(安岡正篤-「人物を創る」より)
「詩に云う、節(せつ)たる彼(か)の南山、これ石(いし)巌々(がんがん)たり。赫々(かくかく)たる師尹(しいん)、民具(たみとも)に爾(なんじ)を瞻(み)ると。国を有(たも)つ者は以て慎(つつし)まざる可からず。辟すれば則ち天下の僇(りく)と為る。」
詩云、節彼南山、維石巖巖。赫赫師尹、民具爾瞻。有国者不可以不慎。辟則為天下僇矣。
「詩経」小雅の節南山編に云う、「巍々(ぎぎ)として聳え立つかの南山は、巨大な巌石が積み重なっている。権勢赫赫たる太師(周代最高の官職)尹(いん)氏を、民はひとしく仰ぎ視ている」と。(しかし尹氏は一己の私に流れ、国政の要職に近親者ばかりを挙用した)
上に立つ者の一挙手一投足は、人々の仰ぎ見るところであるから、国政に任ずる者は慎重でなければならない。絜矩の道を踏み外して一己の好悪に偏るならば、ついには天下の刑僇にかかる辱めを免れないであろう。
師尹は尹氏のことで、師は周代最高の官職・三公(太師・大傅(たいふ)・太公)の一つである太師のこと。権勢赫赫たる周の太師・尹氏は国政を擅(ほしいまま)にして、人民は塗炭の苦しみに呻吟した。民は上に立つ指導者を見ているから、社長がゴルフをやると社員が皆やりたがる。総理大臣がやると、代議士も実業家も皆それに熱を入れる。
僇は罪人。いま天下の民は何を望んでいるか。第一に倦んでいる。人心をして倦まざらしめんことを要す。五箇条の御誓文は実に古今の真理である。それから是非善悪の弁別がたたないということにうんざりしている。敢然として信賞必罰をやらない。そういう道徳的勇気がない。民衆ははっきりと指し示す正義と勇気を欲している。そういう欲するところ・好むところにぴったりと当てはまる、民衆の要望に応えられるような宰相が出現すること、宰相がさういう気概を示すことが政治としては根本問題である。
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Posted at 2010/10/31 11:38:37 | |
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