自民党安部総裁が靖国を参拝した。
日本国の為に命を散らし、その尊い
魂が未来永劫に祀られる場所に。
戦争を美化するつもりも、それを讃える訳でもない。
A級戦犯を庇護する訳でも戦争を正当化するつもりも無い!
靖国に眠る英霊たちは、命を掛けて戦ったのだ。
それは殺し殺される為ではなく、大事なものを守るため
ただそれだけだったと思う。
靖国は戦争という愚かな行為で失われた尊い人命が
英霊となり静かに眠る場所である。
誰に何を言われても譲るべきでないことはある!
欧米列強の支配の下に置かれたアジア諸国を開放すべく
大東亜共栄圏という権利を認めさせるべく起こした行動を
捻じ曲げた歴史認識で自国のナショナリズムを煽る
韓国や中国などに対する気遣いなど必要ない!
胸を張って感謝の気持ちで靖国神社に参拝しましょう!
鹿児島に特攻隊で有名な
知覧特攻平和会館がある。
特攻隊員として散っていった1036名の方の遺影と
関連した遺書や遺品が、散っていかれた順に飾られている。
機会があれば一度足を運んでみてください。
日本人としての価値観が変わります。
日本人として流れる涙をとめることは出来ません。
誰かに感謝して生きるということが出来るようになります。
中でも有名な人物が「藤井一中尉」です。
藤井中尉は茨城県の農家に生まれた。7人兄弟の長男でした。
陸軍に志願し、歩兵となったが、特別に優秀であったため転科して
陸軍航空士官学校に入校しました。
卒業後、熊谷陸軍飛行学校に赴任し、中隊長として少年飛行兵に
精神訓育を行っていました。
精神訓育は生徒達に軍人精神をたたき込むことも重要な狙いでしたので
藤井中尉は特攻作戦が実施される前から「事あらば敵陣に あるいは
敵艦に自爆せよ、中隊長もかならず行く」と繰り返し言っていました。
その後、現実として特攻作戦が開始され、自分の教え子たちが教えのとおり
特攻出撃していく事となってしまった訳です…。
あの純粋な教え子たちが次から次へと特攻出撃していく中、責任感が
強く熱血漢であった藤井中尉は自分だけが安全な任務をしていることに
堪えられなかったのでしょう。
なんと藤井中尉は教え子たちとの約束を果たすべく自らも特攻に
志願したのです。
しかし、妻と幼子二人をかかえ、学校でも重要な職務を担当しており
パイロットでもなかった藤井中尉には、当然、志願が受け入れられる
はずもありませんでした。
しかし、藤井中尉は生徒達との約束を守るため、軍上層部から断られた
にもかかわらず2度も特攻に志願しました。
●悲劇
藤井中尉の妻、福子さんは高崎の商家に生まれ、お嬢さんとして育った
そうです。
戦争中は野戦看護婦として活躍していて、そもそも藤井中尉との出会いは
中国で負傷した藤井中尉の世話をしたのが福子さんであったということ
だそうです。
このような馴れ初めである。福子さんは当然、藤井中尉の性格や考えが
十分過ぎるほどわかっていたのではないでしょうか?
しかし、わかっているからといって特攻志願することに納得できるものでは
無く、福子さんは夫を説得しようと必死だったそうです。しかし、藤井中尉の
決意は最後まで 変わりませんでした。
そんな夫の決意を知った福子さんは、二人の幼子を連れて飛行学校の近くに
ある荒川に夫の決意を貫徹させる為に入水自殺をしてしましました。
翌日の昭和19年12月15日朝、晴れ着を着せた次女千恵子ちゃん(1歳)を
おんぶし、長女一子ちゃん(3歳)の手と自分の手をひもで結んだ3人の
痛ましい遺体が発見されました。
その遺書には「私たちがいたのでは後顧の憂いになり、思う存分の活躍が
できないでしょうから、一足お先に逝って待っています」という意味のことが
書かれていたそうです。
凍てつくような12月の荒川べり、変わり果てた愛する妻と子供たちの姿を見て
藤井中尉はその前にうずくまり、やさしく砂を払い、そして呻くように泣いたそうです。
●三度目の特攻志願
藤井中尉はこの事件の直後、3度目の特攻志願を行いました。
今度は自らの小指を 切り、血書嘆願でした。
今度ばかりは軍も諸般の事情から志願を受理しました。
パイロットでない藤井中尉に特攻隊員として異例の任命を行ったのです。
藤井中尉は熊谷飛行学校で生徒達に大変人気があったそうです。
教えは厳しいが 熱血漢で情に厚いということで、生徒達は藤井中尉を
信頼し、尊敬しあこがれを持っていたそうです。
藤井中尉の送別会では、学校の幹部や生徒達で集めたお金で軍刀を
贈り、藤井中尉は大変喜んだそうです。
しかし、事件のことは公になっておらず、誰も口にすらしなかったそうです。
ただ、皆、噂ですでに知っており、別れを惜しんで流す涙が更に辛いもので
あったことは間違いないと思います。
●娘への手紙
話は相前後しますが、藤井中尉は葬式が終わった後、長女の一子ちゃんあてに
手紙を書いた。
一枚目は桜の花の絵、二枚目は子犬と蝶と共に戯れている幼子の絵の便箋で
した。
「冷え十二月の風の吹き飛ぶ日 荒川の河原の露と消し命。
母とともに殉国の血に燃ゆる父の意志に添って、一足先に
父に殉じた哀れにも悲しい、然も笑っている如く喜んで
母とともに消え去った命がいとほしい。
父も近くお前たちの後を追って行けることだろう。
嫌がらずに今度は父の暖かい懐で、だっこしてねんねしようね。
それまで泣かずに待っていてください。
千恵子ちゃんが泣いたら、よくお守りしなさい。ではしばらく
左様なら。
父ちゃんは戦地で立派な手柄を立ててお土産にして参ります。
では、一子ちゃんも、千恵子ちゃんも、それまで待ってて頂戴」
●藤井中尉の出撃
藤井中尉は陸軍特別攻撃隊第四十五振武隊快心隊の隊長として
昭和20年5月28日、隊員10名と共に沖縄に向けて出撃しました。
藤井中尉はもちろんパイロットではないので、小川彰少尉の操縦する
機に通信員として搭乗しました。教え子達、そして家族との約束をやっと
果たすことが出来たのです。
最後の言葉は「これから特攻します」でした。
今日の日本の繁栄はこのような英霊達の死によって成り立っている
ことに感謝をしたい。
尊い人命を投げ打って、日本民族を護ろうと努力してくださった
英霊の想いをしっかりと受け止めて、この命を空しく過ごすことなく
大切に活かさせて戴かないといけません。
藤井一中尉も靖国に英霊として眠っておられます。
Posted at 2012/10/18 10:17:28 | |
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