「一茂も頑丈だったけど、チョッと不器用だったかな?」その後、野村ヤクルトが90年代に黄金時代を迎えた訳ですが、関根さんが育てた選手が活躍しましたよね。一方、一茂選手は冷遇されて、巨人にトレードされましたね。
その他では、広島コーチ時代の、衣笠、山本浩二、三村、水谷。大洋監督時代は、遠藤、後に近藤監督の下、スーパーカートリオで活躍した、屋敷、高木豊、加藤博一(加藤選手は阪神をクビになりそうな時に、関根さんが大洋に入れて開花したそうです)、関根さんの育てた選手は数え切れない
です。
解説などで温厚な人柄が滲みでてますが、実は怒らせたら凄い怖いそうで、広島で同時期コーチをやってた広岡達朗さんも「関根さんは怒らせてはいけない人。」学生時代~近鉄でバッテリーを組んで、広島時代は監督だった、根本陸夫さんは「インテリやくざ」と言うくらい。
ヤクルト時代はピンチでマウンドに行くと、ギャオス内藤、川崎憲次郎投手などの足を思い切り踏みつけながら「ここで打たれたら怒るよ。」と笑顔で言いながらやってそうです(笑)。
普段温厚な人って怒らせると怖いって本当なんですね。
現在もフジTV系の解説者として、毎回ではないですが、ご意見番的にCS版プロ野球ニュース、ニッポン放送で活躍されてるそうです。
通算成績 
投手 244試合登板、65勝、94敗、防御率3.43  打撃成績(投手時代も含む)1417試合出場、1137安打、59本塁打、42打点、打率.279
2003年野球殿堂入り 








Posted at 2015/11/21 18:51:35 | コメント(3) | トラックバック(0) | プロ野球 | 日記
2015年11月18日 イイね!

あわや帰宅難民?

あわや帰宅難民?こんにちは。
11/15(日)に天龍源一郎選手の引退試合で両国国技館まで行ってきましたのは、前回のブログ書きましたが、その行き帰りの珍事についての御報告を。
まず、東京ドーム、後楽園ホール、日本武道館は行った事がありますが、両国は人生初でした。
かつて、独身時代には1.4東京ドームによく行った地元の友達に声を掛けましたが、その前週か?前々週か?に日本武道館まで復活なったレベッカのコンサートに行く予定らしく、両方は無理との事。
私も「レベッカか~!行きたいけど、同じく両方はお財布が厳しいなぁ。」と悩んだ末に、大都会の東京両国国技館まで一人で行く決断をしました。





♪~裏切りの、言葉に~。故郷を~離れ~わずかな望みを~、求めさすらう俺なのさ~。
(笑)
試合開始が15:00ですので、少し余裕をもって11:30に家を出て、車で約30分、JR籠原駅を目指します。
しかしいつもの駅近くの有料【P】が満車!何箇所か廻りましたが、全て満車!仕方なく裏の駅南側へ。
やっと一台開いてた!しかし入り口の段差が・・・。既に最初の【P】満車から30分以上経過、時間が・・・。入ってみよう。ガツッ!ガリガリ!嫌な音。
諦めて違う【P】

ここもOUT!時間が、焦る。
見ると、駅の南側って歩道と車道が殆どこんな段差になってるのですね。いつもは北側に停めらてれたので知りませんでした。
やっと段差のない【P】を発見。駐車してさっきの音の主を確認。



下を覗いた限りでは、オイルパンもマフラーも擦った感じはなかったので、スポイラーが守ってくれたと考え駅に急ぎましょう。


上の12:50発でも行けるのですが、乗換えがイマイチ不安で迷ったりすると余計にロスするので、分り易い12:59発にしました。コレだと多分ギリ間に合います。

あぁ上野駅から、山手線で二駅。


電気の事なら石〇電気、の秋葉原から中央総武線でまた二駅。

ちなみに逆方向に二駅行くと水道橋駅、東京ドームです。なので、このルートを覚えてます。

両国駅着。

国技館は西口か~。

西口を出ると、やっぱり大都会。



♪~見知らぬ、街では~。期待と~不安が~ひとつになってぇ~、過ぎ行く日々など分らない~。
シツコイ?(笑)

右にすぐ見えた↓

国技館っぽいな?行ってみよう。
ん?どうも裏に廻ってしまったみたいで、約一周しちゃいましたが、何とか着きました。
2F席に着いた時には、既にリングアナが喋ってました。こちらはセーフ。
その後は前回のブログにて。

