
大正11年生まれ(86歳)の父の戦中~戦後ログの続きです。
昭和18年10月に南方へ向かった父は敗戦をインドネシア・アンボン島で迎え、昭和21年に舞鶴港へ復員しました。敗戦から捕虜としてアンボンにずっといたのか、移動したのか聞きそびれています。
舞鶴から直接、就職先の神戸・山下汽船に向かいましたが、戦中の雇用がそのまま活きることはなく、8円の「退職金」を受け取り神戸を去る。実家は樺太なのでもはや帰ることはできません。幸運なことに10歳上の姉が、夫が結核で療養していた館山から山下汽船に送ってあった手紙をその場で受け取ることが出来、姉家族の居場所が分かり、千葉の館山へ。
館山食品へ就職し珍味?の販売をするも、生活は苦しく「今行ったら死んでしまう」という姉の制止を振り切って東京へ。親戚や学校時代の伝手を頼ってあらゆる事をやって生活。樺太から引き揚げて来た親戚・家族が、従兄の就職先の関係で埼玉県・浦和市に移住したため父も浦和へ・・・そして現在に至る(省略し過ぎ?)
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今夜(8/15)NHKで22:30から放映していたレイテ島の惨劇を取り上げた番組に登場していた生き残った日本兵(みな父と同じ世代)、アメリカ兵(同)、現地レイテ島で生活していた人々の話しを聞いていたら、その状況や作戦にはいろいろな解釈や流れがあるのだろうけれど、彼らの顔に刻まれたものを見ると、戦勝国、敗戦国、その舞台となった地域の人々、すべてに苦しみを与えるのが戦争だと思った。
先週末、幼稚な聞き取りを始め、また子供の頃から聞いていた南方での話もいくつかあるけれど、きっと話したくない、または話せない、または本当に忘れてしまった(記憶から消した)こともあるのかもしれない。
戦争が終わってアンボンにオーストラリア兵が上陸して捕虜になった時、怖くなかった?食事とか扱いはどうだったの?と父に問うと、オーストラリアから来た真っ白なパンが食べられた、戦争が終わって良かったと思った、と。
そして「戦争って不公平なもんだ」とも。自分たちは真っ白なパンが食べられたが、居る場所が異なれば悲惨を極めていた。「宇品で自分はインドネシア行きになったが、ニューギニアに向かった同期は戦地に着く前に死んでしまった、お前はこっち、お前はあっち、とただ決められるままに向かっただけ。」
「不公平」ということを考えれば、父が戦争に行ったのは最後の数年、18歳くらいからですが、10歳上であれば妻や子供を置いて出征、10歳下であったなら軍国少年として信じてきたものを敗戦と同時に失うショックを、また戦後の混乱で教育の機会を奪われた人、夫や父、家族を失った人、内地で命を落とした人々、それぞれに不公平であり、一様に不幸になるのが戦争と思いました。
※アルバムには父が外地に行ってからの写真は1枚もなく、陸軍経理学校時代の写真に続くアルバムの写真は昭和23年からでした。当時の東京・国立駅を写した小さなプリントの横には、ワンピースを着た結婚前の母が父の母校の正門前に立つ写真が。父はどうやら母校を見せに連れて行ったようだ。昭和25年7月にゴールインしましたが、私がこの世に生まれるのはまだ10年ほど先で~す。
【付記】 写真の背景に見える三角屋根は2006年に取り壊された
旧駅舎のように見えますが、どうかな? 「国立」と言う地名は「国分寺」と「立川」の間に出来たから、とは分かりやすいですね~。今は国分寺の前に西国分寺と言う駅が出来て、写真の← →とは違います。
Posted at 2008/08/16 00:57:15 | |
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