こんばんは。
遂にプラネタリューム、天文台スタンプラリーも完結編です。
と、その前に11/28(土)は次男が陸上クラブに入って初の大会、
2015年群馬県小学生駅伝競争大会兼小学生マラソン大会でした。
やたらと長い名前ですが、平たく言うと県で毎年やってる大会で、クラブの速い子や高学年の子は駅伝にチームで出て、低学年や駅伝の選手に選ばれなかった子はマラソンにも出られますよ。みたいな感じかな?と。
前夜の練習を「お腹痛い」と休んだので、少々心配しましたが、朝早く(いつものグラウンド【P】に6:10集合)元気に出て行きました。
私は仕事でしたので、カミサンに「初めての大会だし、デジカメでも携帯でもいいから写真撮ってよ。」と言ったところ
「イヤだよ!メンドクサイ!」
と思いましたが、先日の籠原事件?(笑)もありましたので
なので、画像は一枚もありません(泣)。
1~2年生は600mなので、「マラソンにしては短いし、低学年は参加するだけみたいな、ゆるい感じなのかな?」と思ってました。
帰ってきたら「全然速いよ!マラソンのペースじゃなかった!
600m走だね。」とカミサン。結果は35人中最下位だったそうです。
先週の小学校の持久走大会は学年で20番以内に入ったので、遅くはないのでしょうが、やはり県のアチコチの陸上やってる子の中に入ると、そんなものなのですね。
今までビリなんて経験が無いですから「辞めたい」なんて言うかな?と思いましたが、続けるそうです。
そんな訳で、今まで「いつまで続くのやら?」でしたので、靴も普段小学校に通ってるマジックテープの奴でしたが、帰りながら、ちゃんとした紐のランニングシューズと、着替えを入れるスポーツバックを買ってあげたそうです。
てな話を↓の人が聞いてまして、
「600mか~。小学校のグラウンドは200mだから、三周だよね。
僕はギブだな。」だそうです(笑)。
家では一緒に走ってるし、持久走大会が終わっても、続けて一緒に走るそうですから、まあいいかな?
お父さんはこの日の晩は、秋からやってます、
交通指導員の忘年会。
年配の方々ばかりでしたが、「朝に旗を持って交差点に立つのは仕事をしてる、勤めの人など、やっぱりチョッと無理だよな?」と、聞いたところ、この数年で10人以上辞めてて、新い人が何年も入ってないそうです。
順番の交代で、年4~5回程度だそうですので、私は受けましたが、これから新しい人を見つけるのは難しいみたいですね。
地元商店街の方々が多かったです。お店だとオープンが10:00とかでしょうから間に合いますよね。しかしその商店街も他所でもそうなのでしょうが、閉店してるお店が多いですし、跡継ぎがやってるお店は少ないです。寂しい限りですね。
翌、29(日)は朝から、陸上クラブで
利根川の河川清掃に参加。
他にも色々なクラブ、サークル、企業など20以上の団体が参加。恥ずかしながら知りませんでしたが、もう10年以上やってるそうです。
今は川原も川も綺麗になりましたよね。私達が子供の頃が一番汚かったでしょうか?「こういった地道な活動によるものなんだなぁ。」と、改めて思いました。
終わったら、そのまま河川敷のグラウンドで一時間程練習。
天気も良くて、浅間山もよく見えました。もうスッカリ雪化粧ですね。
帰ってお昼を食べたら、
スタンプラリー。最後は
桐生市立図書館
の3F
住所と名前を書いて、後の手続きはやってくれるそうです。締め切り後の来年三月に景品が郵送で届くそうです。楽しみですね。
「最後くらいは一緒に見ようか。ココは無料だし。」(笑)とお父さんも久々に見ましたが、やっぱり眠くなっちゃいました(苦笑)。
西本聖 現在59歳 投手 右投げ右打ち
選手 1975~88読売ジャイアンツ、89~92中日ドラゴンズ、93オリックスブルーウェーブ、94読売ジャイアンツ
コーチ 2003阪神タイガース、2010~12千葉ロッテマリーンズ、2015ハンファ・イーグルス(韓国)
75年にドラフト外で巨人入り。同期のドラフト一位の定岡を目標、ライバルとして、二軍で猛練習に励む。二年目に二軍イースタン・リーグで最多勝。翌三年目には一軍で8勝。徐々に頭角を現す。
この頃の投手コーチだった杉下茂氏が、TBSラジオの解説で当時を振り返ってましたが、「長嶋監督に『西本のシュートはいいね。何とか一人前にしてあげてください。』と言われましてね。まぁ二軍の頃はシュートばっかり投げててね。余程自信があったのでしょう。キャッチャーのサインに首を振ると必ずシュート(笑)。『でも、それだけではプロでは勝てないよ。』と、カーブの取得に取り掛かったんです。握り方から教えて、腕の振りを覚えさせる為に、両膝を着いたままの体制で、ただひたすら何回も何百球も投げるの。毎日それの繰り返し。それでカーブを覚えたので、あのシュートが生きたんですよ。」
