最初に・・以下の話は、当時から現在に架けての書籍や報道を参考にして書き込みました。
当然、原文を読めるわけではないので、真実からは尚かけ離れた話もあるかもしれませんので、極力映像からみた自分の意見を中心にしたつもりです。
1971年 マーチF1より、ロニー・ピーターソンのチームメイトとしてデビューしたが、当初はペイドライバーとしての参戦でした。
資金は、父親の反対により、自国のオーストリアの銀行から、生命保険を担保にしてのもだった様です。
1973年、背水の陣でマルボロBRMより参戦した。この時のチームメイトであったクレイ・レガツォーニ(フェラーリには先に移籍)の推薦もあり、1974年は、フェラーリから参戦し、1975年と1977年のワールドチャンピオンを獲得した。
1976年もチャンピオンに1番近い位置にいたが、同年の西ドイツGPでのクラッシュで瀕死の重傷を負い、一時は死を覚悟。。その間にマクラーレンのジェームス・ハントがポイントを稼ぎ、そのまま、ジェームス・ハントがチャンピオンになると思われたが、西ドイツGPから3戦後のイタリアGPで復活。このGPに、フェラーリは、クレイ・レガツォーニとカルロス・ロイテマンとニキ・ラウダの3台体制で望み、それを不審にも思ったラウダだったが、見事に入賞した(優勝は、1974年以来の勝利を収めたマーチのロニー・ピーターソン。この時はフェラーリからラウダの代わりとして誘われていたが、以前のチームメイトでもあった友人の代わりは出来ないと断った)。
この年のF1インジャパンでは、余りの雨の酷さに「レースより大事なモノがある」と途中棄権し、この時点でポイントで負けていた、マクラーレンのジェームス・ハントが4位に入賞して1点差で逆転チャンピオンとなった。
この棄権を批判したエンツォ・フェラーリとの関係が悪化していき、契約最終年の翌1977年には、チャンピオンを決めたら、シーズン途中にも関わらず、早々にチームを離脱した。この時に入って来たのが、ジル・ヴィルヌーブだった。
1978年 レーシング・ディベロップ・メント(ブラバム・アルファロメオ)チームに移籍。
1976~1977年と、アルファロメオエンジン信頼性などにより、然したる成績も残せていなかったこのチームに移籍したのは、ゴードン・マレーが1978年用にデザインした、フラッシュ。サーフェイスカー(ラジエターを持たない表面冷却の車)BT46を見たからだった。
だが、残念ながらこのマシンの表面冷却は冷却水の冷却が計算通りの結果が得られず、ラジエターの置き場所を確保する為に試行錯誤して、前年までのBT45BのCタイプとして、フロントラジエター(ウイング状になっている)を試した。
アルゼンチンGPとブラジルGPの初戦2戦しか走っていないが、納得行く、効率とダウンフォースがあったのか、BT46はフロントウィングにラジエターを納めて第3戦の南アフリカGPに望んだ(優勝はロータスに条件付で戻ったロニー・ピーターソン)。
この年は、スウェーデンGP(この年が最後の開催)のカールスコーガサーキットで、46Bタイプのファンカー(リアに備えた巨大な回転翼で空気を吸い出し路面に吸い付かせる。。あくまでラジエター冷却が主目的としたが・・・)で優勝し、ロニー・ピーターソンが事故でなくなったイタリアGPのモンツァサーキットでは、初期タイプのフロントラジエター仕様でこの年2回目の優勝を果たした。
1979年。。この年から加入した、ネルソン・ピケの速さと走らないブラバム初のウィングカーBT48に以前の情熱は薄れ、フォードエンジンに切り替えたBT49のデビュー戦のカナダGPの予選を最後に1度目の引退をし、副業で始めたラウダエアーに全精力を注ぐ事になった。既に、旅客機の操縦はしていたが、この後、ジャンボ機の機長もした。
1982年シーズン 新たにマクラーレンの代表となったロン・デニスに乞われて復帰。。自身3戦目までに優勝出来なかったら再び引退する気持ちで望んだが、見事にウィングカーMP4で優勝し、1984年に自身三度目のワールド・チャンピンになって、翌1985年をF1ドライバーとして最後のシーズンとした。
ラウダエアーは、この時にはオーストリアの航空会社として国営のオーストリア航空に肩を並べる位に大きな航空会社となった。
その後、例のタイ国内での墜落事故の影響もあったのか、先のライバル会社でもあった国営のオーストリア航空に売却し、現在は格安航空会社のニキエアーを立ち上げている。
ラウダと言えば、自分の年代的にはフェラーリとなるのだが、今ほどではないにしろ、チャンピオンチームを離れ、当時1流半に落ちていたブラバムに移籍しての最初のレースに”試験カー”に乗ってるこの写真が好きである。。「大丈夫かラウダ?」と心底思っていた。
「走るコンピューター」との呼び名も70年代らしいが、正しくその呼び名がピッタリだったと思う。ニキ・ラウダ選手は、誰かとクラッシュしたという記憶がなく、いつも沈着冷静に判断してレースを戦ってた気がする。。こう書くと、バトルが苦手だと思われがちだけど、競った時は必ずといって良いほど、気持ち良い位に”スパッ”と抜いていた。
同郷の天才レーサー、ヨッヘン・リントが亡くなった華奢なロータスの車には興味を示さなかったラウダ。。F1への入り方から浮ついた処がなく、自身で判断して、冷静に自分のキャリアを見てたのがよく判る。
70年代中盤、エマーソン・フィッティパルディ、ロニー・ピーターソン、クレイ・レガッツォーニ、マリオ・アンドレッティ、ジェームス・ハント・・・カリスマ性のある”レーサー”がひしめき合っていたが、ニキ・ラウダはその中でも図抜けたカリスマ性があったと思う。
<写真はtameo kits newsより>
Posted at 2011/08/16 00:25:11 | |
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