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銀河遼のブログ一覧

2025年07月25日 イイね!

マツダ・センティアに一目惚れした頃・・・。


1991 (平成3)年6月23日、マツダのロータリーエンジン(R26B型)搭載マシン「787B」が、世界最高峰の耐久レース“ル・マン24時間レース”で、日本車初の総合優勝を達成した正にその日のその時間に、私は市川市南八幡4丁目にあったユーノス市川店でマツダセンティア・エクスクルーシヴの納車に立ち会って居た。

思えば、機械設計と電気制御を請け負う個人のエンジニアとして独立して3年目の42歳の時の事でした・・・・。





何処で最初にセンティアを見たかの記憶は曖昧ですが、特に印象的だったリアクオーターパネルとサイドルーフ付近の造形に一目惚れして、MAZDAのディーラーの何軒かを回ったが、半年以上待たされるという返事が続いていて、半ば諦めかけていた時にロードスターのユーザーだったテニス仲間に市川の南八幡に有るユーノス市川店の店長さんを紹介して頂いて、ユーノス系ディーラーの扱い車種ではない「センティアを売って頂けますか?」と聞くと「大丈夫ですよ」と二つ返事!仕様なども直ぐに決めて即注文したのでした・・・・。

その時に私が乗っていたのはHONDAのABプレリュードでしたが、車検も未だ1年ほど残っていたのですが、下取りにせずに、後に別のテニス仲間の友人に差し上げました。



上の表は今日ネットで拾った当時の価格表です。

会社勤めを辞めて独立後、半年ほどの間に私が辞めたことを何処かから伝え聞いた取引先の全てから連絡を頂いていて、とうとう今の今まで自分から営業活動をすることなく過ごしてまいりました・・・・。

そんな訳で、この一目惚れしたセンティアのエクスクルーシヴを購入した時の価格はこの価格にフルオプション+自動車電話器を搭載して、任意保険やら税金等をプラスするとかなりの価格になっていましたが、一括現金で支払う事が出来ました。

当時を思い出すと、自動車電話は、ショルダーフォンとして車から持ち出すことが出来ましたが、ポケットに入るサイズの携帯電話はまだ普及する前で、持ち歩けても大きくて邪魔なサイズでしたから、ガラケーが誕生する前と言う事になります。



今では一人1台のスマホは普通の事で複数台のスマホを所有する人も少なくない時代なので、まさに時代は高性能バッテリーの進化と共に大きく変わってしまいました。

今思い出しましたが、自動車電話の別置きの受話器セットは、運転席と助手席の間に在るコンソールボックスの中に自分で工夫して入れていました。MAZDAではそこまでのオプション設定は無かったのでした・・・・もちろん当時はハンズフリーなどにはならないので、運転中は受話器を耳に当てて片手運転する事になっていたのです。

都心を離れれば繋がらない地域も今より遥かに多く、通信品質もアナログ電話でしたから相応に悪いものでもありましたから、車載の自動車電話は、トランクリッドに立てたアンテナ共々ステータスシンボル以外の何物でも無かったように思えます。つまり見栄を張るには、正におあつらえ向きだったのですね・・・笑。

そんな独立後3年目の私はとりあえず成功者の仲間になったような気分で・・・、まあ、何と言いますか、やはり見栄と言うか・・・、稼げるようになった自分を誇示したかったのですね・・・。

そんな「昭和~平成は遠くになりにけり」・・・なのです・・・・笑。


Posted at 2025/07/26 15:13:40 | コメント(0) | トラックバック(0) | 昔話 | 日記
2025年02月06日 イイね!

思い返す「自分に起きた大ピンチ」の瞬間!!


若かった頃の想い出の中で、もしあの時に回避できていなかったら、現在の自分は居なかったかもしれない・・・。

そんな危険な想い出をたぐって見た・・・・。

その1:高校2年生の頃、冬休みにアルバイトでガソリンスタンドで働いていたことがあり、先輩の運転する車でプロパンガスの配達の助手をしていて、ガスボンベの集積所で車がバックして来た時に、運転する先輩の死角にいたらしい私は、コンクリートのデッキと車の後部に危うく挟まれそうになった。
ものの0.3秒気付くのが遅かったとしたら、自分はダットサントラックの荷台の後部と高さ1.2m程のコンクリートデッキに挟まれて大けがをするところでした。実際にダットラの後部はコンクリートデッキの上端に張ってある古タイヤの表面にドスンと音を立ててぶつかった。

