今でも一部で大人気のM2車輌だけど、M2ビル柿落としから終わりまで砧に顔出した奴はそうはいないでしょう。そんな私が、たぶん、みんなが知らないかもしれないM2の話を、できるだけ硬質にならないように、備忘まとめてみました。超・長文です。
FACTは別便でUPしておきますので、アーカイブしたい方はそちらをどうぞ。
じゃあ、 行くぜ。真夏の夜の野暮野暮な大放言。
「M2の煌めき・迷走・終焉 と、 M2スピンアウト」
<はじめに>
M2とはなんだったのか。 答えは単純明快。それはM2と触れ合った事で人生を変えられてしまったヒトの歴史の総体だ。
91年12月から95年半ばまで。4年間と少しの間しか存在しなかったM2。しかし、そのM2から生み出されたモノは、いまでも感化された大勢のヒトの人生を変え続けているといっていい。
M2と関わったヒトの公的アーカイブをエッセイにして。
<背景>
豊かさの象徴の3C(カラーテレビ・クーラー・カー)をとうの昔に得て、今より極めて均一化した世の中にあって、その次世代を同一軸線上に求めた時代。均一化した発展がこれからも続くと思ってた。「ポスト○○」は続々と必ずやってくる、と思ってた。
1980年代。当時の自分は建築に興味があった。
80年代はこれまでの、石組み、煉瓦貼り、伝統的日本家屋、などの様式美に囚われず、ありふれた材料(材木とかコンクリートとか)で機能的な建築。こういうのを「モダン建築」といって、このような「モダニズム」風潮が行き渡った後だった。
その1世代前、60年代のそれぞれの家には、その家なりの趣向を凝らした「応接室」「座敷客間」があって、大衆化/簡略化されているとはいえ、ある種の様式美(シャンデリアと革張りソファのある"偽"ジョージアン様式の応接室、とか"簡易"書院造りの座敷とか)を備えていた。
地域ごとの文化的背景から発生した建築様式は、地域ごと街並みを異にしていた。しかし、7-80年代のモダニズム風潮の中では、それら古典様式風味の代わりにもっと機能的な3LDKとか5LDKとか、n-LDK住宅が席巻した。駅前建築もそう。駅ビルにバスターミナルに付設広場&モニュメント。そのため、日本中が同じ景色になった。地方都市の駅前はどこも殆ど変わらないし、住宅地も日本中同じになった。
○モダニズムの弱点は、均一性、没個性、面白みのなさ。
クルマでは。
ユーノスロードスターはマツダの「LWS」 Light Weight Sport carプロジェクトから始まる。LWSには最初に理念があった。現代的にありふれた材料でありふれた技術で理念をパッケージしよう、ということから始まっている。モダニズム発想なのだ。
ユーノスロードスターはモダニズムそのもの。機能的な美しさはあっても、装飾的な美しさを廃していた。
モダンアートとしても優れていた。MOMA(The Museum of Modern Art, New York)にも永久所蔵されることになった。
○モダニズムの弱点は、均一性、没個性、面白みのなさ。
ユーノスロードスターが街に溢れてくると、没個性で、面白みはなかった。
「他人のユーノスと違う」という事を目的としたモディファイも横行した。(まあ、私を含め素人は"目新しいこと"と"美しいこと"の区別が付かない)
だが、一方で業界も技術力をつけた。デザイナーも力を付けた。資金もあった。そろそろ、何か変わる!
