まず、日本人の教養と呼ばれる物のほとんどは、GHQ(CIA)が作り出した学校教育と、同じく新聞とNHK(地上波テレビ)という、この三つから構成されたものだという事です。
もし、この三つの情報源が故意にウソを流布(洗脳プロパガンダ)していたとしたら、われわれ現代日本人の頭の中には一体何が入っているのか?
当然、私たちが今まで学校で教育されて来た歴史教育も然りで、故意に反日勢力(CIA、朝鮮半島、中国共産党)からウソを刷り込まれていたとしたら、自分の出自に自信を持ち、清く健全で幸せな人生など送れるはずがないと思います。
『任那』(みまな)という地名をご存知でしょうか?
4世紀から6世紀、日本(大和政権)は朝鮮半島南部を統治していました。
しかし、現代の日本の一般的な教科書には、これについての記述がありません。
当時の大和政権(日本)による朝鮮半島南部の統治は、世界では共通の認識となっていて、アメリカ、カナダ、オーストラリアの教科書、そして中国の教科書ですら、日本の半島南部の支配について記述されています。
しかし、日本の一般的な教科書には、その記述が無いのです。
『新しい歴史教科書をつくる会』による教科書で、『倭(日本)は加羅(任那)を根拠地として百済をたすけ、高句麗に対抗』と記述されていましたが、
文部科学省は2002年に『近年は任那の恒常的統治機構の存在は支持されていない』という検定意見を出し、これを否定したのでした。
まず、日本国内での歴史(史料)についてですが、
任那は任那日本府とも呼ばれ日本書紀の『雄略紀』や『欽明紀』に登場します。
任那日本府は、大和政権が369年に伽倻7国を統治し、『日本府』という支配機構を設置して、562年まで統治していたと記録されています。
日本書紀では、大和政権が『任那』をはじめ『伽耶』を統治していたことが記されているのです。
『伽耶』とは朝鮮南部の地名で、『大伽耶』や『金官伽耶』などがあり、三国志の『魏書第三十巻烏丸鮮卑東夷伝倭人条』(いわゆる魏志倭人伝)に登場する『狗邪韓国』(くやかんこく)のことです。
4世紀当時、『伽耶』や『安羅』や『加羅』や『金官』などは全て『任那』に包括される地域だったのです。
当時の高句麗の王である好太王が建てた『広開土王碑』には、日本が391年、百済と新羅を服属させたことが記されています。
この当時の内外の歴史書によると、新羅と百済は宗主国である大和政権(日本、倭国)に対して人質や通婚として王族を差し出していたということです。
このことは、近年中国で発見された4世紀の『諸番職貢圖巻』にも記載されているので確実でしょう。
さらには、日本書紀には、神功皇后52年九月丙子の条に、百済が日本の使者、千熊長彦に会い『七支刀一口、七子鏡一面、及び種々の重宝を献じて、友好を願った』と書かれていおり、実際に『七支刀』という物的証拠もあるのです。
↓石神神宮に納められる「七支刀」
そうなのです、日本、中国、韓国、全ての国の歴史書や碑文などに朝鮮半島の南部を大和政権(日本、倭国)が統治していたことが記されているのです。
そして、高句麗王(好太王)の広開土王碑文には問題の『辛卯年条』というものがあります。
原文は、
『百殘新羅舊是屬民由來朝貢而倭以耒卯年來渡[海]破百殘■■新羅以為臣民』と記されているのですが、
現代日本語に訳すと、
『そもそも新羅・百残(百済の蔑称)は(高句麗の)属民であり、朝貢していた。
しかし、倭が辛卯年(391年)に[海]を渡り百残・■■・新羅を破り、臣民となしてしまった。』と書かれているわけで、好太王自らが建てた碑文に確りと倭国(大和政権)の朝鮮半島南部での支配を記しているのです。
『■■』部分は劣化により読み取れない文字で、『百殘■■』の部分を、
『百残を■■し』と訓読する説や『■■』部分は『加羅』や『任那』と読む説などもあるのですが、文脈的には変わらず、ほぼ同じ内容であると言えるでしょう(ちなみに『來渡[海]破』の『[海]』は、『海』という文字ではない可能性を示しています)。
