
みなさま、こんばんは
いつの間にか10月に突入ですね。
日増しに秋の気配が濃くなってまいりましたが、みなさまは、いかがお過ごしでしょうか?
先月から、岡田准一さん主演の映画「関ケ原」が上映されて…
誰もが利害関係で動いた戦国の世にありながら、一人「義」を重んじる生き方を貫いた石田三成を、岡田准一さんらしく上手く演じています。
この映画「関ヶ原」を観まして…
私は、多少なりと歴史小説を嗜む者でして…
おまけに季節も関が原の戦いが起こった季節ですので…
今日は、「関ヶ原の古戦場巡礼」を1年ぶりにしてみるかってコトで、関が原の古戦場へとドライブしてきました。
気づけば、この1年間だけでも5回めの関ヶ原方面の訪問です。
まずは、石田光成の陣跡に行って、陣跡から「決戦の地」を眺めてきました。
<石田光成の陣跡駐車場にて>
<石田光成の陣跡>
<石田光成の陣跡から戦場を眺める>
<陣跡から「関ヶ原決戦の地」を眺める>
で、今回のメイン目的である、まだ登ったことがなかった「松尾山・小早川秀秋の陣跡」への訪問です。
関ヶ原の戦いで一番注目されているのは、良くも悪くも小早川秀秋の東軍への寝返りではないでしょうか?
松尾山は、関ケ原の南部にある標高約300mの山でして、関が原の戦いでは小早川秀秋が、1万5000の兵で布陣した場所です。
そして合戦中に西軍の主力部隊を有した小早川秀秋が「東軍に寝返る」と言う、彼の人生の中で、そしてその後の日本の歴史をも変えた人生で最も重要な決断を行ったのが、ここ「松尾山」です。
今回、初めてこの小早川秀秋の陣跡に行ってわかったことは、関ヶ原の全体の平地、つまり東西両軍が戦っていた戦場全体を一望できる超ベストポジションだということ。
あまりにも関が原のすべてが見渡せるベストポジションですし、合戦前から山城があった場所ですので、「この場所は西軍の大将の石田光成が布陣すべき場所ではないか!!」と私は思いました。
さて道順ですが、松尾山の登山口に行くには、名神高速を「関が原」で降りて国道365号を南下します。
目印がないので説明が難しいですが…国道365号を名神高速の下をくぐって右に入って、しばらく行くと、左手にある「縄手橋」という小さな橋を渡ると松尾山の駐車場に行けます。
<松尾山登山口駐車場にて>
駐車場はだいたい5台ほど停められる小さな駐車場です。
駐車場の横には無料の杖の貸出がありました。
40分程度の山登りですので、杖は使わなくても大丈夫ですが、体力に自信がない方とか、ゆ~っくり登りたい人は、この杖を借りて行くと良いかと思います。
<貸し出しのふれあいの杖>
陣跡がある山頂までは徒歩で40分、四国の遍路道ような山道を登っていきます。
<登山口にある松尾山山頂40分の案内板>
<松尾山の山道>
小早川秀秋の陣旗が陣地跡(松尾山頂上)です。
<小早川秀秋 陣地跡>
見てください、このベストポジション!!
笹尾山の石田三成の陣や関が原の戦場全体も一望できます。
<小早川秀秋 陣地跡からの眺望>
<関が原合戦陣形図>
西軍の大将である石田三成の陣が、こんなにもよく見える場所って、敵対する東軍(徳川側)にとっては最高の場所です。
おまけに、もともとは石田三成側の伊藤長門守盛正がここに陣取っていたのですが、小早川秀秋が強引に奪ったそうです。
そうい点から推察すると…「もとから小早川秀秋は東軍に寝返るために、ここに布陣したのではないか?」と私は思ってしまいました。
映画「関ヶ原」では、小早川秀秋役の「東出昌大さん」は、この松尾山で号泣しながら東軍に寝返りましたが…号泣しながら寝返ったとは、私には思えません。
どちらに軍配が上がりそうかと、この松尾山からじゅっくりと見極めて、東軍有利と判断して「西軍を打つ!」と勇気ある決断をしたのではと考えます。
その寝返りのおかげで、秀秋は東軍勝利の立役者となり、岡山城の55万石の大大名になれました。
黒田や福島といった功績のあった他の大名よりも領地が大きい褒美をもらったのですから、家康からかなりの高評価を得ていたことがうかがえますね。
小早川秀秋、3才で秀吉の養子となり、10万石の領地を与えられ、そして18才で55万石の大大名の地位にまで登った大出世を成し遂げました。
大きな物事を成し遂げるためには、ときには割り切って「非情」になれる強い意志と決断力が大切なのでしょうね。
とにかく、ここ「松尾山」は、小早川秀秋が日本の行く末までも変える人生で最も重要な決断を行った場所です。
あの時、小早川秀秋は笹尾山の石田光成の陣を観ながら、何を想い、何を考え、どんな気持ちで東軍に寝返ったのか?…歴史ロマンにふけるには良い眺めでした。
<松尾山から笹尾山の石田三成の陣を眺める>
そして、松雄山に登った後は、私が関が原に来たら必ず寄る場所である「大谷吉継の墓」に参ってきました。
大谷吉継は西軍の中でも人気が高い「義に生きた男」です。
大谷吉継の陣跡に行くには、案内板10分と書かれてますが、平坦な道を歩くわけではなく、ここも山道を登っていきます。