建築業界では「ポストモダン」がくる。そう信じていた。
<待望されたポストモダンM2>
そんな90年代の始め。
建築では、博報堂と組んで隈研吾さんがポストモダンの建築(M2ビル)を作るっていうんで大騒ぎ(一部で)になっていた。
91年の11月末にいよいよM2ビルのお披露目となった。12月1日よりM2の開業。
当時のマツダ上層部と博報堂が仕掛けた「Tokyo ソフト開発実験工房」がスタート時のM2だ。
M2の設立時トップは山之内道徳専務。立花啓毅さんは常務ポストだった。
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休題
この山之内道徳さんと立花さんは広島マツダ本社で実研の直属上司ー部下の関係でした。「オフライン55」という実験的商品開発リサーチグループの主要メンバーです。
オフライン55のコンセプトはM2とよく似ています。
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M2ビルは、典型的なポストモダン建築。
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向かって左が「モダン」で、向かって右が「ポストモダン」を象徴してる部分。
機能的な(まあ普通の)ビルに対して、「ラディカルな折衷主義」として、半ば強引にギリシャのイオニア式の柱モチーフをねじこんで、ありきたりで没個性な「モダン建築物」ではない「ポストモダン建築」となっている。「ポストモダン」って、今から総括してみれば、モダン建築に、過去の様式(文法)を強引にバイブリッドしたラディカルな折衷主義にしかならなかった。
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コレがイオニア式。「様式美」ってヤツ。
ではM2車輌はどうなのか。これまたポストモダンであった。
M2車輌は素体ユーノスに何かの過去の様式(文法)をハイブリッドした「ラディカルな折衷主義」車輌である。
ユーノスロードスターが、合理的、機能的にデザインされた「モダン」そのものであることに異論のある人はいないだろう。
万人向けで、ともすれば、没個性なユーノスロードスター。そこにいろんなベクトルの「ラディカルな折衷主義」をねじ込んだモデルがユーノスロードスターベースのM2車と言える。
1001は Cafe Racer
1002は Vintage
1003は Junior
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(1028は Street Competition)
テーマ毎に方向を定めてあった。
M2-1001は立花啓毅さんの記憶の中にある、英国風LWSのテイストを、機能的にも装飾的にも、素体ユーノスにラディカルに折衷した車輌。
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このデザインすごいよね。
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これも。美しい統一感。センターコンソール取っ払って、ドレスダウンなんだけど、逆に高級感もでている。
しかし、そのバイブリッドした分量や方向性は機能的にも装飾的にも絶妙で見事というほかない。
M2-1002の外装はガンメタリック。内装はブラックレザーで、焦げ茶のウッドパネルだった。この内装はヤマハ楽器。
実は1002、緑外装+タン内装が一号機で、ガンメタ+黒内装が二号機、紺+白内装が三号機と変遷した。M2こけら落としの時の車輌は二号機で、発売されたのが三号機だ。
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余談だが、立花さんは後日、著書で隈さんとの邂逅のシーンを述べている。
立花さんの著作(なぜ日本車は愛されないか)の中に、M2の開幕時、若かった隈さんに同じモノの作り手としての「文法」を問いただした場面の記載があって、、、。立花さんはヨーロッパ建築での石積みの構造体がなぜ壊れないか、などの歴史的にみた「建築の文法」を問いただしていたのだが、隈さんは「そんな文法はありません」とピシャリ。
たかだか130年程度のクルマの歴史。人類の歴史と同じ長さをもつ建築の歴史。「クルマの文法」が「建築の文法」に挑むのは2000年ほど早いだろう。その手の紋切り型の質問を軽くあしらったであろう隈さんの術が透けて見える。ちょっと場面が見えるようで可笑しかった。
立花啓毅さんは「クルマには文法がある」という信念の持ち主。判りやすく実直で頑固なヒトなのだ。
隈研吾さんの信念はちょっと重層的。装飾的な付加をしたポストモダン建築理論も、ポストモダンをやめた後の”負ける建築”理論も、けして矛盾はしてないのだが、わかりにくい。だって、建築には気候・文化・民族・階層・知性・情念・・・複雑に絡み合って、建てる方も、住まう方も、重層的な理解がないと成り立たないよねえ。すべてのヒトが建築に暮らしの基盤を求めざるを得なくて、それは未来永劫変わりようがない。
まあ、隈さんがめんどくさがらず
「重層的な建築理論と、歴史の浅いクルマづくり理論を一緒にするのは、いかがかと思うのです」
なぁんて始めちゃったら面白かったのにね。
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また、M2車輌の開発は砧M2では行われていない。
広島のマツダ産業(現マツダE&T)で開発されている。マツダ車の架装をしていた会社。ここから、エンジンはHKS、ボディ補強はオクヤマ、と発注し、車輌に組み付けていた。M2-1028担当の田中秀昭さんはM2-1001にはキャブレター車輌も検討され、立花さんが「ガス検が通らないよね」と却下したいきさつを披露している。1028の時も軽量ハードトップをカーボンで企画して試作品を外注したが、一個60万で断念したと。広島での話。
M2って砧で一体何をしていたんだ?
