謹んで6434人の亡くなられた皆様とそのご家族に心より哀悼の意を表します。
あっと言う間の15年です。
今このブログ書いている時間のほんの数時間後に震度7の地震が来るなんて想像できますか?
15年前の今頃私は三宮の北野坂から少し入った飲み屋ビルの行きつけのスナックでしこたま飲んでの帰りでした。
家に帰り着いたのが1時半過ぎだったと思います。
突然の大きな揺れで飛び起きました。
下からドンドンと突き上げられてベットの上でジャンプしていたのを今でも鮮明に覚えています。
その次はガタガタと横揺れがしばらく続きました。
私は天井が落ちてくると思ってずっと天井を見ていました。
やっと揺れが収まった時は異様な静けさをやぶって隣のマンションの非常ベルがなっていました。
そしてしばらくするとガスの臭いと近所から出てきた人の声が・・・
おそるおそる窓を開けて隣のマンションを見ると築20年位の建物が見るも無残にヒビだらけになっていて大きい亀裂では10cm位もぱっくりと口を開けていました。
私はガス臭いので窓を閉めると家の中の被害を見に起き出しました。
幸い当時の寝室にはベット意外には何も置いていなかったので私自身は無傷だったのです。
でも実は家の中の家具など立っている物は皆無でした。
全ての物が床に投げ出されていました。
キッチンやリビングも割れたガラスや食器があったので靴を履いて歩いてました。
凄かったのが大きなレンジが右斜め45度へ1.5m程ジャンプして流しの中に飛び込んでいました。
上の写真は大きな家具は起こしてから撮影した物です。
私の場合幸いにも建物に大きな被害が無くて家財道具がほぼ全て使えなくなっただけで済んだ事です。
家の中を少し片してから着替えて外に出てみました。
東隣のマンションは上で書いた様にヒビだらけ、西側の大きなお屋敷は屋根が地面に落ちてしまいペチャンコです。
道路は波打ったり亀裂が入り液状化現象が起こっていました(海の近くだった為)
家や電信柱が傾きどれが真っ直ぐか分からなくなりました。
数分歩くと阪神高速が見えて来ました。
高架が落ちたり高さが半分位になっていて押しつぶされたトラックが燃えていました。
ああきっとあの中には人が居るんだなって思いましたが不思議とそれ以上の感情は起こりませんでした。
西から来た車の運転手が阪神高速が横倒しになっているって興奮しながら話していました。
西の空を見ると見た事が無いくらいの真っ黒な黒煙が幾筋も立ち上っていました。
後日神戸の長田区のお客さんの所を尋ねて行くと驚く光景が広がっていました。
見渡す限りの焼け野原でした。
大きな道路に沿ってずっと先まで一面黒と茶色の世界です。
いつも走っていて目印にしていたビルや家が傾いたり倒壊していて道を間違える事もしょっちゅうでした。
こんな事もありました、クルマを止めて何気なく上を見たら銭湯の煙突が折れて倒れて電線に引っかかって止まってる真下に立ってたなんて・・・
午前7時半過ぎに電気が復旧しました。
早速TVを見ましたがこの辺りの震度が出ません。
出ない筈ですだって当時の最大震度は6だったのですから・・・
建築業界に入った時に教えられたのは、関西は地震は来ないから地震保険には入らなくって良いって事でした。
活断層なんて言葉もドコにも無かったですよ。
建築やってる者から一言
横倒しの高速道路の剥き出しになってた鉄筋は溶接不良。
高架が落ちた新幹線の壊れたコンクリートの断面から露出していた大きなコンパネ(大きな分厚い木の板)
巨大な橋の橋脚が真っ二つに割れている所は間違いなくシャブコン(コンクリートを流し込む時に作業がし易い様に水を増やしてシャバシャバにする事)なのでコンクリートと骨材が分離している。
比較的新しい一軒家なのに壊れた壁から覗くと躯体が全く補強されていない。
などなど壊れて当たり前の目を疑う光景が見られました。
あぁ今回の震災の多くは心無い建築業者の手抜き工事による人災だなって・・・
何でそうゆう事が話題にならないのか未だに不思議でなりません。
すいません止めども無く書いてしまっています。
私にとってこの震災は悲しいと共に腹立たしい思い出になっています。
Posted at 2010/01/17 01:22:54 | |
トラックバック(0) | 日記