しかし、広開土王碑文に関しては、反日勢力も攻勢で、『辛卯年条』に対しては、日本の拓本資料である『酒匂本』を研究対象にし、この『酒匂本』の改竄捏造説を唱えてきたのです。
これは、日本在住の韓国および朝鮮の考古学者であり歴史学者の李進熙(1984年に朝鮮国籍から韓国籍へ移籍)が、1970年代に提唱した説で、
大日本帝国陸軍が1884年(明治17年)1月、情報将校として実地調査のために陸軍砲兵大尉の酒匂景信を当時は清朝であった鴨緑江流域へ送り込んだのですが、その調査で参謀本部に持ち帰った資料に含まれていた広開土王碑の拓本(酒匂本)を故意に改竄捏造したという説です。
李進熙の主張によれば、大日本帝国陸軍による改竄捏造は、5世紀の朝鮮半島に倭国(日本)が権益を有していたように捏造するために、酒匂景信が拓本を採取する際に碑面に石灰を塗布して倭および任那関係の文章の改竄を行ったとするもので、その主張は、『而るに』以降の『倭』や『来渡海』の文字が、5世紀の倭国(日本)の朝鮮半島進出の根拠とするために日本軍によって改竄されたものであるというものです。

↑問題の辛卯年条
ですが、反日勢力の杜撰な主張は脆くも崩れ去ります。
2006年(平成18年)4月に中国社会科学院の徐建新により、1881年(明治14年)に作成された現存する“最古”の拓本が発見され、これと酒匂本とが『完全に一致』していることが判明したのであります。
これにより、李進熙の改竄捏造説は完全に否定されることとなったのです。
続いて、和訳された中国の歴史書を見て行きましょう。
三国志の『魏書東夷伝韓条』(いわゆる魏志韓伝)には、
『韓は帯方郡の南にあり、東方と西方は海によって区切られ、南方で“倭と接し”、四方は四千里ばかり。韓には三種あり、一に馬韓、二に辰韓、三に弁韓。辰韓とは昔の辰国のことで馬韓は西にある』とあり、韓は南方では海で区切られず“倭と接し”ていると書かれています。
つまり朝鮮半島の南方には陸続きで倭国(日本)が存在していたと書かれているのです。
馬韓(慕韓)とは百済の母体となった半島西部の地域にあり、辰韓(秦韓)は新羅の母体となった半島東部の地域にあり、弁韓は任那や加羅の母体となった半島南部の地域にありました。これらを古代の前三韓と呼びます。
↓紀元前の三韓
次に3世紀の三国志の『魏書東夷伝倭人条』(いわゆる魏志倭人伝)には、
『(帯方)郡より倭に至るは、海岸に循(したが)ひて水行し、韓の国を歴(へ)、乍(あるい)は南し乍(あるい)は東し、其(そ)の北岸の狗邪韓国に到り、七千余里。
始めて一海を度(わた)ること、千余里にして対馬国へ至る』とあり、狗邪韓国を『その( 倭の)北岸』と書いてあるのです。
この『其(倭)北岸』の解釈としては、倭国の領域内とする説と、
領域外で対岸とする説、
また、倭国の海と岸が接する意味とする説の3つがあると言われているのですが、文章を正確に読むと『韓の国を歴(へ)』と書いてあるので、前述した前三韓(馬韓、辰韓、弁韓)でないことが分かります。
つまり文脈的に考えれば、
『倭に至るには、韓の国を歴(へ)、其(そ)の北岸の狗邪韓国に到る』と解釈するのが当然で『北岸』とは『北限』であり、『その』が南方に存在する倭国だからこそ北方が区切りになっていたとしか考えられないわけです。
次の後漢書『東夷伝』(列伝第七十五)では三韓の位置関係がより具体的に記されていて、
『馬韓は西部に在り、54国を有し、その北は楽浪郡と、南は倭と接する。辰韓は東部に在り、12国を有し、その北は濊貊と接する。弁辰は辰韓の南に在り、また十二国を有し、その南はまた倭と接する』とあり、
『韓』の西岸に『馬韓』が、東岸の北部に『辰韓』が、東岸の南部に『弁辰』(弁韓)があり、『馬韓』と『弁辰』(弁韓)が各々その南方で『倭と接する』と書かれています。
