
今回の出張&城巡りも最後の田辺城となりました。
LAWSON宮津由良店から20分ほどで舞鶴市営南田辺駐車場に到着です。
撮影ポイントは舞鶴警察署です💦
【田辺城】(別名舞鶴城ぶかくじょう)
田辺城は1582年細川藤孝(細川幽斎)が築城しました。
1578年(天正6年)織田信長の命によって守護大名の一色義道を滅ぼし、丹後を制圧した長岡藤孝(幽斎)は、はじめは宮津城を居城としたが、京都に近く交通の要所であった旧丹後守護所の加佐郡八田に、地名を田辺と改めた上で田辺城を築き、経営の中心とした。隠居後は、子の忠興を入城させた。(Wikipediaより)
安倍龍太郎さんの関ヶ原連判状を読んでから来たかった城です。
細川藤孝は一色氏に敗退しながら明智光秀の加勢によって、丹後南半国を平定し宮津城を居城としました。
藤孝は、本能寺の変後に明智光秀の援軍要請に従わず、信長に殉じて出家してしまいました。
幽斎は千利休らと共に秀吉側近の文化人として寵遇された。秀吉が死去後すると、家康に接近した。
田辺城の戦い(たなべじょうのたたかい)は、慶長5年7月19日(1600年8月27日) から9月6日(10月12日)にかけて、丹後田辺城(現在の京都府舞鶴市)をめぐり起こった戦い。広義の関ヶ原の戦いの一環として戦われ、丹波福知山城主小野木重次、同亀岡城主前田茂勝らの西軍が、田辺城に籠城する細川幽斎・細川幸隆(東軍)を攻めた。
忠興が家康の会津征伐に丹後から細川家の軍勢を引きつれて参加したため、幽斎は三男の細川幸隆と共に500に満たない手勢で丹後田辺城に籠城する。
西軍には幽斎の弟子もいて戦意は高くなかったため、長期戦になった。
後陽成天皇は幽斎の討ち死にと古今伝授の断絶を恐れて、勅命による講和を命ずるに至った。
講和は、関ヶ原の2日前に結ばれました。
西軍の勝利となったが、丹波・但馬の西軍1万5000はこの間、田辺城に釘付けにされ、開城から2日後の関ヶ原の戦い本戦には間に合わなかった。
古今伝授遺跡の石碑

子供の遊具は他にもありました。

旧田辺城天守台
彰古館
彰古館
復元された城門の2階が田辺城資料観光となっています。
田辺城の発掘調査の資料も掲載されていました。
滞在時間は50分ほどでした。
城下町の風情を感じさせる、古いお寺や神社が数多く、改めて訪れたい町でした。
充実した1泊2日の城巡りでした。
高速の手前で10Lだけ給油しましたが、ハイオク200円/L😢
気が緩んだというわけではありませんが、京都縦貫自動車道に乗るべきところを、舞鶴から敦賀に向かう高速道路に乗ってしまいました。みち旅の周遊パスは小浜で切れてしまいます。
やっちゃいました。
まぁ、少し高くつきますが、違う景色を見て走るのは悪くないです。
路面が良ければ、ミシュランパイロットスポーツは、静かで快適です。
出張&城巡り1泊2日をご覧いただいた方々、ありがとうございました🙇♂️
Posted at 2025/04/19 15:41:24 | |
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