<M2の煌めき>
M2は「感動あるクルマ・生活の提案」を目指す実験工房。企業活動の計画をCI(Corporate Identity)っていうんだけど、M2ではCIの産物はすべて「実験成果物」としてコードナンバーにより体系化された。
成果コードM2-1000から2999がクルマ制作。これにM2-1001やM2-1002が入る。欠番があったが、M2-1031までが成果物リストにあった。
CI codeはM2-1000番台からM2-9000番台まで振り分けられ、それぞれが互いに干渉しあいながらも別々のベクトルを持っていた。
M2 1001-2999 クルマ創り
M2 3001-5999 クルマ関連の商品開発
M2 6001-7999 クルマ関連以外の商品開発
M2 8001-8999 イベント
M2 9001-9999 コミュニケーション
そうなのだ。M2においては、M2車輌作製は活動の一部分に過ぎない。
CIコードM2-8000番台、M2-9000番台の活動。これこそソフト開発実験工房たる由縁。
この軸は、クルマの文化論、環境論、生活支援のクルマ論、障害者インテグレーション、、、、多岐にわたったソフト開発だ。多彩な講演、イベント、意見収集(クリニック的な)を何度も行った。当時の日本の自動車評論家、雑誌記者、プロダクトデザイナー、社会学者、有名どころは殆どが絡んでいるんではないかな。
これがM2サロン
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大理石の大テーブル。バブリーだねえ。ここで何度も楽しい双方向コミュニケーションがはかられた。この隣では観葉植物の沢山おいてあるカフェがあってお茶も飲めた。
トイレも凄い
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一人分のオシッコ流すのにドンだけ水を流すのか。バブリーだねえ。
M2の煌めきであるたくさんの開発車輌は、、。たくさん世に出回っているM2-Voice冊子を参照くだされ。本当にクルマ好き達がクルマを自由に作っている。最終的に世に出たのはM2-1001、1002、1015、1028。
キラキラ輝いていた。
<M2の迷走>
さて、実質的なM2的モノ作りは93年の立花啓毅さんポスト移転(M2からマツダスピードへ)で転機を迎える。
だが、皮肉なことは「ソフト開発実験工房」としてのメセナ事業はこれからが本番だった。
M2の「作り手-顧客」の双方向コミュニケーションM2-9000を担った広報の2名は水落正典さん石川響子さん。
M2でのクルマづくりの理念には「経験豊富な感性から生まれた文法に則って作らないといいものが生まれない」というのがある。識者の経験則が絶対的に優先で、一般マーケットのリサーチ不要というのがM2的モノ作り。CIコード1000番台の活動のMind Identity(理念)だ。
そんな上意下達の物作り風土の中にあって、素人との双方向コミュニケーション部隊って、一体なんだったのだろう。
M2の活動はとてもわかりにくいチグハグした感じがあった。
CIの為の必須条件 MI(Mind Identity) 理念の統一や、BI(Behavior Identity) 行動の統一がなされていなかったからだ。
だが、実質的に立花色の薄まったM2では双方向コミュニケーションはずんずん進む。楽しかった。
この時期のM2-8000、M2-9000は随分突っ込んだ文化的事業もやった。EV(Electric Vehicle)と障害者むけ車輌だ。
舘内 端さんを中心とするEVの啓蒙事業。まあ、一方通行の授業ではあったが、講師陣はすごかった。大学教授から自動車評論家、ジャーナリスト。徳大寺さんもきた。
実際に舘内さんら監修でEV制作教室がおこなわれてEVをつくっちゃった。
「EVはホントにエコなのか?」真剣な講義が面白かった。
障害者向け車輌は、ヤバかった。
「好きなときに好きな所へ行く」 すなわち、モビリティの自由は誰にでもあるべきた。
・・・そういう「べきだ」的な無茶な視点から発展したこの取り組み。
ノーマライゼーション
インテグレーション
インクルージョン
そんな概念すらない若い俺たち連中に、障害者用車輌の理念と実際に実験車両であるM2-1031を示してみせた。意見を聞いた。
M2-1031は、車イスの方が脚を使わずにスポーツドライブ出来るように制作された実験車両。
無知故の裸の意見はかなり危険である。「障害者は公道を走っていいのか?」「障害者をスポーツ車輌に乗せるっていいのか?」そういうところから始まった。
講師も有名どころで川崎和男さんが、ユニバーサルデザインUDについて講演した。米国の新しいデザイン概念の話。驚きだった。