つまり、ここでも朝鮮半島内の南部が『倭』(日本)の領域であったことが示されているのです。
次の後漢書『東夷伝倭人条』を見て行きましょう、
『倭は韓の東南、大海中の山島によっており、およそ百余国ある。(前漢の)武帝が(衛氏)朝鮮を滅ぼしてから、三十余国が漢に使訳を通じてきた。国々は皆が王を称し、代々その家系が続いている。“諸王の中の大王”たる大倭王は、邪馬臺国に居する。楽浪郡は、その国(邪馬台国)を去ること一万二千里、その(邪馬台国)西北の境界にあたる拘邪韓国を去ること七千余里。その地はだいたい会稽郡東冶の東にあり、朱崖や儋耳と相似しており、その法俗も多くが同じである』とあり、
“諸王の中の大王”たる『大倭王』が居する邪馬台国は楽浪郡から一万二千里、倭国の西北の境界である『狗邪韓国』は楽浪郡から七千里と記されています。
もうここまで来ると『狗邪韓国』とは『伽耶』や『加羅』であり、倭国(大和政権)が統治する任那の包括地域であったということは間違いないと言えるでしょう。
しかし、依然として、
『任那は存在しなかった』と主張する人たちが存在するのも確かです。
その論拠は日本書紀や古事記が編纂されたのは西暦700年頃だから、それ以前の4~6世紀の任那の記述はウソであるというものです。
では、日本の史料以外の日本書紀よりも古い物も含む各国の歴史書を見て行きましょう。
まず『広開土王碑』(414年建立)永楽10年条の『任那加羅』の記述が史料初見とされています。
続いて『宋書』では『弁辰』が消えて、438年条に『任那』が見え、451年条に『任那、加羅』と2国が併記され、その後の『南斉書』も併記を踏襲しています。
次に『梁書』では、『任那、伽羅』と少し文字を変えて併記するかたちです。
『翰苑』(660年成立)『新羅条』に『任那』の記述があり、その註(649年 - 683年成立)に『新羅の古老の話によれば、加羅と任那は新羅に滅ばされたが、その故地は新羅国都の南700〜800里の地点に並在している。』と書かれています。
『通典』(801年成立)『辺防一新羅条』に『加羅』と『任那諸国』の名があり『新羅に滅ぼされた』と書かれています。
『太平御覧』(983年成立)と『冊府元亀』(1013年成立)もほぼ同様の記述があると言われています。
このように、これだけの史料があるのにも関わらず、どうすると『任那は存在しなかった』と有名な歴史学者や大学教授が言えるのか不思議でなりません。
宋書の『倭国伝』に書かれている『倭の五王』(わのごおう)の存在も重要です。
『倭の五王』とは、中国南朝の宋帝国(劉宋)の正史『宋書』に登場する倭国の五代の王『讃・珍・済・興・武』のことです。
5世紀初頭から末葉まで、およそ1世紀近くに渡り、晋、宋、斉などの諸帝国に遣使入貢し(遣宋使)、また梁からも官職を授与されていたのです。
宋書の『倭国伝』には、451年に宋朝の文帝は、倭王済(允恭天皇に比定される)に『使持節都督倭・新羅・任那・加羅・秦韓・慕韓六国諸軍事』の号を授けたとあります。
また、478年に、宋朝の順帝は、倭王武(雄略天皇に比定される)に『使持節都督倭・新羅・任那・加羅・秦韓・慕韓六国諸軍事、安東大将軍、倭王』の号を授けたとあり、ここでも任那の存在が確認できるだけでなく倭王(大和王権)がその地域を治めていたことが記されているのです。
これだけでは済みません、物的証拠もまだまだ有ります。
それは、朝鮮半島南部で発見された前方後円墳の数々です。
これらは、日本の前方後円墳より新しい年代の物であることが確認されており、ルーツが日本列島にあるのは明白です。
半島の墳墓なので半島由来の副葬品があるのは当然なのですが、
副葬品には日本でしか採れない翡翠(ヒスイ)の勾玉や日本式の土偶、そして銀装三角穂式鉄鉾や捩り環頭大刀(たち、鉄刀)など沢山の日本(大和政権)由来の遺物が発見されているのです。
これらの物的証拠がある以上、前方後円墳が日本側から伝播したのは確実なのです。
