この記事は学生フォーミュラの現役学生、OB、審査委員などの関係者によって12/1から25日まで一日一記事ずつリレーしていく
アドベントカレンダーです。
前回の記事は情弱サスボッチさんの「誰のためにもならないモタスポの話」でした。リンクは
こちら
1.はじめに
こんにちは。むとさんです。一昨日が誕生日で、27歳になりました~
...という書き出しで去年の12/15に
記事を書いていたのですね(^^;)今年もこの話を頂いた時に丁度12/15が空いていたので、ゲンを担いで(?)この日に公開することにしました。
今年はコロナで色々ありましたし、現在進行形でまだまだ良くない状況が進んでいますけど、人類って困難な状況に陥っても何だかんだ言って前に進んでいくんだな~って思いました。そんな大変な2020年をみんな頑張って乗り越えた1年間だったな~ってしみじみ感じております。
我々の身の回りでも生活様式が一変し、「おうち時間」や「リモート飲み会」といった新しい文化のような物が生まれた一方、「コロナうつ」なる言葉も生まれ、以前に比べるとメンタルヘルスに対する注目が高まっているようにも感じます。
このような経験したことのない世の中において、人間がストレスを感じるのは自然なことですが、同じストレスを受けてもメンタルを壊す人と壊さない人の違いとは何なのか。とふと疑問に思ったので、今回はどのようにしたらメンタルを壊すのかをテーマに色々思っていることを書いてみたいと思います。
2.メンタルの壊し方
色々なメンタルの壊し方があるかと思いますが、
「意識と無意識の乖離」によってメンタルを壊すんじゃないかな~と私は考えています。
何やらスピリチュアルな話に聞こえますが、ここでいう意識と無意識はオーストリアの精神科医ジークムント・フロイトによって創設された
精神分析学の中で定義されるものを指します。
よく真面目な人が突然メンタルを壊したり、燃え尽き症候群になってしまいます。
そういう人は、この程度で躓いていたらダメだ!とか、責任を持って最後まで頑張らなければ!みたいな感じで突き進んでいきますが、そうそう物事が思った通りに進むことは現実世界では無い訳ですから、少しずつ心の中に焦りや不安を溜め込み、ピリピリした雰囲気が周りの人を寄せ付けなくなって孤立し、ある日の朝に布団から出られなくなる。みたいなことが起きたりします。
つまり、無意識で焦燥感や不安感、孤独感といった感情を抱え、肉体的にも精神的にも疲弊しきっているにも関わらず、そういったサインをあえて意識しないとか抑圧、無視をしてしまった為、だんだん辛さが増していってどうしようもなくなった。というのがメンタルを壊す原因の一つと推測しています。
3.メンタルを壊す人と壊さない人の違い
同じ状況に遭遇した時でも人によって反応が異なるように、メンタルを壊す人と壊さない人に分かれますが、その違いとは何でしょうか。
それは、コップに半分水が入っているのを見た時に「まだ半分も水がある」と思う人はメンタルを壊しにくく、「あと半分しか水がない」と思う人はメンタルを壊しやすいと考えています。
すなわち、
目の前で起きている事実は同じでも、それをどう解釈するかでその後のメンタルの状態が大きく変わるものです。
では、同じ出来事に直面したのに、人によってその捉え方が異なるのはなぜか。
それは、
幼少期の頃の自分の振る舞いに親がどのような反応を示していたかが鍵になります。
子供の頃を思い出して、以下の例1~例3のような場面で、親からAとBどちらの言葉をかけられていたかを思い出してみてください。
例1 子供の頃、誤ってお皿を落として割ってしまった時、次のどちらの言葉を親からかけられたでしょうか?
A:「大丈夫?びっくりしたね~。ケガはない?」
B:「あーもう!何やってるの!いい加減にしてよ!」
例2 子供の頃、80点のテストの答案を見せた時、次のどちらの言葉を親からかけられたでしょうか?
A:「頑張ったね!あと少しで100点だったね!次もまた頑張ろうね!」
B:「なんで100点じゃないの?遊びすぎじゃないの?次100点じゃなかったらご飯抜き!」
例3 子供の頃、同級生から仲間外れにされて親に泣き言を言った時、次のどちらの言葉を親からかけられたでしょうか?
