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2019年08月30日 イイね!

許可が下りましたが

許可が下りましたがオートエクゼのオイルレベルゲージグリップの購入許可が下りましたがAタイプは現在欠品で9月下旬になるそうです。
残念、また今度だそうです、(;´д`)トホホです。

Posted at 2019/08/30 05:35:47 | コメント(0) | トラックバック(0) | 日記
2019年08月29日 イイね!

大陸製の頼んでいたもの到着

大陸製の頼んでいたもの到着ホイールリムステッカー 夜間反射 PVC /18インチ 、
及び
GZYF 車用 サイドミラー カバー 高品質 リアルカーボン調 CX-3 2016-2018
大陸製ですが意外と早く到着しました。
合うか合わぬか試してみないとわかりませんが一見して感じる事は、製品の傷や指紋等がいっぱいついていますね、通関でばらされるのはしかたありませんが見るだけでお願いしたいですね。
Posted at 2019/08/29 23:09:27 | コメント(0) | トラックバック(0) | 日記
2019年08月27日 イイね!

元町ウチキパンでお買い物。

元町ウチキパンでお買い物。今日は我が家の定番フルーツブレッド!
数種類のドライフルーツが練り込み焼き上げたブレッド
イギリスではお母さんのパンです。
美味しいよコレ。





以下の文章は、3代目社長 打木吉則の手記を転記したものです。
歴史家でない為、文章の不備、間違え等ご指摘のある場合は、お手数ですが
E-mail: info@uchikipan.com まで、ご連絡いただけるとありがたいです。

食パンの元祖
ヨコハマベーカリー宇千喜商店
パンの元祖とは以下の通りである。

種 類 始 祖 店 名 場 所 時 期
兵糧パン
(ビスケット) 江川太郎左衛門   伊豆韮山 1842
大型型焼食パン ロバートクラーク ヨコハマベーカリー 横浜市中区山下町129 1862
フランスパン 内海 各蔵 冨田屋 横浜市中区北仲通1丁目 1866
あんぱん 木村安衛兵 木村屋 東京 銀座 1869
クリームパン 相馬 愛蔵 中村屋 東京 新宿 1901
2010年9月30日 ご指摘いただきました。

上記の種類別に記したものより
現代のパン食文化の発祥地との視点からみると
日本人のパン屋の元祖は 1860年 内海兵吉パン製造開始説 が正しい。
参考文献:
横浜開港資料館『横浜もののはじめ考』斎藤多喜夫著「パン」(1988年)(P50~51)
内海孝著『横浜開港と境域文化』(2007年)の「内海兵吉の横浜開港とパン製造業」(P6~29)
読売新聞横浜版 宮本俊一「開港場物語」(2007年9月23日)

パンの本流は大型イギリス風山型及び角型食パンであり、
その日本の元祖はイギリス人クラークのヨコハマベーカリーであり
その衣鉢をひきつぐものはヨコハマベーカリー宇千喜商店であり
現在のウチキパン株式会社である。
この食パンの発祥地が横浜だと言うことは、
横浜が現代のパン食文化の発祥地だと言うことでもある。
開港の1859年から明治元年1868年までの9年間に、
横浜に渡来して正式に居留手続きをとった外国人は298人で以下の通りである。



イギリス人 193人
アメリカ人  51人
オランダ人  19人
フランス人  16人
ドイツ・スイス・ポルトガル 若干人

これが外人居留地制度が撤廃された明治32年1899年には、
3000家族約7000人になっていた。
この他に出船入船の船員や旅行者、外国籍の東洋人、イギリスやフランスの駐屯兵も
横浜に常駐していた。
そうなると当然のことながら外人の常食として
一日も欠くことのできないパンを売る商売も必要となってきた。
現在のウチキパンの前身である
日本の食パンの元祖ヨコハマベーカリーの経営者ロバートクラークが
イギリスから横浜にやって来たのは文久2年1862年である。
当時はイギリスとアメリカが有力でフランスはまだ頭角をあらわしていなかった。
従ってこのような点から、横浜では先ず優位に立ったのがイギリスパンであり、
その経営に乗り出したのがヨコハマベーカリーのクラークである。
当時横浜にあったパン屋は下の4店であり、
いずれも外人経営者で居留地の山下町にあった。