ひらりと体を躱して難を逃れたものの、直後にその間一髪の出来事を振り返り冷や汗ものだったのでした。もし挟まれていれば少なくとも骨盤と大腿骨上部の骨折は免れなかったと思うし、もしかしたら内臓破裂と言うことも有り得たかもしれない。

その2:確か21~22歳の頃だったと思うが正確な年号は良く思い出せない。やはりアルバイトで印刷業の会社に勤めていて、半ば社員の様な扱いを受けて居た頃、会社のホンダN360を借りて帰宅していた時の翌朝、京葉道路の花輪インターチェンジのカーブで単独横転事故を起こしてしまった。原因は車体の左側に在った燃料タンクの給油口の蓋がされていなくて、満タンに近かったガソリンが、勢い良く右カーブを曲がったことで遠心力で給油口から溢れ出て、ボディーを伝って左のリアタイヤを濡らした為、ギリギリの速度で右へのコーナリングしていた車のタイヤは一気に滑り、車が横向きになったことでハイサイド的に引っ掛かる様に横転してしまったのでした。(助手席に同じ会社の同僚を一人乗せていたことも重心的には影響した。)

燃料が流出し続けていたのを後続の車のドライバー(船橋警察署の警察官の通勤途中だった)が見つけてくれて、手伝ってくれて横転した車を元に戻したが、火が着かなかったことが不思議な程給油口付近は道路とこすれて塗装が剥げて鉄の地肌が見えていたから、恐らく火花が散ったはずで、最悪キャップの無いタンクのガソリン蒸気に引火して爆発炎上も有り得る状況であった。

実際に火災にならなかったのは不幸中の幸いだった訳ですが、キャップを閉め忘れて外のカバーを閉めてしまったガソリンスタンドの店長は私の追及には逃げの一手で全く非を認めませんでしたが、現在ではタンクキャップとボディーは落ちたり外れたりしない様にくっつけてあるのはそんな事故が起こらない様にして有ると解る。

偶然にも父の部下であったことも有る交通課の警察官が私の真後ろで無茶な運転を見ていたことになったのでしたが、事故処理を含めいろいろと御世話になりました。

その3:多分50歳の後半ごろ、仕事先の工場に2週間ほど泊まり込んで新しいアルミホイールのデザイン~金型製作までを一人でこなしていた時の事。(社長が入院していて、新しいホイールの製作全般を任せられていたのです。)
本来私はデザインと、3D-CADによるモデリングとモデル反転からのマシニングセンタによる金型切削用のGコードを出力する迄が仕事だったのですが、丁度その当時、MCのオペレーターが会社を辞めてしまい、更に汎用旋盤で加工の出来る社員がインフルエンザで休んでしまっていて、マシニングセンタの金型加工も私がやることにして、更に旋盤加工も自分でやってしまう事にしていたのです。
確か土曜日の深夜近くに一人で金型のリング部分の内径を旋盤加工をする為に、旋盤の三つ爪チャックで掴ませたものの、掴んだ爪で歪つにならぬように弱めに締めていたことが災いし、重さ10kg程の鉄のリングが内径を切削するバイトの負荷に負けてチャックから外れてしまい、突き出た中ぐりバイトに絡まってグルンと周って勢いよく飛び出してしまったのでした。
瞬間的にチャックから外れた鉄製のリングを私は見失ってしまい、何処に飛んで行ったのかが判らなかったのですが、次の瞬間自分の足元のすぐ前に落ちて来て大きな音を立てて弾んで飛んで行ったのでした。リングが弾んだその距離から考えて旋盤のほぼ真上の7~8m上空に舞い上がって私の足元に落ちて来たのだと理解出来ました。

恐らく、私があと30センチ程前に立って居たら約10kgの鉄製のリングはヘルメットを被っていない私の頭部を直撃して、最悪の場合私はそこで人生を終わらせてしまったかもしれませんでしたから本当に危険な事件でした。(その後、鉄製のリングを拾ってきて落下で歪んだ部分を修正して無事に完成させましたが、誰も居ない工場で深夜一人で旋盤を使っての仕事は危険な事であるとは思っても居なかったのでした。)

以下の画像のホイールの金型を作っていた時の話でした。

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Posted at 2025/02/06 16:51:46 | コメント(0) | トラックバック(0) | 昔話 | 日記
2024年08月17日 イイね!