↓朝鮮半島南部に分布する前方後円墳
先に紹介した好太王(広開土王)による広開土王碑の存在も、大和政権(日本)の勢力が如何に強大だったのかを物語っている遺物の一つであるわけですが、
前述の在日韓国人の歴史学者の李進熙や反日勢力などの主張には、
『好太王の“戦闘の戦績”を称える碑文に倭国(大和政権)が主語になっている辛卯年条があるというのは、おかしい』というものがります。
しかし、その好太王がその“戦闘”のために出兵をせざるを得ない状況を作ったのが強大な倭国(大和政権)だったというのだから仕方がないことだったと考えるのが妥当でしょう。
これは倭国軍を退かせたことを、大きな記念碑を建ててまで好太王が大喜びするほど倭国(大和政権)の勢力が強大であったということの裏付けでもあるのです。
強国に囲まれた無防備な半島諸国とは違い、列島に本拠を置く倭国(大和政権)は国力を蓄えやすく、倭国(大和政権)が強かであったことがうかがえるのが広開土王碑文であると言えるでしょう。
また、少し時代が降りますが、大和政権の勢いを感じる出来事は他にもあります。
低い官爵も冊封も必要がないとし、倭国(大和政権)は『隋』に対して倭王(天皇)を『日出る処の天子』として対等外交を行うのです。
これらもやはり地理的優位性があったからこそだったのではないでしょうか。
現代の韓国人の中には『百済』が倭国(大和政権)の宗主国であったという歴史認識を持っている人がいるようなのですが、それも間違いだと言わざるを得ません。
百済がどう滅んだかを少し説明すると、
475年、百済は高句麗からの攻撃により、ほぼ壊滅状態にまで陥りますが、首都を漢城から南下させ、熊津に遷して百済という国号を守り抜きます。
そして、継体天皇6年(512年)に大伴金村から任那四県の割譲を受け、
その後、さらに首都を泗沘へと南下させ“拘り”のある百済という国号を守り抜くのです。
しかし、660年、百済は唐と新羅の連合軍から挟み撃ちに合い、ここで一度滅亡します
(ここでは、この滅亡を分かりやすくするため、これを『百済の役』として、663年からの『白村江の戦い』とは区別します)。
ここからは、この時の百済王である義慈王の二人の息子(王子、太子)を見て行くと分かりやすいです。
義慈王は、自身は『百済の役』において唐に投降して死亡します。
そして、2年後の662年5月、中大兄皇子と斉明天皇が百済復興の支援を決定し、
大和政権(日本)に百済から人質として来ていた義慈王の王子である『扶余豊璋』に安曇比羅夫、狭井檳榔、朴市秦造田来津が率いる兵5,000と軍船170艘を帯同させて百済へと帰還させます。
これにより、扶余豊璋は約30年ぶりとなる百済の地への帰還を果たしました。
扶余豊璋と倭国軍は百済の残党である『鬼室福信』と合流し、扶余豊璋は百済王に推戴されましたが、次第に実権を握る鬼室福信との確執が生まれていきます。
そして、663年6月、扶余豊璋は鬼室福信を殺害してしまいます。
これにより百済復興軍は著しく弱体化し、唐と新羅の連合軍の侵攻を招くことになるのです。
扶余豊璋は周留城に籠城していましたが663年8月13日、城兵を見捨てて脱出し、倭国の援軍に合流します。
やがて唐から劉仁軌率いる7,000名の救援部隊が到着し、8月27、28日の両日、倭国水軍と白村江で衝突するのでした。
倭国水軍にとっては慣れない遠征戦だったのでしょう、倭国と百済の連合軍は大敗してしまうのです(これが『白村江の戦い』です)。
これにより、扶余豊璋は数人の従者と共に高句麗に敗走します。
しかし、その高句麗も内紛で弱っているところを668年に唐に滅ぼされ、扶余豊璋は高句麗王族と共に唐の都に連行されるのです。
高句麗王の宝蔵王は許されて唐の官爵を授けられたましたが、扶余豊璋は許されず、嶺南地方に流刑にされ生涯を終えたとされています。
では、もう一人の義慈王の太子である扶余隆を見ていきましょう。