(実際に、日本語書籍でUDが紹介されたのは96年だから、2年ほど先んじている)
だが、そうして作られたロードスターベースのM2-1031だが、ココロザシは高く評価されたが、デキバエの評価はよくなかった。
大井貴之さんも「あれじゃダメ」というほどドライバビリティはスポーツするほどではなかった。
すなわち、「運転操作を優しく単純化する」、ということと、「脚がつかえなきゃ手だけで繊細でリニアリティのある操作系を作る」、ということの取り違えを指摘していた。
実際、ラジコンチャンプなら、脚使わない運転操作は「椅子にプロポ」でいいやね。
ただまあ、どっか遠い世界であった「自分達と違う人達」のモビリティの事、考えるようになったよ。
EVのエコロジーであれ、障害者のモビリティであれ、クルマを通して社会の有り様を知る。これからのモビリティの姿を考える。M2の仕掛けた術に俺はずっぽり嵌った。
<M2の終焉>
ポストモダンは失敗を運命づけられていた。
モダンの次にも均質な上位装飾性や上位性能をもったポストモダンがくるわけがなく、真に新しい何かだけで構成された建築やクルマができるわけでもない。ポストモダン的な発想そのものには無理があった。人々はこれまでのように均質に豊かにもならず、均質な価値感ももたず、多様な趣味嗜好を認め合う社会になって、今となれば、ポスト○○なんて発想自体が既に存在しない。
まあ、クルマに決定的な革新があって、EV&完全自動運転、、とかになると、スポーツカーとかショーファードリブンとか障害者のクルマとか、過去の括りの意味が完全になくなって、”ポストクルマ”といえるかも知れないけどね。そんなクルマ未来が楽しいかどうかは別として。
さて、ともかくM2は煌めいて、はじけた。91年-95年の4年と少しの間だけの夢の饗宴であった。
立花啓毅さんは後の著書でM2の失敗をこう解析した。
「(歴史の文法を知らない)建築家と広告代理店(博報堂)の
思惑と、(マツダ)トップの判断でバブルの象徴と化した」
まあ、そうであるかもしれないし、一面的な見方であるかもしれない。ただ、2002年に書いた立花さんの論旨を2016年の背景で俯瞰して批評することは避けたい。唯一、2002のマツダ定年退職直後の著書で(マツダ)トップを批判しているというのが、ポイントだ。
<M2スピンアウト>
はじけ飛んだが、M2は多くのスピンアウトを産んだ。
M2-8000~9000担当の水落正典さんは’95年のM2終了時35歳。マツダに戻らず退社して、Ex M2を興す。この会社はM2が取り扱うグッズのうち、マツダおよびM2が開発に関与していない商品を売ることをしていた。翌年からRCOJ(Roadster Club of Japan )を立ち上げ。社名も OPEN Inc.に変更。
自身の後述で、マツダ退社の理由を「M2で培ったことが、マツダに戻っても活かせないと判断したからだ」と述べている。
この先はロードスターミュージアムを建てて、館長をやりたいと抱負を述べる。曰く「人生設計は完璧なんだ」。
M2-8000~9000担当の石川響子さんはM2終了後 日本EVクラブ事務局へ。舘内 端さん主催のクラブ。M2の「経験からくる感性が必須」な ものづくりグループとは全く異なる「真に未来的」な ものづくりグループに入ったわけだ。
これから伸びるだろう。日本EVクラブでは、RCOJの声かけでロードスターEVをまたやるとのこと。
M2ビル建築家の隈研吾さんは、ポストモダンそのものの否定を始める。自分の建築の歴史を否定する。周囲に負けていく建築こそ、理想だと。
東京オリンピックスタジアム設計を射止めた。”負ける建築”なのにね(笑)。
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ほら、やっぱり”負ける建築”だし、”自然共生”だし、”作り手の押しつけ”はないよね。
M2-1001担当の立花啓毅さんは、1993年の8月にM2を離れマツダスピードに。この時期はまだM2が活動中だ。
これが凄い時期だった。
マツダスピードは1991年、マツダ787Bでル・マン24時間レース優勝。一転、1992年レース後には経営不振で転げ落ちるようにマツダスピードのレース事業は縮小していく。ここで立花さんが配属される。1999年にマツダスピードはマツダ本体に吸収される形で、法人および組織としての「マツダスピード」は消滅した。
監督の大橋孝至さんはトヨタ系で縁があるサードに招聘された。ドライバーの寺田陽次郎さんは独立してオートエクゼを立ち上げた。技術部長の田知本守さんは独立してドゥー・エンジニアリングを設立した。そのほか、アラゴスタで有名なトップラインプロダクトもマツダスピード技術系メンバーによる設立。