A:「どうしたの?そう、つらかったんだね...大丈夫だよ」
B:「もう!面倒なことを起こして!お前が悪いんだよ!」
Aの言葉を掛けられていた方が多かった人は「まだ半分も水がある」と解釈しやすく、Bの言葉を掛けられていた方が多かった人は「あと半分しか水が無い」と解釈しやすいのではないでしょうか。
上記のAの言葉の中にはまず、子供の感情を受け止めた上で、子供を安心させたり元気づける言葉が含まれている一方、Bの言葉の中には子供の振る舞いに対して親からの一方的な目線で断罪する言葉のみが含まれています。
Bの言葉を浴びせられ続けた子供の心にはどのような影響を及ぼすのでしょう。
まず、例1を見てみると、お皿を落とした時に子供心に「やってしまった..」と罪悪感や申し訳なさを感じ、大きな音がして驚いた。という心の動きがある中で、親から苛立ちや怒りに満ちた罵声を聞かされるとどうなるでしょうか。子供の心の中に湧いた罪悪感や驚きに拍車をかけるだけです。
次に、例2を見てみると、子供は親にテスト頑張ったよ!と言ってもらいたいものですが、「遊びすぎじゃないの?」の一言のように子供の頑張りを端から否定したうえで、「次100点じゃなかったらご飯抜き」と脅すことで恐怖感を植え付けられています。
最後に、例3を見てみると、仲間外れにされて嫌な気持ちになったのを親に慰めてほしかったり、受け止めてほしかったりするものですが、子供にとって一大事な事を「面倒な事」と親のものさしで矮小化した上で「お前が悪い」と断罪する事で途方もない絶望感で満たされてしまいます。
このように辛い感情体験を幼少期に繰り返し経験すると、穴の開いたコップに水をいくら注いでも満たされないように、どんなに嬉しい事や恵まれた事に巡り合えたとしても心が満たされなくなってしまうのです。
ここで、どちらかというとBに近い言葉を親から聞かされてきた人の中で、自分は真面目なタイプの人間だという自覚のある人、昔から完璧主義の傾向がある人、子供の頃によく「いい子だね」とか「優秀だね」と周りの大人から言われていた人は、胸に手を当てて幼少期の頃の家庭での体験を思い出してみてください。
例えば、兄弟げんかをした時、いつも決まって兄の方が「お兄ちゃんなんだから我慢しなさい!」と親から言われていつも弟に譲歩させられていたとか、親が同級生や兄を褒め称えた上で「それに比べてあんたは出来損ないだね」とダメ出しされてたとか、「言うことを聞かないなら家から出ていけ!」「誰のお陰で飯が食えてると思ってるんだ!」としょっちゅう怒鳴られたり...等々、そういった思い出したくない嫌な経験がありませんでしたか?親とのやり取りで内面から沸き上がった怒りや憎しみ、恐怖といった感情はすっきりと洗い流せていますか?
おそらく今も、のどに小骨が刺さったままのように無意識のどこかで怒りや憎しみ、恐怖といった感情が多かれ少なかれ残っているのではないでしょうか。
そういった感情から目を背ける為に、あなたは懸命に真面目に振舞って、親から愛情を向けて欲しかったのではありませんか?
その一方で、親から浴びせられた酷い言葉で心が傷つき、憎しみで心がいっぱいではありませんか?