50年以上前に住んでいたアパートが今もその場所に在った。


Googleストリートビューを御存じと思うが、今日、私が東京都民であった頃の住まいを探して見た・・・。

凄く昔の事なので既に取り壊されているかも知れなかったのだが、住所で検索してストリートビューで見てみると昔の姿とほとんど変わらずにそこに在ったのです。

我が夫婦はこのアパートの部屋から二人の新婚生活が始まったのでした・・・・。



この画像からアパートの場所や名前が解る人は恐らくいないはずですが、私がそこの住人だったのは、もう50年以上前の事なのですね~・・・・。

かぐや姫の歌う「神田川」の詩そのままに、二人で行った横町の「風呂屋」も、今は跡形も無くなくなっているし、時々行った喫茶店や、雑貨屋さんも、肉屋さんも無くなっていました・・・。

付近をストリートビューで見て回りましたが、記憶の通りに道はあるものの、商店は殆どなくなってしまっていて、時代の変化を痛切に感じたのでした・・・・。

私達夫婦が結婚したのは1973年の10月でしたが、神田川がヒットしたのも同じ1973年の9月だったと思いますから、想い出深い曲なのです。

Posted at 2024/08/17 22:49:53 | コメント(2) | トラックバック(0) | 昔話 | 日記
2024年07月19日 イイね!

TE47トレノGT・2TGソレックスの吸気音・・・・。


昔話で恐縮です・・・・。

私は、1975年(昭和50年)に著名なラリースト綾部美津雄氏の当時のナビゲーターをしていた方と友人であったため、良くラリーの応援とかにも行っていて、そこで綾部氏の操るTE47を度々見て、当時の私のスカイライン2000GTXには無いLSDを効かせた意図的なオーバーステアの魅力に取りつかれてしまって、友人のナビをしていた方から、TE47を譲ってもらったのでした。(画像は南アルプス、夜叉神峠へ行った時の物です) 

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1年ほどはノーマルで乗っていたのですが、ラリーで活躍する綾部氏の仕様と同じにしたいと思って、神奈川県秦野市の綾部モータースに車を預けて、エンジンだけはほぼ同じ仕様にチューンしたのでした。

足回りはそれ以前にラリー用のガスショックを入れて、フロントスプリングを短くし、結果的にやや車高は上がっていましたが、フロントのロワアームを溶接継ぎ足しで長く加工し、ネガティブキャンバーが少し出る様な調整をしていました。

1週間ほど預けて受け取りに行き、戻って来てから純正のソレックス44のスリーブを外し、自前で作った短いスリーブに交換し、ソレックス50様に改造して80mm長さのエアファンネルをキャブレターに直に取りつけ、エアクリーナーカバーもストレーナーも外せるように改造して、ブローバイ回収タンクを4リットルの空き缶で作って取り付けていました。キャブの改造に伴いソレックスキャブのメーンジェットとエアージェットは連続番号で12セット程買い足して、細かな調節で高度変化が多く無ければベストコンディションに近く調整は出来ました。

綾部氏のラリー車は当時、TE27からTE47にチェンジしたばかりで、昭和50年の冬のDCCSウインターラリーには新しいTE47で優勝したのですが、その時は家内と応援に行っていたので画像がたくさん残っていました。

↓ DCCSウインターラリーではおなじみの赤城山の小沼での氷上ジムカーナにて。

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↓ 佐久付近の岩村田での第1サービスポイントはガソリンスタンドでした。

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↓、立っているのは、無名の頃のモンスター田嶋氏で、綾部氏のサービス隊の一人でした。(この頃は髪の毛も有って現在のスキンヘッドとはだいぶ印象が違って見える)

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↓ トレノの前に立つ優勝クルー、赤のジャケットは綾部美津雄氏、濃紺のジャケットはナビゲーターの今井氏、今井氏は既にラリー界を去っており一般人となる為顔は判別不能処理しました。



話題が逸れましたが、この綾部氏のラリー車とほぼ同様のエンジンチューンをしてもらったので私の車は気持ちよく走れる車になっていたのです。

ダイナモで測ってはいない物の、綾部氏曰く130馬力以上は確実だそうで、カムシャフトはラリー用よりもレース用に近いオーバーラップの物に交換、ピストンはTRDのレース用の鍛造ハイコンプにしてタコ足排気管に交換してました。

只、トランス・ミッションに1~3速のレース用を入れたのですが、デファレンシャルギアに4.7とかのハイギアードなオプション品の在庫が無くて、ノーマルだったことも有り、1速では8000rpmで90km/h迄引っ張れるハイギアードな設定で乗っていたのでした。

