という訳で、元母校から寄付の案内が届きましたw。
雨の影響でかなり順延が長引いている様ですが・・・。
『元』というのは、少子化の影響で合併をせざるを得なくなり、元の学校名が消滅した。
という意味です。
一応、校舎は一部残されていますが、メインの校舎は元阿南工業の方になっていて、かつての様に学生が溢れる事も無くなりました。
あんまり高校時代の事は日記にしたことは無かったかと思いますが、県内ではそれ程進学に力を入れている学校ではなく、どちらかと言うと田舎によくある不良が集まる様な学校で、周りがあまり勉強しなかったので、自分は中間・期末テストで割と上位に入れた。という経緯があります。(苦笑)
あと、高校在籍中の野球部(自分は卓球部)も例に漏れる事無く不良のたまり場で、1回戦、2回戦で敗退。というのはごくごく普通の事だったので、当時、自分の高校が甲子園に行く事は無いだろう。という認識だったので、後に甲子園に行った時はそれはそれは大そう驚きましたとさ。(苦笑)
徳島県では徳島商業、鳴門高校、鳴門工業。
甲子園優勝だと、池田高校が有名だと思います。
今はあまり甲子園で上には行けなくなってしまいましたが、昔は割と強かったみたいです。
第64回大会(1992年春)新野(初出場)
1回戦。対横浜戦の時は仕事を休んで父親と妹とで甲子園に応援に行きましたね。
初めて甲子園に行きました。
横浜と言えば、昔から強豪で、誰もが一回戦敗退を疑わなかったと思いますが・・・。
記憶が怪しいのですが、確か横浜はデッドボールで出塁。
バント・バントでランナーを貯めて先制し、その後もバントで追加点を取って、試合を有利に進めていたので、こちらは敗色濃厚で、随分応援団も諦めムードだったと思います。
6回までは0-3。
7回に1点取ってから盛り上がりましたね・・・。
8回に同点。
そのまま逆転。
まさかの勝利となりました・・・。(苦笑)
徳島県立新野高等学校(とくしまけんりつあらたのこうとうがっこう)は、徳島県阿南市新野町に所在していた公立の高等学校。
1943年3月31日 - 徳島県立那賀農林学校として創立(男子校)。
1948年 - 徳島県那賀農業高等学校に改称。
1949年 - 徳島県新野高等学校に改称。
2018年 - 徳島県立阿南工業高等学校と統合し、徳島県立阿南光高等学校が開校。
2019年
3月31日 - 新野高等学校としての歴史が終了。
4月1日 - 阿南光高等学校新野キャンパスとなる。
部活動
野球部は春夏ともに甲子園出場経験がある。甲子園での戦績については全国高等学校野球選手権大会 (徳島県勢)及び選抜高等学校野球大会 (徳島県勢)を参照。
第64回大会(1992年春)新野(初出場)
1回戦 ○ 7 - 3 横浜
2回戦 ● 1 - 3 三重
第78回大会(1996年夏)新野(初出場)3回戦
1回戦 ○ 2 - 0 日大山形
2回戦 ○ 4 - 3 明徳義塾
3回戦 ● 2 - 8 松山商
甲子園出場を決めた阿南光 前身の「新野」「阿南工業」を当時の記事でたどる
https://www.topics.or.jp/articles/-/567540
8/1 15:30
8月9日に開幕する第103回全国高校野球選手権大会に、阿南光が徳島県代表として出場する。2018年に新野と阿南工が統合されてからの甲子園出場は春夏を通じて初めて。新野は1992年春と96年夏の2度甲子園を経験し、阿南工は76年に春の県大会を制した。プロ選手も輩出した新野、阿南工野球部の歴史を記事でたどる。
■連載「新野最後の夏~全国高校野球徳島大会」(2018年7月掲載)
第100回全国高校野球選手権徳島大会が7日、開幕する。出場校の一つ、新野は4月に阿南工と再編統合され、2、3年生にとっては現校名での最後の夏となる。1992年春と96年夏の2度、そして阿南市から唯一、甲子園を経験した野球部の歴史をひもとき、有終の美を飾ろうと意気込むチームを紹介する。
第78回選手権大会の新野対明徳義塾 5回途中から救援、明徳義塾の反撃を迎えガッツポーズする新野の小品貴志=1996年8月16日、甲子園
新野の代名詞は次から次に安打が飛び出す「タケノコ打線」。そして劣勢から試合をひっくり返す「ミラクル新野」。ミスを恐れず伸び伸びとプレーする姿は、今も高校野球ファンに鮮烈な印象を残す。
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2021/08/14 08:56:14