
まず、こちらのSNSは車関係のSNSでありながら、このような自分の身体の事を日記のタイトルにして申し訳ないです
第2の誕生日?13回目の誕生日って未成年だったんかーいと思う方は多いかと思います
実は、13年前の今日、自分は「癌」と告知されました
プロフィールにも書いてありますが、癌の経験者であり、未だに年1で通院しています
ホントは去年だったら12年と一周したのできりが良かったのですが、今年、他のSNSで同じ病気と闘っている戦友と交流をするようになり、皆さんにも自分の病気・経緯を知ってもらえたらと思い、長文ながらブログに書き記しました
尚、他のSNSでも同じような内容で投稿したことがありますが、一部編集し、まとめてあります
長いですが、11か月分の記録です
読んでいただけると嬉しいです
自分の病気の経緯を話します
H21年4月前半
左顎にプクっと膨らみが出来た
親に相談したら、すぐに皮膚科へ行って来いって言われたから、翌日行った
行っても分からなかった
すぐに地元の医科大学付属病院の紹介状を書いてもらった
行ったのは、形成外科
入院したのが6月4日
手術日が6月5日
翌日は親父の誕生日
多分、親父の人生の中で忘れられない誕生日だったと思う
手術日は6月5日と先に決め、それまでの間に出来るだけ検査した
CT.MRI.PETCTとかやったけど分からず
針を刺して細胞検査もしたけど分からず
多分悪性じゃないかと言われて手術した
6月11日告知
結果は「横紋筋肉腫胞巣型」
宝くじで1等当てるより低い確率でなる小児がんですって言われた
そこの病院では対応出来ないからって他の病院を紹介された
その時、絶望した
白血病で亡くなった妹の同級生を知ってたから
あぁ俺も死ぬんだなと思った
息を止めて、死のうと思った
でも死ねなかった
どん底まで落ち込んでた矢先、親と一緒にDへ行き、車の契約をした
水色のアイツ
その後、紹介状を出してくれた地元の大病院へ行った
触って即
「再発です」
って言われた
でも、この病気を集めて治療している先生とこの前会ったから、連絡しますと言われ、連絡が着いたら「すぐに来てくれ」と言われた
片道3時間。同じ県内だけど遠い
でも、がんセンターと呼ばれるだけあって、他の病院とは違った
そこで待っていたのが、私の命の恩人T先生(当時副医院長)
「多分日本中探して、この病気をたくさん診たのは私だ。だから、私に任せてほしい」と言われ、この先生に賭けようと思った
どん底の気持ちから、光が見えた瞬間だった
6月23日がんセンターへ入院
整形外科の病棟だった
化学療法(VAIA療法)治療開始
髪の毛がすぐに抜けると思ったけど、14日目くらいにシャワー浴びてたら、ボロボロ抜けた
水分も沢山摂らないといけなくて、提示するの面倒だったから、ミカンをたくさん食べた
排尿量も管理されて、足りないとナースに出さないと、利尿剤を飲まないといけないと言われ必死に出した
骨髄抑制が終わり、1週間家に帰宅
その間にたくさん食べた
飯が美味かった
病院食は不味くてダメだった
治療して痩せ、家に帰り戻しの繰り返しを4回繰り返した
病院に行くのも憂鬱だった
でも、青いアイツに乗りたいって気持ちで我慢した
上司に勧められ、ミキプルーンもやってた
病院に戻る時、必ずCoCo壱に寄ってもらい、ロースカツカレーを食べてた(縁起を担いで)
おかげでだんだん腫瘍は小さくなった
9月下旬手術の為、病棟移動。頭頚部外科へ
9月30日手術した
その日は、偶然にも祖父が亡くなった日だった
全身麻酔で、左顎から肩にかけてリンパ節の切除した
手術は成功
最悪の事態は防げた
左下がダラーンとならなかった
だけど、未だに水をめいっぱい入れると漏れるw
その後、超大量化学療法をやるか、放射線をやるかどうするか言われ、放射線を選択した
「もうコテンパンに倒してください」って言ったのを覚えてる
超大量化学療法をやる為、11月小児科へ病棟移動した
放射線治療と併用して、ICE療法をやった
この時に会った戦友と未だに交友関係が続いている
放射線をやると照射している時に変な匂いがする(やった人あるあるだと思うが)
ただ、放射線をやった事で、口腔内がただれて、一時食べる事が出来なかった為、メイバランスみたいなのモノを飲んでた
歳を越して1月
始まった超大量化学療法
大量ICE療法
ハイケアルームっていう超クリーンルームに入るんだけど、入ったら、面会は窓こしでしか出来なかった
ただ初回がキツかった
5部屋あるんだけど、2部屋がおばはんで、うるさかった
自分がキツい時に、外でベラベラ喋ってて、嫌になった
泣いた
もうイヤです
次はやりたくない
ナースにも言ったし、他の先生にも言った
けど、乗り切った
この時に、自分の元気な骨髄を入れた
一時、免疫が0になる治療で、これを入れないと治らないどころか出られない
自己末梢血幹細胞移植
あと、この時、初めて体温が40度overした
耳たぶ触ると分かるんだよw
初回乗り越え、1ヶ月のインターバル
そして3月
2度目の超大量化学療法
大量メンファラン療法
その時は、ハイケアルームに消防士のお兄さんがいた
白血病だった
そのお兄さんと一緒に乗り切った
歳も近かったし、優しいお兄さんだった
一緒にゲームしたりした
多分このお兄さんがいなかったらと思うと
ゾッとする
4月1日
治療終了した
ちなみに手術を終えた時点で「寛解」していた
超大量化学療法は、トドメの治療で、予定に組み込まれていた
そこから、120日間は、病気にならないように薬を服用したりして過ごした
退院して、1ヶ月ちょっとで職場復帰した
清潔な部署へ移動した
治療が終わり、お見舞いに行った際に、いろいろ差し入れをした
当時遊戯王が流行ってて、カードをプレゼントしたり、お守りをプレゼントしたり、映画のパンフレットを寄贈したりした
小児科で最年長患者ってのもあっし、戦友を励ましたかった
多分、これがはじまり
全員が全員大丈夫だったワケではなかった
察して欲しい
口では言わない
あのお兄さんから電話があったが、出られず
折り返し電話したら奥さんが
泣いた
定期検診も、1.5ヶ月に1度から、2ヶ月、半年、1年に伸びていきました
去年からは、CTはやらなくていい事になりました
もう来なくてイイかもと言われたりしましたが、年1で来させてくださいとお願いして、今年1で受診しています
やはり、他の種類の癌になる恐怖と戦っています
実際、癌は癌でも別の癌になって入院される方もいるとの事
自分の場合、祖父を癌で亡くし、父は甲状腺をやっているので念の為です
ですが、命の恩人T先生は、私が受診してきて「大丈夫」って言うと、ニコッと笑ってくれます
やはり、嬉しいんでしょうね
多分T先生がお辞めになるまで通い続けるでしょう
未だに抗がん剤の副作用と闘っています
手の震え
これに関しては治らないので、きっぱり諦めています
こうやって生きていることに感謝し、今現場で闘っている戦友の希望になるべく、私も頑張っていこうと思います