百済民族が“絶滅”したと記されている、問題の史料、旧唐書の『東夷傳百済条』です。
『仁願、仁軌等既還,隆懼新羅,尋歸京師.儀鳳二年,拜光祿大夫、太常員外卿兼熊津都督、帶方郡王,令歸本蕃,安輯餘眾.時百濟本地荒毀,漸為新羅所據,隆竟不敢還舊國而卒.其孫敬,則天朝襲封帶方郡王、授衛尉卿.其地自此為新羅及渤海靺鞨所分,百濟之種遂絕』と書かれています。
坂元義種氏の『百済史の研究』(塙書房)の付編「訳注中国史書百済伝」に和訳があります。
それが以下です、
『〔劉〕仁願や〔劉〕仁軌らが還ってしまうと,〔扶余〕隆は新羅を懼れて,まもなく京師〔長安〕に帰ってきた。儀鳳二(677)年,〔扶余〕隆を光禄大扶夫・太常員外卿兼熊津都督・帯方郡王に任命して,本国に帰し,〔百済〕の遺民を安堵させようとした。だが,百済の地は荒廃して,次第に新羅の占拠するところとなっていた。〔そこで,扶余〕隆は,とうとう本国に還ろうとしないで卒してしまった。〔扶余隆〕の孫の敬は,則天〔武后〕のとき,〔隆のあとを継いで〕帯方郡王に冊封され,衛尉卿に任命された。〔百済の〕は,これ以後,新羅や渤海・靺鞨に分〔割〕され,〔百済の地における〕百済〔王の〕の血統は〔断〕絶した。』と和訳されています。
原文中盤の部分↓
『儀鳳二年,拜光祿大夫、太常員外卿兼熊津都督、帶方郡王,令歸本蕃,安輯餘眾.時百濟本地荒毀,漸為新羅所據,隆竟不敢還舊國而卒』この部分を、より原文に近いかたちで訳すと、
『儀鳳二(677)年に(唐の高宗は)扶余隆を光禄大夫・太常員外卿兼熊津督・帯方郡王に拝(任命)し,本蕃(本国、百済)に帰らせ,余衆(遺民)を安輯させようとしたが、時に百済の本地は荒毀して,漸く(次第に)新羅の占拠する所となり,扶余隆は竟(終わり)に敢えて本国に還らず卒(死亡)した。』
となるわけですが、遺民とは『余衆』であり、土地は『荒毀』(酷く壊れてる)なので、ようやく、次第(自然)に新羅の支配する場所となったということだと思われます。
つまり『余衆』(遺民)もいなくなって“漸く”新羅の支配する場所となったということで、百済の遺民がほとんど根絶やしなったことが表現されているのが分かるのです。
この状況に、官職に任ぜられた扶余隆ですが、竟(終わり)は敢えて卒(死亡)するしかなかったということなのです。
次に、問題の最後半部分を見ていきましょう。
『其地自此為新羅及渤海靺鞨所分,百濟之種遂絕』とあります。これをより原文に近いかたちで訳します。
『其(その百済)の地は此より新羅及び渤海・靺鞨の分かつ所となりて,百済の種(民族、血統)は遂に絶滅した。』ということなので王族はおろか遺民(余衆)すらも根絶やしに居なくなったことが記されているのです。
これは、文字通り『百済の種(民族、血統)の絶滅』を意味し、百済という国も百済人という民族も完全に絶滅したことを示しているのです。
ちなみに、この旧唐書『東夷傳百済条』に登場する扶余隆の孫である扶余敬ですが、その後どうなったかのかという史料は乏しく、不明です。百済が滅んだ後、もう何処にも登場しては来ないので、早々に死亡していたのかも知れません。
話しを元に戻すと、つまり、百済が日本(大和政権)の宗主国であったなどという説は根も葉もないウソだという事です。
ですが、もし仮に、反日勢力が『韓国(朝鮮)起源説』を提唱し流布するように、百済が倭国(大和政権、日本)の宗主国であったのなら、『百済の役』での敗戦後も倭国(大和政権)に日本列島を割譲させ、これまでのように首都を南下させつつ“拘り”のある『百済』という国号を存続させられたはずです。
しかし、そうはならず百済という国も、その遺民(余衆)たちも消滅したのです。
これが史実であり、そうだからこそ現在の『百済は現存していない』という現状に至るのです。
『日本』という国号に関しても百済の遺民(亡命人、帰化人)が影響を与えたという説がありますが、これも根も葉もないウソだと言えるでしょう。