ヨコハマベーカリー パン専門店 イギリス人
レンクロフォード 食料品 雑貨 兼業 アメリカ人
デンティース 下宿屋 兼業 イタリア人
パルメス 不明 イタリア人

パルメス、レンクロフォード共に明治30年頃廃業。
やがてデンティースもヨコハマベーカリーに凌駕され廃業。
3軒の異人ベーカリーがヨコハマベーカリーを抜くことが出来なかったのは
相当の理由があった。
 第1は明治政府が日本の近代化を促進するために雇い入れた
外国人の大多数がイギリス人だったことである。
これらのイギリス人が全てメシを食べないでパン食生活を続けた関係上
イギリス風の大型型焼食パンが自然に勢いを得た。
 第2の理由は大型型焼食パンがおいしかったことである。
このパンは舶来の上等粉でないと絶対作れない。
当時の日本人はパンを一種の珍奇食品扱いにしていたのだから、
どうせ食べるなら上等のものがよいとなる。
また当時の日本人はパンの肉質だけを食べて皮部を捨てると言う食べ方をした。
従って品質の劣る国産小麦でも造ることが出来る
小型でかつお節型のフランスパンは火がよく通るため
皮部が厚いから日本人の嗜好に会わないことになる。
 第3の理由は日英貿易の成長発展に日本政府の親英政策が加わり、
イギリス国籍のロバートクラークのヨコハマベーカリーが
同業中のピカいちとして地歩をかためやすかったことである。
 第4の理由は徳川幕府はフランスの指導援助によって軍を近代化したが
明治新政府がイギリスによる事に決めた事である。
軍は兵食としてパン食を採用することになるが、
海軍の場合港がある横浜にパンを発注することになる。
そして、イギリスの軍事教官によって指導されるのだから
英国人のロバートクラークのヨコハマベーカリーが優位を占めることにならざるを得ない。
これで分かるように横浜がパンの本場であり
ヨコハマベーカリーが横浜を代表するイギリスパンの総本山であったのである。
パンは発酵により造られる。
現在は空気中から人工的に純粋に培養したイースト菌を使用するが、
当時は各パン屋がその店独特の技術で編み出したパン種をもとに
空気中の乳酸菌によりできた乳酸を作用させて造られた。
乳酸は発酵に有害な他の雑菌をおさえ発酵を促進するのであるが、
乳酸が強すぎるとできたパンが酸っぱくて食べられない。
これをおさえ美味なパンを造るのに必要なのがビールの製造に欠かせないホップである。
ホップを用いて造るパン種はロバ ートクラークが本国より持ってきたもので
ホップを持っているヨコハマベーカリーの技術の秘密は注目の的だったのである。
イギリス人のダブリュウコウブランドが
山手の天沼に明治5年1872年にビール醸造所をつくった。
後のキリンビールである。
ビールは他につくるものがないため競争相手のできる心配がないので
ビール会社はパン屋が望むままにホップをわけた。
かくて他のパン屋もホップを用いたパン種を使えるようになったが、
各パン屋は独特の努力で造り出したパン種の秘密を外部に漏らすことを極端に警戒した。
それだけに種造りの奥義を盗むための努力は精力的に競争相手により続けられたのである。ウチキパンの初代 打木彦太郎は、横浜市南区中村町の大地主の倅であったが
文明開化の時勢に乗り遅れないようにと、
明治11年(1878年)14歳の時、ヨコハマベーカリーにパン見習工として住み込んだ。
彦太郎は入社するとすぐ技術を覚える機会が与えられたわけではない。
ヨコハマベーカリーの技術者として一人前になるのは実に大変なことだったのである。
一生懸命につとめ、十年経ち、
やっと、ロバートクラークの片腕と頼まれる技術者となったのである。
 日本におけるイギリスパンの開祖クラークがヨコハマベーカリーの暖簾を
若干24歳の青年彦太郎に譲り引退したのは、明治21年(1888年)の正月であった。
彦太郎はヨコハマベーカリーの店のあった山下町から、
堀を隔てた元町1-50に店を開業したのが同年3月である。
現在もウチキパン株式会社本社の所在地である。
 横浜第一、いや日本一のヨコハマベーカリーの暖簾を傷つけてはならないという
大きな責任を背負わされたのだから、彦太郎の気苦労と努力は
想像を絶するものだったと思われる。
彼は誠実と技術をモットーとして、一歩一歩、地を固めていった。
 彦太郎の時代になってからのヨコハマベーカリーで造っていたパンは
クラーク直伝のイギリス型食パン、フランスパン、ブラウンブレッド、グラハムブレッド、
バターロール、グロー(フランスの軍隊ようで一個の目方が1.5㎏もあり
一人に一日分として渡した)等であったが、
本命はやはりイギリス型の山形食パンであった。
ホップ種の生地を石釜で焼いた食パンくらい美味しいものはない。
 ところが此のホップ種でおいしい食パンを焼くということは大変難しいことだった。
明治時代のパンを一般人はスパンと呼んだという話があるが、
それは当時のぱんがいかに不出来な酸っぱいものが多かったかを物語るものである。
 同業者が増えるにつれ彦太郎はヨコハマベーカリーと横浜ベーカリーと混同され易いので
適当な機会に屋号を改訂したいと考えた。
が、クラークが25年間に亘って築き上げたヨコハマベーカリーの屋号に対する信頼感が
予想以上に大きいので下手に改名するとマイナスになると考え
ヨコハマベーカリー宇千喜商店という和洋折衷の屋号にしたのが明治32年である。
 この頃のヨコハマベーカリー宇千喜商店のお客様は、
居留地の外国人、外国の軍艦船舶、鎌倉、大磯及び東京方面の外国人やホテル等が
主なところだった。
 当時東洋一を誇っていた精養軒なども宇千喜商店のパンを愛用していた。
 日清日露の戦争の時、陸軍の御用商人となり、特に日露戦争の時は軍納の
乾パン製造を一手に引き受けた。
Posted at 2019/08/27 10:45:20 | コメント(0) | トラックバック(0) | 日記
2019年08月26日 イイね!

