
今回はある品のレビューと小話です。
ちょっと長いです。
歴史に関しては間違いもあると思います。ご容赦ください。

ALPINAオーナーさんや自動車好きな方々は、「ALPINA」の名前は創業者ブルカルト・ボーフェンジーペン氏の父オットー・ルドルフ・ボーフェンジーペン博士の事業で生産していたタイプライターの製品名から来ている事はご存知でしょう。

オットー・ルドルフ・ボーフェンジーペン博士

カウフボイレンのアルピナタイプライター工場
1950年代、ブルカルト氏の父親の工場は、主として世界中で販売されていた高品質のタイプライターを製造する事務機器工場でした。

アルピナタイプライターはALPINAの輸入元のニコルのショールームに展示してあります。
そんなタイプライターですが、

2024年4月に日本国内某フリマサイトに何故か出品が…苦笑
しかもめちゃくちゃ安値でひっそり出品…
B3のオイル交換より安い…笑笑

まぁ、即買いです笑笑
ヤ⚪︎オクじゃなくて良かった…
出品者に感謝ですね
めちゃくちゃラッキーでした!
では、まずはアルピナタイプライターのレビューでも笑笑

タイプライターは専用のケースに入っています。
くっそデカいですし重いです。
こ、これを持ち歩いてたのか…汗

ケースは上蓋が外れるようになっています。

ネットで拾った画像を見るに、ケース上蓋を外して使うのが正規の使用方法?

タイプライターはケースの台座側にネジで固定されていますが、外せます。

タイプライター本体
アルピナの祖ですね
ある意味、ここから始まったのです。

1950年代の品がよくもまぁ残ってくれていました。

本体のカバーを外すと中の機構が見えます。
美しい…

本体脇には「ALPINA」のステッカーが。
「MADE IN WEST-GERMANY」が歴史を感じさせます。
「大洋事務機」なる日本の業者が輸入したのでしょう。

それにしても巨体です苦笑
「私もタイプライター欲しい」と思われた方々、
まずは置き場の確保をオススメします笑笑

そのまま飾ろうとも思ったのですが、

特注でアクリルケースを作り、展示する事に笑笑
倉庫に眠っていた棚も引っ張り出して、タイプライターありきで部屋の家具レイアウトを変えました笑笑

古民家住まいなので部屋内装とのミスマッチ感が凄い妙な展示スペースが出来ました()

実物があるとテンションが上がります

ニコル青山にあるアルピナタイプライターは緑。
この色のは初期型らしい?
今回手に入ったのは後期型らしい?

そして、ドイツ ブッフローエにあるアルピナ本社のショールームには、

ウェーバーのツインキャブレターと共にアルピナタイプライターが展示してあります。

アルピナ万能計算機も展示してありました。
こちらの計算機は数が出てないので、タイプライターとは比べ物にならないくらい希少です。

アルピナ本社で社員さんとお話した際に、タイプライターの写真を見せたら、吹き出して「crazy〜」って言われました()
「何処で手に入れたの?」「輸入したの?」と興味深々でした笑笑

そんなタイプライター達を生産していたカウフボイレンにあった工場
ここでブルカルト氏がBMW 1500のチューニング事業を始めたのが、自動車メーカーとしての「ALPINA」の始まりです。
ブッフローエと同じくアルピナの歴史の聖地です。
実はこのタイプライター工場…

建屋は今も健在です笑笑

ブッフローエのアルピナ本社を訪れた後、その足でカウフボイレンの工場前に行きました笑笑
カウフボイレンはブッフローエ近くの街ですが、こちらも田舎で住宅ばかりで何もなく道路の舗装はひどいわだわ道狭いわで
わざわざ外人観光客が来ない辺鄙な所です()
ブッフローエで「この後何処行くの?」と聞かれ「カウフボイレン」と言ったら変な人を見る目をされ笑われました()

