東日本大震災について、私の記憶と思いを綴ります
大震災にトラウマがある方は、閲覧ご注意ください
また、一部政治的な表現が含まれる場合がございますので、不適切でしたら削除お願いいたします
3月11日東日本大震災から7年が経ちましたが、未だ仮設住宅生活の不便を強いられている方々には、心よりお見舞い申し上げます
私にとってもあの日は一生忘れることができない日となりました
すみません、いつものキャラではありません
こうして書き始め、すでに涙がぼろぼろこぼれてしまいます...
思い出させるようなことをいまさらと思われるかもしれませんが、あの時の教訓を絶対に忘れてはならないと思い、敢えて書かせていただきたいと思います
あの日は、私の仕事は無い日で、家にいました
午後3時前
グラグラと揺れ始め、徐々に揺れが激しくなりました
当時、私は埼玉のマンションの6階に住んでいたので、震度5強でしたが、かなり揺れてそこらのものがバサバサと落ちてきました
とにかく食器棚が倒れたらおしまいだと思い、必死に押さえました
今までも震度5の地震は経験していましたが、とても長い揺れで、これ以上強くなったら押さえるのも無理かも
テレビで地震速報を見ると、東北が大変なことに
ただただ茫然と立ち尽くして、その光景を見つめるだけでした
本当は災害があった場合、子供の学校に迎えに行かなければならないのですが、行き違いにならないよう家で待つことに
まもなく娘が帰宅しました
あちこちに電話するも、まったく通じず...
旅行関係で知り合った福島の人はすぐに連絡が取れたのですが、宮城の人と連絡が取れない...
あらゆる手段で情報収集しましたが、まったく...
それから毎日、余震の恐怖でした
どこにいてもエリアメールがギュンギュン鳴り響きます
学校給食も出ないので、お弁当になりましたが、まず食糧確保が困難でした
日持ちのするものはすべて買い占められ、生鮮食品は一部だけ
ドラッグストアに行けば、なぜかトイレットペーパー買い占めの行列
その後、福島の原発がメルトダウンし、計画停電に
寒い3月だったと記憶しています
既に転勤が決まっていたので、引っ越し作業をぼちぼち始めました
計画停電があるので、昼間は暖房を入れずに部屋でダウンコートを羽織りながらの作業です
寒さと恐怖と疲労で、背中にはまるで鉄板が入ったようにガチガチに
でも、いつも自分を励ましたのは、「今本当につらいのは東北の方たちだよね、このくらいなんてことないよね」と
避難所には、当時野党の一衆議院議員さんが、被災者の方々に膝をついて、はげましの言葉をかけていました
あれを「ただのパフォーマンス」という方もいますが、パフォーマンスさえできない人もいます
私は今までその議員さんを信用していませんでしたが、「この人が首相になればいいのに...」
いつしか、ひそかに応援するようになりました
今でも、福島には通い、福島の特産物のすばらしさについてアピールのお手伝いをされているようですね
そして数日後、携帯に宮城のお友達からメッセージが
「私は無事です」と
全身が震えて、ただただ号泣しました
そんな中、ある友人が、最後になるかもしれない家族でのモルディブ旅行計画を立てて予約をしていました「こんな時に行って良いものか?」
私は「もし行かなかったとしても、何も変わりません。空港までの足が確保できるなら行きましょう」と
「被災地の方々は、そんなに心狭くないはずです。むしろ楽しい話を発信したほうが、みんな気がまぎれるかもしれません」だって、毎日、ACノイローゼでしたから...
という私も、その年の夏にフィジー行きの予約をしていましたが、すごく迷っていました...
