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イイね!
2018年04月13日

瞬間は目をそらす

瞬間は目をそらす

  もう一着買うかな。そんなことまで思った。


  和雄は近くの喫茶店に入り、ゆっくりとページをめくった。クロールのストロークとキックが連続図解で解説されている。


  ああ、そうか。腕は体の中心線の延長に伸ばすのか。


  なに、水をかくときは腕を九十度に曲げるって?


  三十八にして知ることだった。


  なんだ、おれは素人だったのか。小さく肩を落とす。


  ただし本気で落胆したわけではなかった。これらをマスターすればもっとうまく泳げるということなのだ。


  和雄は窓際の席でイラストのストロークを真似てみた。左手を前に伸ばし、すぐにはかかないで、その手に重ねるように右手を伸ばす。


  ふと顔をあげる。離れたテーブルのカップルが和雄を見て笑いをこらえていた。


  ひとり咳払いする。顔が熱くなった。


  アイスコーヒーを飲み干し、和雄は今日のスケジュールを思った。


  午後四時から恵比寿のスタジオで撮影か……。


  立ち会わなくていいだろう。どうせキッチン用品のブツ撮りで流れ作業なのだ。


  和雄は会社に戻ると、ホワイトボードに〈撮影・恵比寿。そのまま直帰〉と書きこみ、社を出たところでカメラマンに携帯で連絡を入れた。「いつもの感じでヨロシクね」と言ってターミナル駅へと急いだ。


  自宅方面に向かう電車に乗りながら、和雄の心は弾んでいた。


  途中、外の景色を眺めていたら「伊良部総合病院」の看板が見えた。なぜか頼もしく思えた。


  区民体育館に着くと、また二時間分のチケットを買ってプールに入った。


  水に包まれるだけで和雄の心は安らいだ。


  その日は五百メートルの連続スイミングに成功した。


  『ターザン』を参考にしてフォームをチェックし、練習したのちトライすると、目標を達成することができたのだ。


  プールから上がったときは立っていられないほど息がきれ、ベンチで横になった。


  えもいわれぬ充実感があった。明日は一キロだと思った。


  いや、そこまで急ぐことはないか。毎日百メートルずつ上積みしていけばいい。


  明日が待ち遠しい。荒い息をはきながら、こんな思いは何年ぶりだろうと和雄は愉快な気持ちになった。


  「ほほう。もう一週間も続いてますか」


  伊良部はその日も短い脚を強引に組んで和雄の話に聞きいっていた。


  「ええ、もう楽しくて楽しくて。毎朝の日課になりました」


  ここのところ和雄の話といえば水泳のことばかりだ。


  和雄は、プールも病院も毎日通っていた。伊良部総合病院は日曜が休診だが、プールの方は文字どおり毎日だ。さすがに早引けばかりはできず、朝イチでプールに行くことにした。九時から一時間泳ぎ、その足で病院に寄り、昼ごろ出社するというパターンだ。


  この間、とうとう和雄は二キロを続けて泳げるようになった。昔の勘を完全に取り戻したのだ。


  「ぼくも最近は運動不足でねえ」伊良部が顎をなでてつぶやく。「内科の馬鹿どもに少しはダイエットしろと言われちゃったからなあ」


  あんたの二重顎を見ればわかるわい、と心の中で苦笑した。


  「そのプール、どこにあるの?」


  「うちの近所の区民体育館の地下です。へたなスポーツ・ジムより清潔だし、なにより空いていていいですよ」


  「ほほう」


  「行ってみますか。ここからはたかだか駅で二つですし」


  「うーん」伊良部が首の肉をつまんで唸ってる。「でも、息継ぎ、できないんだよね」


  「大丈夫ですよ。すぐに覚えますよ。べつにクロールじゃなくて平泳ぎだっていいし」


  「身体、冷えたりしない?」


  「温水ですよ。三十度に保ってあるからあったかいくらいですよ」


  「ぼく、飛び込みもできないんだけど」


  「飛び込みは禁止。運動部の練習じゃないからみんな勝手に楽しんでますよ」


  「なんか、大森さんの話を聞いていると、水泳って楽しそうだなあ」


  「楽しいですよお」羨ましがらせるような調子で和雄が言う。


  伊良部は乗り気なのか、水着はビキニがいいかトランクスがいいかということまで和雄に相談をもちかけた。おまえがビキニ? もちろん口には出さず、どちらでもいいんじゃないですかと答えておいた。


  その後、いつもの注射タイムがやってきた。毎日注射を打たれるのはさすがに辛いものがあったが、和雄の中では看護婦の太ももと相殺されていた。


  針が刺される瞬間は目をそらす。そしてそばに立っている伊良部が身を乗りだすのがわかる。


  今日は生唾を呑みこむ音が聞こえた。変わり者だと思えば、さして気にもならない。慣れれば牛でも可愛いものだ。


  ただ、翌朝、区民体育館の前で伊良部が待っていたのには驚いた。


  「えへへ、来ちゃった」


  伊良部は片手をひょいとあげると、まるで恋人を追いかけて外国までやって来たOLみたいな台詞《せりふ》をはいたのである。


  「昨日、あの後デパートにパンツを買いにいってね。トランクスにしましたよ」


  伊良部が、頼みもしないのにバッグからそれを取りだして見せる。

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Posted at 2018/04/13 15:48:46

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