
時間を見つけて行こうと思っていた靖国参拝がやっと叶いました。
ちょっと行くのが遅すぎますね。この年になってまだ参拝もしていないのは少し恥ずかしい..。
私の場合、特に信心深いわけではないので、国際問題や国内でも物議をかましている分祀問題について、本当の問題はどこにあるのかを知りたくて、靖国神社の境内に設置されている遊就館に行くのが本当の目的でした。
遊就館館内を一周して出た時はもう夕刻。 雨のせいか先ほどまで大勢人がいたのに、もうほとんど人影がありません。
いろいろな思いが頭の中をぐるぐる巡り、いつの間にか神殿の正面まで歩いていました。
神殿に目を向けると、「いろいろな人の思いがこの神社には宿っているんだなぁ」と気持ちが湧き立ち、深々く頭を下げざるを得なかったのです。
本当に考えさせられた一日でした。
遊就館とは、靖国神社に祭られている神様(神となられた戦没者)の遺品や、国防や統治のための争いが起きたときの情勢がわかる資料を展示している施設です。
最初は概要さえ分かればいいと軽い気持ちで入館したましたが、館内を進むにつれて、いろいろなところで足が止まるようになります。
特に日清戦争から大東亜戦争にかけて、亡くなられた方の血判書や、特攻に向けて家族に対する遺書が展示されていたりと、とても生々しいのです。 遊就館の最後の展示室は数千もの亡くなられた方の遺影が飾られていました。
国という組織のために働き、犠牲になられた方の無念を深く感じました。
「自分がその立場だったら、組織のために死ねるのか?」
「大衆煽動によって起こされた戦争行動に対して、国の為だからと人をあやめる事ができるのか?」 ...と。
その当時の人もおそらく、組織行動の正当性に疑いを持った人が多かったろうと思います。
でも、それを口にもできないし、行動を拒否することもできない。
なんともやりきれない..。
組織を作るのは個であるけれども、個の集団だけでは止めることのできない得体の知れない一方的な正義感が、社会を滅ぼす可能性があることを、絶えず認識していないといけないなぁ と思います。
だから歴史を紐解き、その時代の情勢や人の気持ちを知り、集団悪がなぜ発生するかを常に学ぶ必要があるということですね。
ただ同時に、逆の見方もあるということを、私たちは常に知っていないといけません。
誤解を恐れずに書くと、これも神社側の(日本国としての)プロパガンダとも考えようによっては受け取れるわけです。受け止め方によっては、「日本の先祖は偉い、日本国バンザイ!」とも取れてしまうのです。(実際には能動的な煽動はないのですが...)
こと日本に侵略を受けた、中国や韓国の人はどうしてもそう感じてしまうでしょう。
これは立場を逆にしてみるとわかると思います。
例えば北朝鮮の拉致問題。これは日本人としては絶対に許せない。私もそうです。 でも、北朝鮮の方から見たらどう考えるでしょうか?
「朝鮮人を大勢あやめた侵略国の国民を、国家防衛のために拉致したからと言って、なぜ悪いのか? こちらに正義がある。」となってしまうのです。
感情論からいうとどちらの立場の気持ちも分かります。でも国の防衛という国民煽動によって引き起こされた不正義がなぜ起きるのかを解明せずに、感情論を戦わせてしまっては、争いが起きるのは避けようがないですよね。
「日本国のために亡くなられた英霊を祀っっているのだから、そこに参拝したとしても海外の方にとやかく言われたくない」と 正論を振りかざす政治家
「海外の非難を避けるためにもA級戦犯者だけでも分祀すれば..」と 国際世論に明るい政治家
「神事のことは政治家が決めることではない」と 靖国神社側
「A級戦犯者をも祀った靖国神社に日本の代表者が参拝するのは、大東亜戦争(侵略戦争)を肯定するのでは?」と 侵略を受けたアジア諸国
どれも主張はどれも間違っていないし、ある断片見ると正しいのだと思う。
なんともコミュニケーションというのは難しいものなのか...。
国という組織のために亡くなられた方に深く敬意を表して、安らかに眠って頂けるよう願わずにはいられません。
また、戦争によって多くの外国の方も亡くなられいるわけです。この方たちも言わば組織の犠牲者ということになります。もちろん犠牲になられた外国の方にも敬意を表して、お祈りしたいと思います。
政治の話になると見識によって賛否両論が起きてしまうけど、組織や集団の「正義の何もとの不正義」の結末に泣くのは、個人であるということこそを忘れてはいけないのでしょう。 泣くの自分かも知れないし、自分が愛している人かもしれない。 だからこそ集団悪についていつも気をつけないといけないなと思うのです。
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Posted at
2007/07/05 14:43:34