19:30くらいに終わったので帰りましょう。


電車の中で「22:00くらいには帰れるよ。」とカミサンにメール。
21:35籠原着。

あ~!ココだぁ。この段差め~!などと思い、「アレ?どこの駐車場だったっけな?何しろ急いでたからな。」などとウロウロ。
10分経過
カミサンに電話「チョッと行きに急いでて、停めた駐車場が分らなくなったから少し遅れるよ。」「大丈夫?」「大丈夫だよ。行きと違って暗くなってるから分かり辛いけど、でもすぐに見つかると思うよ。」
確か一日¥300の【P】だったから、駅の近く→遠くになるにつれて、¥600→¥500と安くなるから、チョッと離れてたな。¥300の看板を見つければ。
30分経過!
アレ?ココさっき通ったよな?
もう一回駅まで戻ってみようか?
1時間経過!!
この¥300の【P】じゃないんだよな~。つうかココ三回目!完全に分りません(泣)。お腹も空いた。まだ寒くないのが救いです。
1時間15分経過!!!もう限界。さっきの駅近くのビジネスホテルに泊まろう。で明るくなったらまた見つけてみよう。
カミサンに電話「そんな事だろうと思って、迎えに出たよ。もう籠原駅に着くよ。」
オ~!神よ!(笑)
カミサン着。「また明日、車取りに来るのも、追加料金払ったりも面倒だから、タントで少し見つけてみよう。」とカミサン。
5分もしないで「ここ¥300の駐車場じゃない?」「ココはもう三回も通ったよ。」
「違うよ!コッチの道の向い側の駐車場だよ。あれ、スカイラインじゃない?」
ありました(笑)。そんなもんですね。あ~恥ずかしい。
既に疲労困憊で写真を撮る気力もありませんでした。しばらく、カミサンに頭が上がりませんね。
タント、スカイライン二台で帰る途中の埼玉、群馬の県境の上武大橋で検問やってました。
「慌てて来たから、カミサン免許もって来たのかな?」チョッと不安でしたが、大丈夫でした。
スカイラインも無事、おとがめ無し。良かった良かった。
家に着いたら0:00丁度でした。ヤレヤレ。


掛布雅之 現在60歳 三塁手 右投げ左打ち 1974~88選手 2016~二軍監督 いずれも阪神タイガース 
74年に習志野高校からドラフト6位とほぼテスト入団で阪神入り。契約金は500万、年俸84万円。今と貨幣価値が違うと言っても、安かったですね。
高校時代はショートだったので、オープン戦で藤田平が結婚式で欠場の機会に出場して活躍。開幕一軍入りを決める。しかし不動のショート藤田が居た為、サードで右投手は掛布、左は佐野でしたが、徐々に掛布が正三塁手となり、佐野は外野にコンバートされた。 
引退後に「僕はホームランバッターではなかった。」と、ご本人も言われる様に、本来は中距離打者でしたが、79年に田淵が西武に移籍すると、より一掃主砲との期待が集まりました。
しかし、甲子園球場独特のレフト方向に吹く浜風の為に、本拠地とする『阪神で左の長距離砲は育たない』との声もありまして、そこでレフト方向へ『技』で打ってホームランを量産しました。

と同時に肉体的にも相当な無理をしてたみたいです。
81年には、四番として全試合出場を目標とし、ホームランは23本と減りましたが、打率は.341と生涯ベストの成績を残しました。
「あのシーズンが一番自分らしいバッチングができた。」と後に語ってました。しかし、そのシーズンオフに「もうチョッとホームランが見たかった」とファンに言われ、またホームラン狙いのバッティングに戻したそうです。
そんな無理もたたって、85年の日本一を境に、怪我に泣かされ、88年に33歳の若さで引退となりました。
来期から二軍監督として27年振りに縦縞のユニフォームに袖を通します。しかも背番号は31番だそうですから、昭和プロ野球ファンのオヤジとしては、楽しみですね。少し残念なのが、若々しいアニキ、金本監督もいいのですが、やっぱり一軍の監督をやってもらいたいですよね。

1625試合出場 打率.291 349本塁打 1019打点
本塁打王3回 79、82、84  打点王1回 82  最高出塁数2回 81、82  ベストナイン7回 76~79、81、82、85  ダイアモンドグラブ6回 78、79、81~83、85 
Posted at 2015/11/18 17:39:26 | コメント(7) | トラックバック(0) | 日記

プロフィール

「アメブロ投稿しました。
来月からに期待
https://ameblo.jp/7979kame/entry-12848388938.html
何シテル?   04/16 22:44
久々にみんカラを覗いたら、以前に使ってたこのアカウントにログインできたので、いつまで続くか?ですがまた暫く使ってみます。 『昔の名前で出ています』 byアキラ...
みんカラ新規会員登録

ユーザー内検索

<< 2015/11 >>

12 34567
8910 11121314
15 1617 181920 21
222324 2526 2728
29 30     

愛車一覧

日産 スカイライン 日産 スカイライン
日産 スカイライン2000RSの中でも一番の不人気と言われる白の前期型。 (^_^;) ...
その他 自転車 (クロスバイク) 大日産業クロスバイク21段変速 (その他 自転車 (クロスバイク))
毎年7月末に地元の市民プールがスタート&ゴールのミニトライアスロン。 スイム900mで真 ...
その他 ハチスカ パパチャリ6段変速 (その他 ハチスカ)
通勤からサイクリングまでとコチラも幅広く活躍中。 しかし毎年7月末に行われる地元の市営プ ...
スズキ キャリイトラック 軽トラ (スズキ キャリイトラック)
仕事からお買い物まで幅広く活躍中。 特に冬場は雪や塩カルに弱いSkylineに代わって、 ...

過去のブログ

2024年
01月02月03月04月05月06月
07月08月09月10月11月12月
2023年
01月02月03月04月05月06月
07月08月09月10月11月12月
2022年
01月02月03月04月05月06月
07月08月09月10月11月12月
2021年
01月02月03月04月05月06月
07月08月09月10月11月12月
2016年
01月02月03月04月05月06月
07月08月09月10月11月12月
2015年
01月02月03月04月05月06月
07月08月09月10月11月12月
ヘルプ利用規約サイトマップ
© LY Corporation