小生の、人生、第3台目のクルマです。
U.K.から帰国後、横浜は港北ニュータウンに住んでいた頃のクルマです。
当時の港北ニュータウンは、バブルの崩壊の影響激しく、バブル時にラッシュで建設されたオクションと呼ばれる高級マンション(当時)が多数売れ残って、まるで、灯りの消えた街の様相を呈していました。
小生は、そのマンション郡の新横浜寄り、まだ活気はある、横浜市営地下鉄仲町台駅近くの賃貸に入ってました。
その頃のクルマです。
そのセクシーで美しいデザイン、まるで欧州車、中でもイタリア車にも通じる姿を見て、イッパツでやられてしまいました。
クーペ並みの低いボディ、美しいプロポーションと豊かな曲面で構成されたスタイリングは、現有の我が8S TTにも通じる、曲線使いの美しさを感じます。
1992年デビューで、買ったのは93年だったと思いますが、今、このデザインのクルマがデビューしても全然オカシサを感じないし、遥か先の時代を先取りしてたと思います。
写真は、当時もあった富士サファリパークに家族で行ったときのものです。(今ではほぼ見かけることもなくなった2ケタの、横浜ナンバーですネ。写真右の背景は判り難いですが富士山、また息子が運転席に座っているの、かろうじて判りますかネ。)
このクルマ、昔の5ナンバーサイズ目一杯のDセグメント4ドアサルーンで、小生のクルマのグレードは、20F(2.0L、4速AT)でしたが、下のグレードの1.8Lモデルともに、なんとV6エンジンを積んでました。
小排気量にV6搭載なんて、当時ちょっとしたショックでした。
現代でも、V6は3L以上でしか、なかなか考えられないですよネ。
このクルマもバブルの残り香超満載で、当時、普及し始めのキーレスが標準装備だったり、そういえば電動ガラスサンルーフも標準でした。
そうそう、国産車が当然として身に纏っていた、ドアウィンドバイザーもその美形を損ねないよう取っ払われてました。
また、このクルマ、10年品質のブランド理念の下に企画されたクルマで、ベースはマツダカペラでしたが、外板塗装は、漆塗り?鏡面仕上げ?だったかを再現するためマツダが開発し、特許取得した、「高機能ハイレフコート塗装」を採用してました。
このハイレフコート、ペイントの艶が10年保つことを前提に、塗装は通常焼付け3回、その後、車体を回転させながら4回目の焼付けをして、最上面クリア層をムラ無く厚く塗った、とカタログで誇らしくアッピールしていたのを覚えています。
このクルマの前の独身時代のスパルタンなランタボから、結婚して子供もでき、ファミリー寄りのATにシフトするなんて考えもしてませんでしたが、
とにもかくにも、スタイルに惚れたこのクルマが、小生のその後の欧州車好きを決定付けました。
なんせ、カロッツェリアの巨匠、ジウジアーロをして「小型クラスでは世界で最も美しいサルーン」、「市販車メーカーがこんなクルマを出してしまうと、我々カロッツェリアの仕事はなくなってしまう」とまで言わしめたクルマで、アルファロメオ156のデザインに影響を与えたとも。
小生、U.K.の後も、次の海外赴任先としてイタリアはトリノに在住しており、その時は、156も良かったのですが、デザイン的には流れを汲む147をチョイスしてます。(このクルマはまた別のエントリにて)
このように、欧州人の感性を大いに刺激するデザインでしたが、エンブレムの意匠はナント十二単の襟。
マイカーでありながら、小生は長い間、ナンで"V"が重なったデザインなんだろと思ってました。
大満足のクルマでしたが、U.K.転勤に伴い、手放さざるを得ませんでした。
(実は、U.K.からの帰任後も、次のクルマまでの短い期間のツナギとして、もう1台、中古で買っているのですが)
ただ、正直にマイナスポイントも指摘しておかなければ、公平ではありません。
このクルマの弱点だと思ったことも書いておきます。
・走行系 ー ハイテンションケーブル(現代の車ではほぼ付いてません)のプラグキャップにピンホールが発生し、電流リーク。これによりアイドリング不安定となり、ブレーキを踏んでいても、クリープ以上の駆動力が発生、ブレーキが負け、動き出そうとする。
これは、致命的欠陥。原因は、エンジンルーム内の高熱。当時のマツダ車は、ロードスター含めエンジンルーム内の熱を逃がす設計がヘタクソ。 横浜市営地下鉄センター北駅近くだったかのディーラでも認めていた。
この不具合は、マイナーでハイテンション強化品に変更され、改善。
小生は、ワイヤハーネスメーカーにツテあり、本件情報と当該部品を取寄せ、自分で換えることもできた(ディストリビューに差し替えるだけ。この機能パーツも現代の車にはホボない)が、ディーラに持ち込み、無償交換してもらった。
・内装系 ー ドア内張りが、ドアハンドル周りから徐々にめくれて来た。 何度もディーラに持ち込み修復を試みたが、直すハナからまためくれ、ディーラもこれ以上はもうムリです、とお手上げ状態だった。
・灯火系 ー 当時は、ヘッドライトはまだ、HIDもなく、ましてやLEDやレーザーなんて市販車採用はまだまだ研究レベル。シールドビームからようやくハロゲンに切替が終わった頃で、デザインと先進性を求めた結果、プロジェクタレンズにハロゲン球の組合せで、まったく持って暗かった。(ハロゲンの明るさを殺いでいた)
でも、これぐらい、アトから思えば、その後に経験するイタリア車(アルファ)のことを考えれば、ゼンゼン不思議に感じないのは、クルマの魅力は壊れないことだけではない、と教えてくれた一台でした。
Posted at 2019/07/12 18:17:21 | |
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