箸墓古墳
日本最古の定型前方後円墳-卑弥呼の墓(?)
2007年08月26日

箸墓古墳は、奈良盆地東南部の三輪山の麓、いわゆる山の辺の道の南端に相当する平地に独立して築かれている、全長約280m、後円部径約160mの巨大前方後円墳である。最新の考古学研究によると、周濠の発掘により出土した土器の様式から、3世紀中葉~後半(3世紀第3四半期?)の築造と考えられるようである。これは全国に残る全ての定型前方後円墳の中でも最も古いものになるとのことである。
宮内庁管理の陵墓参考地のために一般の人の立ち入りはできないし、ましてや埋葬主体部の発掘など許されないため、その被葬者を断定する術はないのであるが、『日本書紀』によると、倭迹迹日百襲姫(ヤマトトトヒモモソヒメ)の墓が箸墓であるという。その死に際して、箸墓を「昼は人が造り、夜は神が造った」そうである。この倭迹迹日百襲姫という方、三輪山の神・大物主の妻であったとのことである。
1998年9月の台風のために箸墓墳丘上の木が多数倒れ、宮内庁により墳丘上の被害調査が行われた。その際に吉備型の特殊器台や特殊壷(祭祀に用いられた埴輪の原型となる土器)の破片が大量に採取されたのである。巨大な古墳は大和で発生したと考えられているが、その特徴の一つである埴輪の原型は吉備(岡山県)から来ているのである。
『紀』によれば、倭迹迹日百襲姫の父親は孝霊天皇であるが、その兄弟に吉備諸進命という人がいる。さらに孝霊天皇の息子には吉備津日子命がいる。すなわち倭迹迹日百襲姫の兄弟である。吉備という地名はその当時から存在したと考えられているが、その地名を名に持つ人が倭迹迹日百襲姫の近親者に存在したと『紀』は伝えているのである。もちろん箸墓古墳には墓誌など無い。しかし、その被葬者の姿が見えてきたのは、考古学上の発見と最古の文字記録が見事に結びついたおかげなのである。
邪馬台国畿内説に立てば、倭迹迹日百襲姫こそ『魏志倭人伝』が伝える邪馬台国の女王・卑弥呼だということになる。卑弥呼は鬼道に仕え、よく人々を惑わした。そして3世紀の前半に女王の座に君臨し続け、西暦247年頃に亡くなったようである。その死に際しては、径百歩余りの大いなる塚を造ったそうである。倭迹迹日百襲姫にまつわる伝説とピタリと合致するのである。最新の考古学の研究成果と照らし合わせても、時代的にもほぼ合致する。
日本に残る伝説と中国に残る記録、そして考古遺物の研究の結果が見事に一致するのである。私自身は考古学者でも文献学者でもないが、このような考古学・文献学の成果から総合的に判断して、邪馬台国畿内説を支持する。というよりも、もはやそう思わざるを得ない状況だ(邪馬台国論争には事実上、ピリオドが打たれている)と言える。そして、箸墓こそ卑弥呼の墓であると考える。さらに、その周囲に広がる纏向(まきむく)遺跡こそ、女王卑弥呼が都する所・邪馬台国なのであると考えている。
そう考えると、この箸墓古墳がいかに魅力のある、重要視されるべき古墳であるかがわかっていただけると思う。文化財として見ても、今に残るこれほど古い歴史的建造物はそうはない。何しろ全ての木造建築より確実に古いわけであるから。これは大多数の古墳に共通して言えることでもあるが、その中でも最も古い段階のものであり、かつ原形をきわめてよく留めていることも(一部に民家による墳丘の損壊があるが)、特筆に値する。1700年以上もその場所に、姿を変えずに、存在し続けてきたわけであるから・・。
また、その立体的な形状も実に魅力的である。さすがに航空写真で見るような見事な前方後円型を地上から見ることはできないが、その巨大さ、バチ型に開く前方部と、それにつながる後円部との連結部(くびれ部)の美しさ、その真横から見たときのプロポーションの良さは、実際に訪れてみないとわからない。そして、この古墳を間近から眺めたとき、この古墳にまつわる伝説やそこから想像される様々な可能性が、美しい墳丘とリンクして見る者を古代のロマンへ誘う。感覚が古墳時代初期へとタイムスリップするのである。
私にとって、この古墳の一番の魅力は、歴史的意義に裏打ちされた本物感と、人工建造物としての美しさだ。これらが一体となって、私に深い感動を与えてくれるのである。本物感と美しさ。考えてみると、これは私がクルマに求めているものと同じものだ。やはり自分の趣味の方向性は、対象が異なっても共通するものなんだなぁ・・。
(写真は下記地図の矢印付近から見た箸墓)
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