やっとタイトルの・・・、「音」の話ですが、エアクリーナーカバーもストレーナーも外して80mm長さのエアファンネルだけで走る時の音がどんなものか?想像できますでしょうか?多分皆様もほとんど聞いたことが無い音だと思いますね・・・。

こうして文章に書いても、解りにくいと思いますが一応書いて見ますね。

オーバーラップの大きなカムシャフトが組んであった為ですが、ソレックスだけでもアクセルを低回転から踏み込み過ぎるとゴゴゴと言うようなこもった感じの音がするのですが、エアークリーナーもカバーも無いエアーファンネルだけの状態の時にそうすると、インテークバルブが閉まり切っていない瞬間にシリンダー内に火が入り、炎がエアファンネルに見えるほどのバックファイヤーが連続的に起こります・・・。その音はクリーナーカバーが無い為非常に大きな音がエンジンルームに響き渡る事になって、更にその大きな爆発音の連続はボンネットを貫いて辺り周辺に少しこもった感じの大きな爆発音となってぐグㇿァグㇿァとかゴロゴロゴロ!と、とんでもない音量で聞こえてきます。これをもしトンネル内でやろうものなら耳が劈けそうな音となってドライバーや後続車には聞こえることになるのです。

しかし、それは私にとってとんでもなく快音でもあるのですが、左右が板塀の切通し的な場所を走ってもその音は物凄い轟音で、後ろを走った中学校の同級生のブリジストンの営業マンが言うには「物凄い音で今まで聞いたことが無いレベル」だと言っていました。(その営業マンは排気音と勘違いしていたのですが、排気はしっかりマフラーも装着していて、排気音でないと解って又ビックリされました)

あの音は今も懐かしく、素晴らしい音で、もう一度その時のエンジンとチューニングで走らせたいと思うのですが・・・難しいですね・・・・。

低回転域から速めにアクセルを深く踏んでカブらせ気味にすることでその音は出るのでした・・・・。

ファンネルがトランペットの共鳴管の役割をする感じて増幅されるような感じの音ですね・・・・笑。

夜間にボンネットを開ければファンネルからバックファイヤーの炎が見えるのですよ。

吸排気カムのオーバーラップがかなり大きいという事はそういう事が起きるのです。
Posted at 2024/07/19 15:14:32 | コメント(3) | トラックバック(0) | 昔話 | 日記
2024年06月20日 イイね!

タモリは卓球を「あれって根暗だよねー」と言い放った。


「1980年代の『笑っていいとも!』(フジテレビ系)のコーナー『テレフォンショッキング』にミュージシャンの織田哲郎が出演。学生時代に卓球をしていたと語ったところ、タモリが『あれって根暗だよねー』と言い放った。その影響で、翌年から卓球部に入部する人数が激減。以降、日本卓球界は暗黒時代に突入していきました。(当時、私はその番組を生で見ていました。)
タモリ自身に悪気はなかったでしょうが、国民的人気番組でのこの発言の影響は大きく、「卓球=根暗」というイメージが付いてしまったと言います。

タモリの発言の影響だけでなく、当時は卓球の競技人口減少している時期だったと言われていて、タモリの発言は、それに追い打ちをかけた格好になったと言えそうです。
只、タモリのその発言の後、メーカーや協会が人気回復のためにさまざまな取り組みを開始したことも事実であります。

テレビ映りが少しでも良くなるように、卓球台の色を濃い緑から青に変更
ユニホームをカラフルにする、カラーボールを開発するなどの努力をしましたが、実際に卓球の人気が上向いたのは、幼い福原愛が泣きながら卓球をしていましたが、年齢と共に強い選手となって、国際大会で勝利するようになったことや石川佳純が出て来て人気はだんだんと回復したと言えるのかもしれません。

タモリは「卓球は根暗だ」と発言したことを、後に謝罪し、日本卓球協会に1千万円の寄附をしたとされています。

私的にはタモリの年収(6億円以上)を考えると0.1億円はちょっと少な過ぎると思いますけれどね・・・笑。

有名人など、発言に影響力のある人間は、たとえ私見であったとしても発言に十分注意すべきという教訓としてあまりにも有名な事例ですね。
Posted at 2024/06/20 23:12:09 | コメント(0) | トラックバック(0) | 昔話 | 日記

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何シテル?   11/03 10:03
銀河 遼です。よろしくお願いします。(宝塚とは無縁です) フリーランスの機械系エンジニアです。(面倒な仕事してる面倒くさいかもしれない人です) 3D・C...
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