親から愛情を与えられなかった事で幼児的願望が満たされず、愛情飢餓感が強化された一方で、親の仕打ちを憎むという矛盾が心理的な葛藤を生み出し、無意識の領域に内在化するのです。
すなわち、いくら意識の領域で規範意識を強く持ち、真面目に成長欲求を満たそうと行動しても、無意識の領域で愛情飢餓感に由来する退行欲求が満たされていない場合、いつまでたっても「あと半分しか水が無い」としか解釈できず、心の底から幸せを実感することはできないのだと思います。
また、このような事を頭で分かっていても、「あと半分しか水が無い」と嘆いている方が心理的には楽なので、嘆いたり自分を憐れむことを中々辞める事が出来ません。悩みたく無くても悩まずにはいられないのは、無意識の中にある怒りや憎しみのエネルギーが途方もなく大きいから。幼少期に親との関係でつらい思いを何度も味わった人は、この心の葛藤と一生付き合っていく事になります。茨の道の人生になるでしょう。子供は親を選べないとは言え、運命とは残酷なものです。
しかし、悲観する事は無いと思います。人生の最初の時期に辛い思いを抱えながら、途中で社会的、肉体的に死んでいてもおかしくなかったのに、何とか今日まで生きてこられたのです。その事だけでも大きな事業を成し遂げたようなものだと思って差し支えないでしょう。これからメンタルを良い状態で保ち、なるべく幸せをたくさん感じて生きていくにはどうすれば良いでしょうか。
それは、無意識の領域にある本当の感情を意識化する事。もっと言えば、無意識の中にある見たくない感情を直視する事。
(※注意点として、幼少期に味わった恐怖や憎しみ、怒りを直視する時には、カウンセラーの元で直視する事です。これらの感情は大抵トラウマとして心に刻み込まれているものなので、一人で直視するのは避けましょう。フラッシュバックして日常生活に支障が出ます。)
人の心が認識できる意識の領域は、氷山の一角。水面下にある膨大な無意識が自分の認知や行動、考え方に多大な影響を与えるのみならず、対人関係においても人は相手の意識ではなく無意識に反応するのです。
無意識にある直視したくない感情がある事を含め、自分を受け入れられるようになれば、目の前の世界が変わるはずです。僕もそう信じています。
4.おわりに
大体いつもむとさんの頭の中で渦巻いている思いや考えを言語化して記事にしてみましたが、いかがだったでしょうか。
この記事を生理的に受け付けられない人も多いかと思いますが、共感してくれる人にはしっかり刺さるよう頭をひねりながら頑張って書いてみました。
最後にちょっとだけ自分語りをさせてください。
社会人3年目にもなって周りと自分の境遇を比較して、苦悩していたのがここ最近の悩みです。
例えば、あいつは俺が心からやりたい仕事をすごく楽しそうにしていて羨ましい!とか、周りの同期が結婚とか彼女が出来て楽しそうなのに自分には彼女が全然できなくて辛い!寂しい!とか...
挙げたらしょーもなくてキリがないのですが、周りと自分を比較して落ち込むのは辛いだけだと分かっているのに、比較せずにはいられないのは何でだろうと考えてみました。
元々結構な負けず嫌いだったかと言われると、あんまりピンと来ないのでたぶん違う...と思って、いつから周りと比較する癖がついたのかを思い出してみました。
すると、小学校の頃にスポーツ少年団でサッカーをしていた頃に、親が同じチームの同級生や、他チームのメンバーとしょっちゅう比較され、お前のプレーはなってないとメンバーの前で貶された事が何度もあった事はあれど、プレーを褒められた事は一度も無かったな~。と思い出し、ハラワタが煮えくり返りました。このハラワタが煮えくり返るエネルギーが自分と周りを比較せずにはいられない原因の一つではないかと推測しています。
そもそも何でそんなに親が私と同級生を比較したのか考えてみた所、推測ですが親にも深刻な心の葛藤があって、親自身が他の人と比較して苦悩に直面するのを避ける為に、息子である私と同級生を比較することで親自身の心の葛藤から目を背けていたのではないかと思います。
今、私も年齢が当時の親の年齢に近くなりましたが、この位の年になっても親は心に葛藤を抱えて苦悩してたんだな。と、生まれて初めて親の気持ちが分かった気もします。
こんな事は今まで考えられませんでしたが、こうやって年を重ねていくごとに人の心は段々変わっていくものなのかな。とか、過去に遭ったどんなに辛い事も全部含めて自分を許せば何かが変わるかもしれないな。なんてことを27にもなってようやく気付きました。
という訳で、何かこの記事の一部でも読者の皆さんの役に立てたら幸いです。
最後までお読みいただき、ありがとうございました。
明日はもりシィの「学生フォーミュラと4輪/2輪関連企業への就職」です。お楽しみに!
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