
まだ故郷で生活していたころ、私にとって春は始まりの季節であった。
生き物好きな子どもだった私にとっては、賑やかな夏に向かってすべてが動き始める一年の始まりであり、同時に最も心躍る季節であった。
まだ霜も盛んに降りるころ蕗の薹が先陣を切ると、3月には原っぱを覆うオオイヌノフグリ。ナナホシテントウも動き出し、緑と青に赤を添える。
── そういえば、ナミテントウの中でもなぜかいつもナナホシテントウが春一番乗りであった。※ナナホシテントウとナミテントウは別種でしたので訂正します。4月には田んぼに水が入り、田植えが終われば夏の足音が聞こえてくる。
そうした小さな春の積み重ねを見つけていくのはこの上なく楽しく、そして今考えればとても贅沢なことであったと思う。大人になってしまった今となっては、普段は会社と自宅の往復だけで春を感じるすべはあまり多くない。気温の変化以外で何か感じられることと言えば、桜の開花と食料品店の品ぞろえの変化くらいだろうか。季節感の乏しい生活のせいか、社会人になってからはいつも、季節を感じることを求めている。
そんな季節感の渇きを潤そうと、今年のGW後半は里山の春を求めて新潟県魚沼地方を訪れた。数か月前のNHKスペシャル「新・映像詩 里山(1)新潟の棚田 豪雪と生きる」の映像がとても綺麗で、近いうちに訪れたいと思っていたところに、先月、妻に今年のGWの希望を聞いたところ、山菜料理を満喫したいという。今回の目的地はもはや検討するまでもなく自然と決定していた。
下北半島釣り旅行の疲れがまだ残る5月5日早朝、自宅を出発。GW真っ只中ということで高速道路の大渋滞を覚悟していたが、中途半端なタイミングの下りのせいか特に渋滞もなく関東圏を突破し新潟県入りした。
関越道は拍子抜けするほど空いていました。
今年の関東は4月の下旬には夏日を記録するようになり、今ではもう初夏の足音も聞こえてきそうな晩春の装い。これが水上あたりから新潟県境に差し掛かると一変する。遠くの山々はまだ雪を頂いていて、人里の緑も色が薄くようやく春本番といった具合だ。新潟県に入ってもそれは同じで、魚野川に沿って広がる水田はまだ水を張っていないところも多い。
そんなのどかな風景を眺めながら、高速道路を退出予定の小出ICに到達する。普段ならば一般道はなるべく変な道を選んで走るところだが、初日の昼食は「越後長野温泉 嵐渓荘」の山菜満彩コースを予約してある。山菜料理は妻の希望であり、旅行中の平和のためにも遅らせるわけにはいかない。大人しくナビに従う。
がしかし、ほどなくしてこんなフォトスポットを見つけてしまったので思わず寄り道してしまった。
残雪と桜。
春は恋の季節。花の合間でオスの熊蜂がメスを待っています。
隣の田んぼではカエルが盛んに鳴いていて、景色だけでなく音も持って帰りたいくらいだ。桜だけじゃなく、カエルの合唱も、熊蜂の羽音も、優しい陽光も、田んぼの香りも、どれもが心地よい春のひと時。
なお、ここはグーグルマップにも載っていなかったスポットで、国道252号線を走っていると突然満開の桜が見えてきて、駐車スペースと思しき空き地には「ご自由にお入りください」と看板が立っていた。ということでお言葉に甘えさせていただいたのである。地元の方も観光客も混まない程度にぽつぽつと訪れ、みな思い思いに春を楽しんでいた。今回も素晴らしい旅の始まり。土地の持ち主の方に感謝いたします。