百済の滅亡から時が経ち、8世紀の大宝律令の発令時に正式に『日本』という国号が定められたことを考えると、国号に百済の遺民が何かしらの影響を与えたとは考えがたいのです。
そして、仮に百済遺民(帰化人)たちが日本国に何かしらの影響を与えていたとしても、元々が新羅人である現在の韓国人(朝鮮人)には、本来なら全く関係の無いことなのです。
なぜなら、現在の韓国(北朝鮮)は新羅→高麗→李氏朝鮮→大韓帝国→大韓民国(北朝鮮)となったもので百済とは成立したと言われる5世紀の時点で既に別国家だったのです。
東部の百済(馬韓)西部の新羅(辰韓)は言語も習俗も違うので別民族と言えるでしょう。だから当然、国が別れていたわけです。
『後漢書』と『三国志』辰韓伝には辰韓は秦の遺民の子孫であると書かれています。
『北史』新羅伝には、
『其言語名物,有似中國人』という記述があり、辰韓の言語は馬韓と異なり弁韓と類同し、中国語とも類似していたとあるのです。
『北史』巻九十四を見てみましょう、
『新羅者,其先本辰韓種也。地在高麗東南,居漢時樂浪地。辰韓亦曰秦韓。相傳言秦世亡人避役來適,馬韓割其東界以居之,以秦人,故名之曰秦韓。其言語名物,有似中國人』
『新羅とは、その先は元の辰韓の苗裔なり。領地は高句麗の東南に在り、前漢時代の楽浪郡の故地に居を置く。辰韓または秦韓ともいう。相伝では、秦時代に苦役を避けて到来した逃亡者であり、馬韓が東界を割譲し、ここに秦人を居住させた故に名を秦韓と言う。その言語や名称は中国人に似ている』
『後漢書』巻八十五が以下です、
『耆老自言秦之亡人,避苦役,適韓國,馬韓割其東界地與之。其名國為邦,弓為弧,賊為寇,行酒為行觴,相呼為徒,有似秦語,故或名之為秦韓』
『辰韓、古老は秦の逃亡者で、苦役を避けて韓国に往き、馬韓は東界の地を彼らに割譲したのだと自称する。そこでは国を邦、弓を弧、賊を寇、行酒を行觴と称し、互いを徒と呼び、秦語に相似している故に、これを秦韓とも呼んでいる』
以上を見れば完全に別民族です。
ちなみに、百済人は扶余系の言語を話していた可能性が高いと言われています。
つまり、現代の韓国人(朝鮮人)は、元々が新羅人であるので百済人とは別の民族なのです。
ただ、古代に百済人が住んでいた場所に現在の韓国人が住んでいるというだけなのです。
現在、韓国では『百済祭り』なるものを催していますが、勘違いも甚だしいと言えるでしょう。
自分たちの先祖が必死になって殺した民族のお祭を開催しているわけです。
忠清南道あたりに住んでいるというだけで、自分の先祖が百済人であると思い込んでいる人がいるようですが、
もし、このような誤った論法で歴史認識をしていけば、『任那日本府』があったという慶尚南道あたりに住んでいる韓国人は日本人であるという事になりかねないということです。
慶尚南道に住んでいる韓国人は韓国人であって日本人ではないのです。
スペイン人のクリストファー・コロンブスは、艦隊を率いて、中米のアメリカインディアン諸部族(ネイティブアメリカン)を数年にわたり大虐殺して、ほぼ根絶やしにして上陸するのですが、
この中米に住みついたスペイン人はスペイン人であってインディアン部族ではないのと同じことですね。
こんなものは、子供でも分かる話しです。
百済人がかつて住んでいた場所に現在住んでいるというだけで韓国人は百済人ではないのです。
竹島を盗み、仏像も盗み、日本国に何かしらの影響を与えたかもしれないというだけの『百済』という存在も自分達のものにしてしまいたいのでしょう。
朝鮮半島の歴史を見ていると血で血を洗う裏切りと略奪ばかりで、見ていると私などは吐き気をもよおしてしまうのですが、
そこで歴史教育を受けた人間にしてみれば人からものを盗むことなど何でもないことなのかも知れません。
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