アルピナ本社ショールームの展示にはアルピナ事務機器工場についての歴史を記した文献も展示されていました。
最近のスマホって写真から文字をテキストデータにして読めるので、翻訳してみました()
掻い摘んで書いてみます。
chat GPTに要約を任せました。
【アルピナ工場の歴史〜カウフボイレンとアルピナ万能計算機】
◆ オットー・ルドルフ・ボーフェンジーペンについて
・1907年、ラインラントのメットマンに生まれ、様々な金属加工会社を経営する実業家の家庭で育ち
・高校卒業後、ハンブルクで商業研修を修了し、様々な大学で経営学、経済学、法学を学び、1930年代半ばに博士号を取得。
その後、ケムニッツにあるヨーロッパ最大の事務機器工場、ヴァンダラー社の大規模な工場で法律顧問として働いた。
・1938年、ラインラントのランゲンベルクにある銅・真鍮工場を経営。(のちにヴィーラント社が買収)。
◆ 工場設立の背景(1949年)
・第二次大戦後、小さな町カウフボイレンは大量のズデーテン・ドイツ人難民を受け入れ、失業問題を抱えていた。
・実業家オットー・ルドルフ・ボーフェンジーペンが42歳の時、この安価な労働力に着目し、1949年に事務機器工場「アルピナ」を設立。
・元ドイツ国防軍の施設を改修し、タイプライター製造を開始した。
◆ タイプライターの生産と特徴(1950年代〜)
・1951年から生産が本格化し、1958年には生産面積を10,000㎡に拡張。
・モジュール構造の革新的なタイプライター(KBSモデルなど)を開発。
・キーボードの二重機能、修正スペースバー、カリッジの軽量化などの設計でタイピング効率を向上。
・見た目やサイズも重視し、オフィス用とポータブルの中間に位置する「中型機」を展開。
・世界大会で優勝したタイピストが使用し、品質と性能が国際的にも高評価された。
◆ 販売と拡大(〜1960年代初頭)
・販売は全国の代理店経由で行われ、後にノイスに大型販売会社(シュルツ株式会社)を設立。
・シュルツ社による訪問販売や分割払いビジネスで、アルピナ製品の販路を拡大。
◆ 生産停止・SELへの売却(1961年)
・市場環境の変化とシュルツ社の資金難により、タイプライター部門の売上が低下。
・1961年、工場の主要部分をスタンダード・エレクトリック・ロレンツ(SEL)社に売却。
・SELは工場をテレタイプ端末製造に転用。アルピナのタイプライター生産は縮小。
◆ 経営破綻と引き継ぎ(1964〜)
・シュルツ社の倒産と同時に、ボーフェンジーペンも経営的打撃(損失推定500万マルク)を受け、退任。
・フォアヴェルク社が工場と債権を引き継ぎ、新体制へ。タイプライター生産はユーゴスラビアに移転されたが、ブランド名「アルピナ」は継続使用。
・1969年、オリンピア社が施設を引き継ぎ、一部業務を継続。1980年代には市が買収し、元従業員4名が「KGM」として操業。従業員数は大幅に縮小。

【アルピナ・ユニバーサル計算機(URM)について】
◆ 設計と試作(1958〜1960年)
・タイプライター全盛期、若き技師オスカー・ミルドナーが主導し、手作業でURM計算機の試作品を開発。
・計算機は、従来の円形表示ではなく直線表示で、クルタ計算機(リヒテンシュタイン製)と競合。
・ハノーバー見本市で試作品を披露し、注目を集める。
◆ 量産の失敗と改良(1960〜61年)
・手作りの試作品は動作が完璧だったが、プレス加工による部品は精度が低く、量産品に問題が多発。
・特殊な研磨処理の導入で改良され、1961年に量産が本格化。
・URMは小型軽量(500g)、堅牢な構造、視認性の高い表示で注目された。
◆ 特徴と用途
・分数や割り算をスムーズに扱える新機構を搭載。
・ブリーフケースに入るほど小型で、建設現場や港湾、航空機、会計業務などでの使用を想定。
・「ポケット計算機」という先進的な製品だった。
…抜粋要約するとこんな感じ。
ブルカルト氏がBMWチューニングを始める1962年頃、タイプライター工場は大変な事になっていて、オットー氏は経営から退いていました。
Burkard Bovensiepen KG設立の1965年のタイミングとも関連しています。
「タイプライター作ってる親父さんの金で趣味でやった車弄りが上手く行った」
という表現を本かネットかで見ましたが、
これは若干の誤解があると思います。
彼は最初からビジネス目線でチューニング事業に取り組み、父のタイプライター事業の衰退と入れ替わるように会社を立ち上げています。