このあと長閑な田舎道をしばらく走れば嵐渓荘に到着する。嵐渓荘は昭和初期の3階建て木造建築を移築した旅館で、国の有形文化財に登録されているそうだ。コース料理は部屋の予約とセットになっており、その文化財の中で食事を堪能できる。
嵐渓荘の駐車場から。
こちらの建物が重要文化財登録されています。もとは三条にあった御屋敷だそうです。
お料理はどれも素晴らしいもので、月並みではあるが里山の滋味あふれる、といった表現がぴったり合う。華やかな感じではないけど、とても優しい味。こんな料理、子どもの頃は大嫌いだったのに、わざわざ予約までして食べに出向くなんて歳を食ったなあと思う。
今回はだいぶ奮発してこの山菜コースをお願いしたが、道中地元の方が山菜取りをしているところを何度も見かけたから、地元の方々はこんなお料理を普段から食べているのかもしれない。地方の食は豊かだ。
あけびの新芽の巣ごもり。あけびの苦みと卵黄のまろやかさがよく合います。
山菜の炊き込みご飯。薬味には刻みこしあぶらを使うそう。何とぜいたくなのでしょう。こしあぶらは生ですので、炊き込みご飯に爽やかな苦みと香りが加わります。とても上等な薬味だと思いました。
山菜を満喫した後は今晩のお宿に向かう。
今回の旅は2泊3日で、本日のお宿は十日町市の松之山温泉、明日は南魚沼市の山間のお宿だ。せっかくこちらまで来たので、松之山温泉へは少し遠回りして旧山古志村を経由することにした。
真ん中の木籠メモリアルパークのあたりが旧山古志村です。
国道290号線沿い。
まだ旧山古志村には至らないこの辺りは、長閑で懐かしい感じのする田園地帯。
旧山古志村域に入ると途端に道が細くなります。
運転に自信がない人はやめておいた方がいいかも。
山古志の棚田には残雪が。山間なので気温が低いのでしょう。
コシヒカリと並ぶ山古志の名産品、錦鯉が養殖されていました。
山古志の南側は中越地震の傷跡が未だに残っていました。写真では分かり難いですが、土砂崩れによる土砂の流入でダム化してしまった川を整備したもの。
山古志から降りてきて魚野川沿いの越後堀之内の街に入っても、すぐにまた山地に入っていく。そのあと同じように信濃川沿いの十日町の街に入っても、やっぱりすぐにまた山地に入っていく。この地方の地勢は、基本は山地から成っているようだ。山地と言っても険しいわけではないから、そこかしこに里山と棚田が広がる。そんな長閑な景色を楽しみながら今晩のお宿へ到着。松之山温泉は山間の静かな温泉地だった。
晩ご飯も山菜がたくさん。ビールは豪雪ペールエール。
旅先では良くお酒を飲みます。
このあたり(妻有:つまりというらしい)も酒どころみたいですね。
翌朝は頑張って早起きして朝食前に里山の撮影。GW前半の寝不足はまだまだ解消されないが、田んぼを綺麗にとるためには、水面が綺麗に写る太陽が低い時間は外せない。
儀明の棚田。あとで気づきましたが「新・映像詩 里山(1)新潟の棚田 豪雪と生きる」にも雪解けのカットで登場しています。
松之山温泉からほど近くの集落にて。
このあたりで気づいたのだが、魚沼地方の山間の田んぼというのは集落と合体しているところが多い。これはあくまで私の故郷である千葉県の常識ではあるが、田んぼの周辺というのは地盤が安定しないので住宅には向かず、古い農家の家は丘の上か谷津田の端の森の際に多く位置している。しかしこの辺りは田んぼと家が隣り合っていて、とても美しい里山を形作っている。山地を切り開いた場所なので地盤が安定している?
