
現在はm「日本100名城」に数えられていて、縄張り図(曲輪や堀、土塁などが記されたマップ)を持って、広大な城域を歩けば、大満足間違いないでしょう。マジでオススメです。
箕輪城
発掘調査の結果を受けて、復元された城門は、「長野業正」さんの時代より、30年以上後に、「井伊の赤鬼」こと、「井伊直政」によって、建てられたものが基になっています。
「 群馬県で? 井伊直政? 」という方も、いらっしゃると思います。
実は、天正18年(1590年)に滅亡した、北条家の替わりに関東に入った徳川家康が、上野(群馬県)の要衝である箕輪城に、井伊直政を派遣して大改築を行なっているんです。そして、徳川四天王の、さいだい禄高12万石(他は、10万石)でした。初代・「高崎藩」を起こしたましたた。
その後、彦根藩・18万石へ、転封となりました。 大規模な空堀や、一部残されている石垣などは、井伊直政の時代に、造られたものと言われています。
箕輪( 高崎藩 )
山内上杉家の重臣として
さてさて、この名城・箕輪城を居城とした長野業正さん。
生年は、延徳3年(1491年)、もしくは1499年(明応8年)と言われています。
あの織田信長は天文3年(1534年)生まれで、業正のライバルだった、武田信玄は大永元年(1521年)生まれですから、彼らと比べてめちゃくちゃ、“お爺ちゃん武将”なんです!
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実家の上野長野家は、先祖を辿ると、“美男子”の代表で、三十六歌仙”の一人である「在原業平」(平安時代の歌人)になるといいますが詳細は不明。
15世紀半ばから、グッと勢力を伸ばしていったようで、長野業正さんが生まれる頃には、「山内上杉家」の、重臣となったみたいです。
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山内上杉家という文字が目に入り、スッと読み進められるのは、かなり関東戦国史がお好きな方かと思います。
一般的には、こちらもよく知られてませんので、簡単に解説させていただきますと……。
もともと関東地方は、京都の足利将軍家から派遣された、足利一門がトップを務めていました。( 長男家は、群馬・新田家、次男家は、栃木・足利家 )
トップは、鎌倉に拠点を置かれ、役職名は「 鎌倉公方 」。
「公方」というのは「将軍」の意味なので、つまりは「関東の将軍」という意味合いです。
その、ナンバー2にあたるのが「上杉家」でした。
この上杉家が4家に別れて、それぞれ屋敷があった鎌倉の地名の名前で呼ばれるようになりました。
本家にあたるのが、「 山内 ・ 上杉家 」です。
他の分家3家は
「扇谷(おうぎがやつ)上杉家」
「犬懸上杉家」
「宅間上杉家」
です。
扇谷上杉家の家臣には、江戸城を築いたことなどで有名な、「太田道灌」がいますね。
Posted at 2021/02/03 21:34:14 | |
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