<大谷吉継の墓への案内板>
大谷吉継は関ヶ原の西南の藤川台という山中に5700の兵で布陣し、東軍の藤堂高虎と京極高知両隊を相手に奮戦していたところに…
小早川秀秋が東軍に寝返り、1万5,000の兵が大谷隊を攻撃しますが、大谷隊は兵600で迎撃し、小早川隊と激戦を繰り広げ小早川隊を三度も山に追い返したそうです。
<大谷吉継の陣跡>
が…前面からは東軍の藤堂隊、京極隊の攻撃に加え、小早川隊に続いて東軍に寝返った、脇坂、赤座、小川、朽木の4隊の4200の兵も加わって大谷隊の側面から攻撃を開始して、そこに体制を立て直した小早川隊の大群が大谷隊の背後から襲いかかり、猛攻の末、大谷隊は壊滅し、大谷吉継はこの地で自刃しましす。
この吉継率いる大谷軍の敗北が、戦場の西軍の士気を一変させ、西軍の諸隊に動揺を与え、西軍敗走のきっかけになりました。
<大谷吉継の墓>
<大谷吉継の墓の説明板>
親友三成のために、共に闘い共に死することを決意をしたこと
家臣の湯浅五助に「首を渡すな」と言い渡して自刃したこと
この大谷吉継の墓は、敵方の藤堂家が建てたなど…
この説明板には、大谷吉継のすごいドラマが書かれていす。
この場所を訪れると、NHK大河ドラマ「真田丸」で大谷吉継を演じた「片岡愛之助さん」の好演技が思い出されます。
親友の三成のためなら、病に侵されながらも戦へと身を投じ、命をかけて運命を共にする大谷吉継の人柄は、人として理想であり、男の生き様として尊敬です。
<大谷吉継の顔いれ>
そして、大谷吉継のお墓にお参りした後には「開戦の地」にも寄ってきました。
<関が原の合戦・開戦の地>
「開戦の地」は、福島正則隊と井伊直政隊が、どっちが関が原の戦いの先陣を切るかを競っていた場所です。
1600年旧暦9月15日 午前8時
先鋒の井伊隊の旗が動くのを見て、福島正則が「井伊直政に先陣の手柄を取られてなるまいそ!」と宇喜田隊に向かって一斉射撃を浴びせ、井伊隊も福島隊に遅れまいと島津隊に攻撃を開始し、関が原の合戦の火蓋が切られた場所です。
小西行長が西軍に向かって戦闘開始の狼煙を上げた「小西行長 陣跡」が、この「開戦の地」の奥にありますので、小西行長の陣の目の前で関ヶ原の合戦が始まったということですね。
<小西行長 陣跡>
ここに来ると「関が原の合戦がココで始まった!」ということがを実感できますよぉ~♪。
開戦の布陣であれば、開戦の地から島津と福島の陣は非常に近いはずですし
井伊が島津を攻撃したということなので「島津の陣跡」にも向かいました。
島津軍の陣跡の目印は小池の神明神社です。
神明神社の裏手に陣跡があり、車を5台ほど停めれる駐車場もあります。
<島津義弘 陣跡>
<島津義弘 陣跡説明板>
小早川秀秋の寝返りで、西軍が次々と壊滅していく中で島津隊の退路も絶たれ、大将の島津義弘は一時は自刃しようするのですが、「どうせ死ぬなら」と島津隊は正面の伊勢街道からの撤退を目指して前方の敵の大軍の中を突破する「敵中突破」が行われました。
合戦前には、1500人ほどいた島津隊の兵も、すでにその頃には300人くらいまで減っていたそうです。
島津義弘、ここから東軍の大群のど真ん中を決死の敵中突破したんですねぇ
「未来を生きるために勇気ある撤退!」と言うべき武勇ですね。
そして、その島津の陣跡から4キロほど南下したところに「烏頭坂」という地があります。
「烏頭坂」では、「島津義弘」の副将だった「島津豊久」が、大将の島津義弘を逃がすため、【捨て奸】となって激戦の末、東軍の追っ手を食い止めた地であり、豊久の碑があります。
実際に烏頭坂に来てみると、急なカーブを描いた坂道であり、追っ手を足止めするには良いポイントだったと思います。
<現在の烏頭坂>
叔父の義弘を守るため、敵中突破では先陣を切り、そして烏頭坂では【捨て奸】となって大将・義弘を守るほど、豊久はすさまじい武将ですね。
余談ですが、この烏頭坂の戦いで、島津豊久は追っ手の「井伊直政」(NHK大河ドラマ「女城主・直虎」では菅田将暉さんが演じてます)を銃撃して落馬させたとか??
で、島津義弘が命からがら大阪にたどり着いたときは島津隊は80名まで減っていたそうです。
<烏頭坂 島津豊久 戦死の碑>
<烏頭坂の説明板>
関ヶ原古戦場は、それぞれの陣地や戦地にドラマがあり、とにかく広いです。
そのため巡りたいポイントを上手く絞って回ることをお勧めします。
車で巡るのが一番便利ですが、カーナビが示す場所があやふやなので、結局は畑に居たおばあちゃんに道尋ねたり、関が原の中を赤い車でうろうろ珍道中してました(笑)
<関が原 決戦の地>
関が原の「つわものどもの夢の跡」を偲びつつ、今夜はこいつ「鬼の左近」でいっぱいやります!!
「島左近」と言えば、石田三成の右腕として関が原で勇猛果敢に戦った武将ですね。
みなさまの健康と幸せと交通安全に 乾杯!!
そして、私のブログへのご訪問、ありがとうございました。
<鬼の左近>