マツダスピードスタッフも殆どが退社してしまい、ルマンを総合優勝に導いたモータースポーツのノウハウはソフトウエアとハードウエアともにマツダから永遠に失われた。その渦中に立花さんは居たことになる。
激動の1999年。
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余談だが、立花さんにも好いことがあった。
1999年に「マツダスピードの787B」はマツダスピード解体を機に「マツダ本社の787B」となって、まさにこの年、1999年のグッドウッド・フェスティバル・オブ・スピードに招待され車輌を持ち込んでいる。
英国グッドウッド・フェスティバル・オブ・スピードは車文化の祭典の頂点とも言える格式有るイベント。ル・マン・カーのハンドルを握るのは、その時のドライバーが存命なら、本人がドライブするのが慣例であるが、、、。
1999年大会では
ポルシェ936にジャッキー・イクスさん。
シルクカット・ジャガーにはジョニー・ブートさん
ザウバー・メルセデスはヨッヘン・マスさんが、ドライブした。
そして、、。
マツダ787Bをドライブしたのが、、、、立花さん。
その時のドライバーが存命なら(もちろん存命)、本人がドライブするのが慣例であるが、、、。
この誉れ高きドライバー達には、ブルーのリボンの付いた大きなメダルが授与されている。
権威に認められた年となった。(この頃から立花さんの文化論が貴族文化由来のハイカルチャーに傾倒していく気がするんだけどね)
この件は、長らくMAZDAのHPからも見ることが出来たのだが。
時が流れ、2015年にもう一度マツダ787Bがグッドウッド・フェスティバル・オブ・スピードに招待され、この年のメインスポンサーになった。
今では2015年大会の787BしかMAZDAのHPからは見ることが出来ない。
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この時期の立花さんの活動で注目はロードスターMPS。立花さんのデザインと後述される。
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格好いいよね。世に出ればよかった。
さらに、マツダスピードはこの時期良くデザインされた小物をたくさん発表している。RX-7 ドライビングメーターの米国アニュアル・デザインレビュー '98受賞など華々しい。プロダクトデザイナーとしての立花さんの活躍を見る。
02年3月にマツダを定年退職。以後宝飾デザインなど多彩な才能を存分に発揮。
その後、ディーテクニック代表 出来利弘さんと共にリリースしたTD-1001R。綱渡りのようなTD-1001R制作記録はWEBで読める。立花さんを口説き落とす攻防は読んでいてとても面白い。
M2スピンアウトの中には、M2車輌をデモカーとするショップの立ち上げがある。
M2車輌をデモカーとするショップは全国にあった。
・埼玉ハンドレッドワン
M2-1001オーナーズクラブ”ハンドレッドワン”から出たカーショップ・ハンドレッドワン。首都高5号はよく使ってたので、気になってハンドレッドワンには行ったんだ。ロフトがあって、お茶まで出していただいた。
・神奈川ディーテクニック。現在??中
(HPでは、オフィスがあるようです。自動車分解整備事業認可の別名ショップと同じ住所に。)
・福島フットボックス。現在閉鎖中
・栃木ファインスポーツ。現在閉鎖中
・静岡アイスタイリング。営業中
・愛媛村上モータース。営業中
他にもあるかもしれない。
MAZDAにも、M2と絡んだ人達にも、嵐の時代はあった。組織の解体と合併、起業と廃業、そして再起動・・。
まあ、人生勝てばいいとか当たればいいわけじゃない。どうやらこうやら生きてこれて、晩年まで自分勝手な信念を貫き通せたなら、幸いと言うほかない。
M2ストーリーはM2に絡んで人生変わったヒトの数だけある。公的な記録に残っているアーカイブ可能なストーリーもあれば、ごく私的な密やかなストーリーもあるだろう。俺のM2ストーリーもそんな頑固爺さんの入魂のM2−1001と寄り添ってあるわけだ。
今の自分の仕様のM2−1001はオリジナルの立花啓毅セッティングから遠いかもしれないが、個人的にはかなり気に入っている。立花啓毅さんに乗って頂いて、「ここダメ」と論評を頂きたい。そんなM2諸兄は多いんじゃないかな、と思う。
青春だった。皆がM2に感化された。
ああ。青春の日の残光が眩しい。
はしる いじる たのしみは これからもずっと・・・