
土曜日に観に行った映画の話です。
映画を観る前はなんてこと思わなかったコピーに,映画のあと観て唖然としました・・・
「どっちの嘘が、世界を救うのか。」って・・・(-_-#)
なんと傲慢な。
どっちの嘘も世界を救いません。
自分達のエゴを押し通すための嘘に過ぎません。
こういう映画を観てるとテロリズムとかテロリストとか,誰がどうやって決めてるんだろうと思うよね。
毎度のことながら。
全てア○リカの尺度のように思います。
立場が変われば価値観も考え方も変わって,正しいのはどっちかなんてわからなくなります。
戦争だって,どちらが正しいのか・・・
歴史が物語るのは
「勝った方が正しい」と
みなされるということだけです。
だから時の“指導者”たちはみんな口を揃えて声高にこう叫びます。
「この戦いにわれわれは勝たねばならない」と・・・
どの時代も,どの戦いも,いったい誰と誰が戦っているのかを明確にしなければなりません。
実は国対国の戦争でさえ,戦いを望んでいるのは国そのものである国民ではなく独裁者だったり政府や軍のトップ―――いわゆる“指導者”―――だったりします。
彼らが国を戦争へと導き,国民を“兵士”として扱い,駒として使います。
その様はまるでゲームです。
勝ちと負け,生と死しか存在しないゲームです。
ゲームの世界では勝っても負けても誰も実害はありません。
怪我もしなければ命も失いません。
せいぜいゲーム代がかかるくらい。
現実はゲームじゃありません―――決して。
間違いなく誰かが死にます。
殺しあいですから。
ですが,戦争やテロを起こした張本人―――“指導者”たち―――は最も安全な場所に居座り,いつもと同じおだやかな生活をしながら,“兵士”という駒を動かして国取りゲームを楽しむのです。
(このことは一国の行政にもあてはなります。国の経済がどんなに揺らいでも安定した収入と地位を得ている官僚に,本気で国を立て直そうと思っている人がいったいどれだけいるのか・・・)
戦争をして潤う国は存在しません。
いえ,存在してはいけないのです。
国は,そして国民は必ず疲弊します。
潤うのは死の商人であり,そこから何らかのバックマージンを受け取っている人だけです。
国として潤うためには,負けることは許さません。
負ければ国民を失い,資金を失い,産業を失い,国土を失うのです。
そう,戦うからには勝たねばならず,そして失ったものを取り返さねばなりません。
オリンピックとは大きく違います。
局所的に見れば,勝った国は潤うかもしれません。
ですが,全世界的にみれば,地球規模で見れば,必ず負の要素が上回ります。
戦争の最前線で戦う国民たちは―――“指導者”たちは彼らを“兵士”と呼びます―――一部の“指導者”たちのエゴに巻き込まれ,騙され,踊らされているだけです。
―――戦争をしたい
そう思う国民がどこの国にいるでしょう?
国民の感情は“指導者”によりコントロールされます。
国民に与えられるのは
戦争やテロを行う動機付けとなり得る情報であり,
戦争やテロを肯定する捻じ曲がった教典の解釈であり,
自分たちこそが神に選ばれた崇高な存在であり,神に代わって神の意思を実行する存在であると思わせるための情報であり,
敵対するものは“悪の化身”であり,神の教えに背き,神の懲罰を受けるべき存在であり,放っておくと自分たちにこの世のものとは思えないほどの災い(惨殺,虐殺,奴隷化など)がふりかかると思わせる情報です。
神は神を冒涜する者に怒りを表しません。
怒りを表す者がいるとしたら,その者は神の名を語っているだけで神ではありません。
ただし―――
絶対に勝たねばならないのに,どうやっても勝ち目のない戦いがあったとします。
自らの命を懸けてでも勝たねばならない―――
「巨大な力を持ち,ありとあらゆるものを意のままに面白がって操るだけの利己的な存在」-まさに悪魔
そんな敵を相手にした時,僕たちはあきらめるか,武器を手にするしかないのでしょうか・・・
Posted at 2008/12/23 15:22:45 | |
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