今年も高級魚、さんまも食べられない。

今年も高級魚、さんまも食べられない。サンマの棒受け網漁で主力となる大型漁船(100トン以上)約40隻が26日、北海道根室市の花咲港に戻り、約500トンを初水揚げした。北太平洋の公海にまで出ての操業となったが、船長の一人は港で「我々の漁船1隻で8トンしか取れなかった。これからが心配」と嘆いた。

 魚体も小さく、午前7時からの競りでは1キロ・グラムあたりの最高値が594円と、前年の680円から値下がり。根室市内の鮮魚店では、1匹180円で店頭に並んだ。
Posted at 2019/08/26 13:48:44 | コメント(0) | トラックバック(0) | 日記
2019年08月25日 イイね!

ヒマワリ200万本見ごろ 例年より開花遅め 福島・三ノ倉高原

ヒマワリ200万本見ごろ 例年より開花遅め 福島・三ノ倉高原
福島県喜多方市の三ノ倉高原で、約6ヘクタールの敷地に植えられたヒマワリ200万本が見ごろを迎えている。

 東日本大震災後、人々を元気づけようと市が植え、毎年多くの観光客でにぎわう。24日は晴天の下、記念撮影を楽しむ家族連れなどで混雑した。

 今年は7月の日照不足の影響で開花時期が例年より1週間ほど遅れている。市によると、4区画あるうちの3区画は既に満開を迎えたが、残りの1区画は今月いっぱい楽しめるという。
Posted at 2019/08/25 19:35:39 | コメント(0) | トラックバック(0) | 日記

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