でも、その宮城の方と、前々から「フィジーで会いましょう」と約束をしていたので行くことに
名古屋へ行く日
東京が薄暗かったのを記憶しています
名古屋の金山駅に着いたとき、電気が煌々と点き、人々が何事もなかったかのように普通に帰宅の途についていました
それがとても異様に思えてしまったのも鮮明に覚えています
無事引っ越しが済んだころ、私は被災地でお手伝いが出来ればと考えていました
どこも大変でしたが、風評被害の大きかった福島へ行こうと
放射能が怖いとか、微塵も思いませんでした
でも、引っ越したばかりで、子供の学校のこと、家主も新しい勤務先で引き継ぎが多く、あれこれ家族のフォローが必要な時期
宮城、岩手行きのボランティアバスはあるのに、福島行きだけ見つからない...
なんで?って思いました
よく覚えています...家族の前で泣きながら「福島に行きたいのに行けない。自分が無力すぎる」
福島にはネットを通じた人が一人いるだけ
実家の隣のおばさんが福島の出身で、、かんのやのゆべしをもらうことはありました
一度だけスキーに行ったことがあるというだけでしたが、どうしても私の思いは福島だったのです
今、自分にできること
現地には行けないけど、風評被害をなくすことだと
まず経済を上げなければ、復興は遠い...
あらゆるSNSを使い、福島は何がおいしいのか情報収集
FAXでもネットでも注文するとき、必ずお見舞いの言葉を添えて
お米、果物、お菓子、乳製品、米どころならではの日本酒、郷土料理、喜多方ラーメンや餃子etc.
お米以外、すべて自分の貯金切り崩しなので、大したことはできませんでしたが...
福島の餃子は美味しいです!宇都宮のように広めるべき!(*'▽')
ラーメンは喜多方がめっちゃ好みです(⋈◍>◡<◍)。✧♡
本当に何を食べても美味しかったですよ
りんごや桃も美味しかったし、みしらず柿も
そして、レビューや自分のブログなどで発信し続けました
お菓子は大量に買いすぎたら、家主に「会社の女の子たちに世話になってるんでしょ?持って行って食べてもらって」
会社の女子から、家主の株がかなり上がってしまったらしいです(笑)
もちろん、宮城からは海産物中心
岩手は畜産物中心でお取り寄せ
お手伝いしているつもりが、私が幸せを分けてもらっているかのようでした
そして、GWにイベントがあったため、上京しました
するとイベント会場に、宮城の方が現れたのです
無言で固く手を握ったのを鮮明に覚えています
その方は、泣きそうなのを必死にこらえていたのがわかりました
さぞ、つらかったことでしょうね...
そして8月にフィジーで再会するため、経由地のグアム空港で握手
その方はフィジーに詳しいので、現地で国内線の乗り継ぎまであちこち連れていってもらいました
そのあと、別々の離島へ...
私の滞在した離島は、日本で言えば民宿的なところ
ナイトライフなんて、カバの儀式と、みんなで踊るしかないし、少人数の宿泊者でそろって食事を取ります
テレビもWifiもありませんので、人同士の交流が娯楽で、自然と仲良くなっていきました
みんな優しくて「地震は大変だったね」と声をかけてくれるので
「日本への支援ありがとうございました。日本は復興しますよ」と拙い英語で言うと
「うんうん!復興するよ!」と
肌や瞳の色は違っても、みんな本当に親切でした
さて
ここ数年、取り寄せ品目も減りましたが、お米はほぼ福島産
仙台の練り物や、岩手のお肉(白金豚おすすめ)などなど
美味しく頂いています
ここ数年、福島産のお米が値上がりしました
本来、その価格が適正だと思います
すごくおいしいお米が多いですよ
うちも一般庶民ですから、安いに越したことはありませんが、少しずつではあるけれど、風評被害が薄れてきてよかったという嬉しい値上げです
コシヒカリ、ミルキークイーン、そしてタイトル画像の天栄米etc.
私は地震で気分が悪くなってしまうことがありましたが、最近落ち着いてきたようです
ようやく春らしくなった今日この頃
東北に、本当の意味での春が訪れるのを願って止みません
自分は非力ですが、誰かが傷ついていたら自分のできる範囲でお手伝いしたい...
これを教えてくれたのが、東日本大震災だったと思います