長嶋監督も現役時代は大洋平松投手のカミソリシュートに苦しめられましたからね。確か対戦成績は打率一割台だったかと。
四年目からは先発ローテーション入り。この頃には完全に定岡投手を抜いてました。
しかし5年目に一歳年上の江川卓が入団。当時を振り返って、「入って来るな!と思いましたね。やっとローテーション入りまで来たのに、アレだけの人が入ってくれば、外されるのは当然一番実績の無い僕でしょうから。」と、この時からライバルは江川になりましたね。
79年秋の地獄の伊東キャンプでは、たまたま隣同士になったブルペンで100球→200球→両者共に意地の張り合いで止めない。遂に300球を越えた所で「もういい加減にしてくれ!二人とも壊れちゃうよ!」とブルペン捕手の方が、止めたそうです。この頃には江川さんも意識してたんですね。
81年からは一年おきに開幕投手を努めるなど、藤田監督もあえて二人を競わせる事にしたそうです。
その81年ですが、江川投手は20勝して、最多勝、勝率、防御率、奪三振、ベストナインと投手五冠を達成したのに、沢村賞は18勝の西本と話題になりました。翌年から、スポーツ記者による投票→現在の様な、プロ野球投手出身の選考委員会での選出。と沢村賞の選考方法まで換えるという事態になりました。
伝説の83年西武との日本シリーズです。内野ゴロ多いですね。
あの怪人ガルベス絶好調時に解説で江川さんが「今日のガルべスはシュートがいいですね。僕も西本君と一緒にやってましたが、シュートがキレると内野ゴロが増えるんですよ。ですからゲッツーが取れるんですよね。ピッチャーとすれば、たった1球で2アウト取れるのは、やっぱり見てて羨ましかったですね。」と言ってました。
ですから10安打以上打たれての粘りの完封勝利や、一試合四併殺、全27アウト中20以上が内野ゴロなんて試合がありました。
このシリーズ、西武は主砲田淵など「夢に出てくるくらいビデオを見た。」程の江川徹底マーク。しかもシリーズ前の練習で右太ももを肉離れ。テーピングでぐるぐる巻の登板で絶不調。
一方西本は好調でしたね。第五戦で田淵にホームランを打たれるまで、前回の日ハム戦から29イニング無失点記録。この記録は現在の日本シリーズでも破られてないそうです。
気付いたのですが、西本はゴールデングラブ賞の常連でしたが、江川は一度も取ってないのですね。もちろん西本投手の守備が抜群に上手かったのでしょうが、私なりにはおそらく、ピッチャーゴロや、ファーストゴロのベースカバーなど、守備の機会が断然多かったのでしょう。江川投手は殆どのアウトが三振でしたからね。
87年、パ・リーグから落合が中日に移籍してくると、開幕戦で『全球シュート』でセンター前ヒット1安打に抑えた。なんて名場面もありました。この年のオフに江川が引退。西本も4勝に終わる。「ふざけるな!って思いましたよね。一緒だった9年間で一度も勝利数は勝ってないのに。でもこれからは通算勝利数で江川さんを抜くのが目標になりました。」
89年には中日の中尾捕手とのトレード。引退も考えましたが、江川をまだ抜いてないので、トレードを了承して中日入り。この年20勝で巨人斉藤と同数で自身初の最多勝獲得。
91年に椎間板ヘルニアになり、92年に自由契約。
93年はかつての先輩、土井正三監督のオリックス。この頃はもうストレートは殆ど投げず、カーブ、シュートの横の揺さぶりのテクニックで5勝するも、またも自由契約。
94年、古巣巨人に。当時の堀内投手コーチは「今更、西本なんか取っても戦力にならん!」と猛反対しましたが、長嶋監督の「あの這い上がってくる精神は、若い選手のお手本となってほしい。」との一声で復帰。
一軍の登板は一度も無かったですが、最後が巨人だったのはファンからしても嬉しかったです。
翌95年1月、猛練習に励んだ多摩川グラウンド。かつてのライバルだった定岡正二氏率いる、サダーズ
との引退試合。3000人もファンが集まったそうです。当初は5回までなのをファンの要望もあって、7回まで延長。
最後のバッター。定岡監督は平光球審(コチラも懐かしい)に「代打、ナガシマ!」を告げると、バッターボックスには、キャンプイン目前の忙しい中に、革靴、スラックス、セーター姿で駆けつけた長嶋監督。サードゴロでした。これまたコノ日に駆けつけた、桑田三塁手がさばいてゲームセット。
この時の現役最後の西本の背番号は、長嶋監督が第一期監督時代に着けてた90番、通算勝利数では江川を既に抜いてました。
504試合登板 165勝128敗17セーブ 防御率3.20
最多勝一回 89 最高勝率一回(当時は連盟表彰なし) 89 沢村賞一回 81 ゴールデングラブ賞八回 79~85、89 日本シリーズMVP一回 81 日本シリーズ敢闘賞一回 83
またまた長文になってしまいました。長々とお付き合いありがとうございました。