今も売ってる「OAL-BB50」よりも昔に取材・発行された「EDITION WEISS-BLAU GROSSE ALPINA CHRONIK」には、
より詳細にブルカルト氏のチューニング事業の歴史が記されています。(1957年代の活動から記されてます)
(父所有のを貸出図書してます苦笑)
以下、抜粋・要約
1957年から58年にかけて、フォルクスワーゲン・ビートルをアメリカに輸出する「グレー」な業者として、若きブルカルド氏は余剰資金を獲得し、融資を受けながら、主に転換期を迎えた企業の株式にすぐに投資した。
そこで稼いだお金でFIAT 1500(最初の
実験対象で、中古で自分で稼いだお金で買ったらしい)のチューニングに触れた後、BMW1500のチューニングを始めます。
この時点で「定価と保証と優れた品質」を目指してタイプライター工場の設備・技術を頼ったそう。
ブルカルト氏は1963年の開発当初から、BMW 1500用の組み立てやすいスポーツキットシステムを工業ベースで作り上げようとしていた。
工業的には、高精度な部品は、このレベルで安定した品質で大量に生産しなければ採算が取れな
いと、26歳の彼は確信していたからだ。もし、保証クレームによるトラブルが発生しても、この
方法なら簡単に解決できる。さらに、資金的な余裕があれば、大規模な開発も可能であり、そのようなプロジェクトを滞りなく進めることができる専門家がいることも利点であった。
つまり、「裏庭の工房」ではなく、モダンなデザインの中堅企業を立ち上げ、満足した顧客の口コミで全国に知られるようになり、それが最終的にビジネスの成功の保証になると考えていたのだ。
1963年初め、ブルカルト氏は、BMW1500用のウェーバー式デュアルキャブレターシステムの認可を得るために、BMWセールスマネージャーのポール・G・ハーネマン氏に接触。
ハーネマン氏は、
「ブルカルト氏が初めて私のデスクに来た時のことを今でもよく覚えていますよ。父親が倒産し、再出発のための資金が底をついたため、かなりしわくちゃで、心配事が顔中に出ていた。」
と話している。
ブルカルト氏はBMW本家の協力を得ながらALPINAシステムを販売し、
チューニングカーは走りが悪いという偏見に、ボヴェンジーペンは製品で反論した。
走行性が悪く、寿命が短く、燃料消費量が多い。その代わり、日常的な使用への適合性という点
で、新しい基準を設定した。
ALPINAシステムの取り付けはALPINA自身、あるいはすべてのBMWディーラーで行われ、ALPINAは走行距離の制限なく完全な保証まで与えてくれた。BMW1500、1600、1800、1800 TI用のALPINAシステムは、ドイツ国内の65のディーラーに設置されたとブルカルト氏は発表した。これが突破口となった。
1965年1月1日、28歳のこの日、ブルカルト氏は「Burkard Bovensiepen KG」を正式に設立した。
たった15,000マルクの自己資金で、しかも6人の有能な従業員で。キャブレターシステムから
シリンダーヘッドの改造まで、幅広く手がけた。
1965年1月1日、緊急事態からBurkard Bovensiepen KG(当時は社名にALPINAがなく、ブルカルト氏が購入して後払いしていた)の設立に至った。父オットー氏はアルピナ工場を売却しなければならず、新しいオーナーはブルカルト氏のチューニング事業に全く興味を示さなかった。10万マルク相当の部品があり、それをスクラップにするか、アルピナ工場の裏庭にある魅力のない小屋の数平方メートルと一緒に残すかのどちらかだった。遅くとも3カ月以内には破たんするだろうというのが、彼らの見解だった。
…などなど
ちょっとまだ和訳が怪しい箇所もありますので間違い・勘違いあるかもしれません苦笑
中々読み応えある一冊です。
かなりレアですがもう一冊自分用に欲しい…
(定価7万円くらいするし出物が無い)

アルピナに歴史あり
タイプライターから歴史を追っても色々考察が捗りますね
まだまだ私も勉強不足なので、じっくり勉強していきたいものです苦笑