同じく松之山温泉からほど近くの集落。
高低差があるから散居村とはまた違ったかたち。
さて、この魚沼地方は日本有数の米どころであることは周知のところ。米どころと言えばわが故郷千葉県も米どころであり、日本でも上位の生産量を誇るが、水田の多くは利根川沿いや九十九里といった平野部に大規模に広がっていて、そのほかは印旛沼や椿海一帯などの干拓地と丘陵地帯周縁の谷津田といった具合で、ここ十日町市や昨日の旧山古志村に代表される山地を切り開いた水田というのはほとんどない。一説によれば、美味しいお米の生育にはこの雪国の山地を切り開いた棚田というのが重要で、雪解け水と山の豊富なミネラル、山間の地の寒暖差がその美味しさを生み出すという。
したがって、魚沼産コシヒカリの生産量自体はそう多くは無いようで、年によって差はあるが新潟県産おおよそ65万トンのち2~3万トンしかないそうだ。千葉と魚沼、同じ米どころでも、地形にしろ生産量にしろ、その性格は大きく異なる。
適当に写真を撮ったら宿に戻って朝食、そしてチェックアウト。中日は特にやることが無いので、このあたりのぶらぶらしたら早めに2泊目の宿にチェックイン予定。
有名な星峠の棚田にも行きました。
カタクリの群生。このあたりはどこへ行っても何かしらの山菜があります。豊かなところです。ちなみに棚田への道中では、道端でたくさんの蕨を茹でていました。
山うど。
これはイタドリだと思います(食べられます)。
美人林にも行きました。
魚沼スカイラインは数百メートルだけ開通していました。
今日のお昼ごはんは、「うおぬま倉友農園 おにぎり屋」で買ったおにぎりで軽めに。魚沼スカイラインの見晴らしをおかずにいただきます。
今晩のお宿は16時に周辺のお散歩の案内をしてくれるそうなので、15時過ぎにはチェックイン。すかさずお散歩に参加し、宿の周りの農道を歩く。宿のスタッフの方からこの地方に関するお話をいろいろ聞くことが出来た。
この辺りでは、雪が深いため春が長く続くという。どういうことかというと、日当たりの良いところは早めに雪が解けてどんどん植物が成長する。一方で陽の当たり難いところや雪が貯まりやすいところは5月まで雪が残り、その下にある植物の芽吹きも遅いんだとか。だから、例えばGWでもまだ出てきたばかりの蕗の薹もあるし、もう綿毛を飛ばしている蕗の薹もある(そもそも蕗の薹は綿毛で種を飛ばすことに今更気づいた)。一斉に訪れる関東平野の春と違って、このあたりの春は同じ場所でもほんの少しの違いによって時間差で訪れる。なんだか不思議な感じだ。
星峠の棚田で撮ったものですが蕗の薹の綿毛。
同じ星峠の蕗の薹。数百メートルしか離れていないのにまだ花が咲いています。ちなみに私の故郷では蕗の薹と言えば蕾の状態で食べるものでしたが、この地方では花が咲いたくらいが食べごろみたいです。
お散歩コースにあったこごみ。これは開きすぎですが、もちろん場所によっては食べごろのものも沢山あるそうです。どの山菜も長く楽しめそうです。
夜ご飯にはやっぱり山菜がたくさん出てきました。
さて5月7日の最終日。今日は空気が澄んでいるみたいだ。向かい側の巻機山や八海山がはっきりと見える。適当に朝風呂したらチェックアウトして、昨日も寄った魚沼スカイラインでもういちど写真を撮ろう。
スカイラインへの道中。麓は水田に水を張り始めています。
スカイラインへの登り口。場所によっては水田がまだ雪に埋もれています。
魚沼地方はどこへ行っても春色のコントラストに包まれていました。
澄んだ青空、芽吹いたばかりの優しい緑、暖かな土色、そして冬の名残である白。
あまりこちらに長居すると渋滞に巻き込まれそうなので、写真を撮ったあと少し買い物したら帰路へ就く。道の駅クロス10十日町で山菜を買って明日の食事に備え、田んぼのなかのお菓子屋さん(そのまま正式名称)では手作りクッキーを買って渋滞の退屈に備えた。
結局、高速道路はすごく空いていて、さしたるロスなく帰宅できてしまった。なんだかんだ言ってGWの混雑に巻き込まれたのは、前半の釣り旅行の初日朝の喜多方ラーメンだけで、なんかものすごく得した気分だ。
宿のスタッフの方のお話に戻るが、魚沼地方は雪に閉ざされる期間が長いため、かつては雪が解ければすぐに次の冬越しの準備に入っていたとか。塩蔵、雪室、発酵食品、長い冬をいかに食いつなぐかが1年のサイクルの中での最重要課題だったそうだから、春の訪れというのは喜びを通り越して、もはや安堵だったかもしれない。
春から秋にかけて、この地方には長い冬を越せるだけの豊かな実りがあったということになるが、現代日本においては「冬を食いつなぐ」なんてことにはならないから、豊かな実りはそのまま名産品や郷土料理に姿を変え、人々を楽しませる。魚沼地方は豊かなのだ。
魚沼地方の里山の春はとても濃密で、五感すべてにその豊かさを訴えてきた。三日間を通してそれを存分に満喫できた今回の小旅行は、本当に贅沢なものであったと思う。
了