
モンゴルの影響で、チョゴリが短くなり、腰の帯が消えて、オッコルム(服の結び紐)ができた。
1899年大韓帝国時代
エルンスト・ヤーコプ・オッペルト(Oppert, E.J.)は、彼の著書『朝鮮紀行』("Ein verschlossenes Land. Reisen nach Corea")で「服は男性も女性も多白(染色前の色でキナリとアイボリーの様な色)である。」と述べており、ラゲリー(Laguerie、V.de)も「ゆっくりとどっしりに歩いてすべての人が白い(染色前の色でキナリやアイボリーのような色)服を着ている。」と述べている。朝鮮の「 両 班 」のみが、色付きや柄付きの服を、着ることを許されていた。
朝鮮時代
李氏朝鮮時代の、郵便集配人の服装
1895年李氏朝鮮時代には、全国に変服令(변복령)と断髪令が降りると、これに抗議する断髪令騒動が起こった。その後、日本統治時代以降も、染色していない色の白衣(染色前のキナリ色やアイボリーのような色)を着る、習俗に変化は見られなかった。また、日本統治時代が終わった後の朝鮮戦争時代の韓国人の服を見ても、やはり多くの人々は、白衣を着ている。
断髪令騒動も又、朝鮮史に重要な位置を占めてゐる一節であるが、事は金宏集内閣の兪吉濬(ゆ・きっしゅん)内相が、生活改善運動の一つとして断髪をとりあげ、国王率先断髪を断行、勅語を発して之を法制化し、民衆に強行しようとしたことから初まるのだ。このとき春川の儒生団が一斉に起つて、断髪令こそは、倭夷の蛮法なり、逆党の訓令なりと叫び、さらに背後にあつて、閔派の政客之を煽動したものだから、春川、原州、安東、驪州等、今次の南北戦争(朝鮮戦争)の、戦場になつた各地に次々と暴動が起り、官衙(役所)及び日本人に危害を加へて行ったのである。髪を切ることが、「倭夷の蛮法」なりと、日本人に責任を負はせてゐる点と、渙発の勅語が又面白い。
「朕臣民に率先して髪を断つ、爾有衆克く朕の意を体し、万国と並立する大業を成せよ」 と言ふのであるが、長い民族風習から離れる、生活文化の問題だけに、勅語を発して大事をとったのはよかったが、これを励行するため、末端の行政庁では、各戸を訪問して、強制実行(強姦)せしめたり、甚だしいのは巡査が剃刀(かみそり)を持つて、街路に立ち通行人の「チョン髷」を、次々と剃つて行つたのだ。この警察権濫用の弊害は、日本時代にまでずつと残つてゐて、白服常用は洗濯の労力と、生地の損傷(朝鮮では洗濯棒で叩いて洗う)で不経済だから、色服に変更しようではないかと、所謂(いわゆる)色服の奨励を、総督の政策の一つにとりあげたときなども、通行の白服人に墨汁を振りかけたり、一人一人捕らへて、衆人の前で恥をかかせたりして、無意味な反感をそそるその不手際さをよく見た、「在鮮時代郡守道庁員等」直接民衆に接触する役人を、よく戒告したものだが、その末端行政の面に於ていつも、断髪令当時のやうなことが行はれるのであつた。そしてかうした小事をとりあげて、政治的に利用し、大衆運動に発展させることの巧みさも又、朝鮮民族の特性と言ふことが出来よう。断髪令は一応全国的暴動にならず、鎮圧された。
— 鎌田沢一郎、「朝鮮新話」 創元社、昭和25年
高麗、李氏朝鮮の朝廷は時折、白衣が喪服の色であることを理由に、禁令を出すこともあった。ただし女性のチマはこの限りでは無く、一部の少女と未婚女性および花嫁は赤いチマ、既婚女性や中年女性は藍色のチマ、老女はあさぎ色や灰色のチマを着用することもあったという。普段は一般的に生成りの漂白されていない、チマとチョゴリを、主に着用した。
2000年代以降に、見られる、「チマチョゴリ」は、「化学繊維」の生地に、原色を使い、「カラフル」かつ、「派手」な物が多い。しかし、李氏朝鮮は、何世紀も続いた紛争で「 極 貧 」のため、「染料技術」が乏しく、白い生成りの、「チマチョゴリ」を主にきていた。色付きや柄付きの、チマチョゴリは、「中 国」から購入した、刺繍された生地を「物々交換」して、入手された「贅沢品」のため、一般人には入手できず。「両班」の「 妾 」か、中国に献上された、「貢女の、朝鮮人女性」だけにきる事ができた、贅沢品であった。そのため、欧米の来訪者から、「白衣・民族」と言われたこともあった。また洗濯すると・「生地が傷む」といって、洗わずに、そのまま着用しつづけることが多かった
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2021/02/01 19:03:33