2023年10月7日、イスラム原理主義の武装組織ハマスがイスラエルを攻撃しましたが、この事件の半年ほど前(2023年4月30日)、パレスチナ自治政府のトップであるアッバース大統領(PLO、パレスチナ解放機構議長)がパレスチナ民族評議会で、『ヨーロッパのユダヤ人は、古代イスラエル人の子孫ではなく、トルコ系ハザール人であり、イスラエルの地とは無縁だ』という発言をしたのです。
この発言動画が拡散したことで、アッバース大統領は欧米から『反ユダヤ主義』との批判を受けることになりました。
ところで、一体『ハザール人』とは何者なのでしょうか?
アッバース大統領の発言が、なぜ『反ユダヤ主義』になるのかを理解するためにも、今回は、その歴史と経緯について見て行くことにしましょう。
まずは、『ヨーロッパのユダヤ人がハザール起源である』という説は誤りなのか?ということです。
ハザール(カザール:Khazars/Kazar)とは、紀元後7世紀から10世紀にかけて黒海北部からカスピ海、コーカサスにかけて繁栄した遊牧民族の国家のことです。
自らの手で歴史書を残すことはなかったものの、同時代のイスラムやヴィザンチン(東ローマ)の資料にその存在が繰り返し登場することで実在が確認できます。
ハザールをとりわけ有名にしたのは、8世紀から9世紀初頭という、歴史的に見れば比較的近代にユダヤ教を国教として採用したとの複数の歴史資料があることです。
ハザール人はテュリュク(トルコ)系の遊牧民で、6世紀初頭には黒海とカスピ海の間のステップ地方で大きな勢力を持つようになり、カガンと呼ばれる君主に率いられたハザールは、南からのイスラム勢力の圧迫を受けたことで、西のヴィザンチン帝国と緊密な関係を維持するようになったと言われています。
7世紀末、鼻を削がれてクリミアに追放されたヴィザンチン帝国の皇帝ユスティニアヌス二世は、ハザールの君主であるカガンの妹と結婚し、その武力によって復位に成功します。
そして、ハザール人である皇帝の妻となったカガンの妹は、テオドラと名を改め、宮廷で大きな影響力をもつようになったのです。
733年、ヴィザンチンの皇帝レオ三世はイスラム勢力を抑え込むため、息子のコンスタンティヌス六世の妻にハザールのカガンの娘を迎えました。
2人のあいだに生まれた子どもは後にレオ四世として即位し、『ハザールのレオ』と呼ばれるようになりました。
いずれも史実として認められていますが、情報統制されているのか、これほどの影響力を持っていた“ハザール”という国について論じられることは、今となっては、ほとんど無いというのが現状です。
なぜ、隠すのか?
その理由の一つは、ハザールが『ユダヤ国家』だとすると、現イスラエルにとって、政治的に極めてやっかいな問題を引き起こすからだと言われています。
アッバース大統領が『ヨーロッパのユダヤ人』と言ったのはドイツや東欧諸国で暮らしていたアシュケナージ(複数形はアシュケナージムという)のことで、これまでその起源は謎とされてきました。
しかし、研究を進めるうちに、『ハザール滅亡後に、黒海沿岸にいたユダヤ教徒たちがロシアやモンゴルから追われて西へと移動し、東欧に定住したのがアシュケナージだ』との説が唱えられるようになったのです。
この説が、もしも、正しいのなら、イスラエルの政治や経済の中枢を構成する『ヨーロッパのユダヤ人(アシュケナージム)』は、中東起源ではないのだから、イスラエルやパレスチナの地への『正当な歴史的権利』を持たないという事になります。
つまり、これが、アッバース大統領の発言が『反ユダヤ主義』であると“黒幕”たちから批判を受ける理由だということになるのです。
こうした圧力により、既存の歴史家はたち“ハザール”に触れることを避けるようになったのでした。
これは、日本で現在活動している自称保守派であるはずの歴史学者や言論人も同じです。
情けないことに“ユダヤ”というワードすら回避するようになったのでした。
通常、メディアに登場する“アクター”は、たて前として保守でなければ商売にならないのは当然です。
受け手である、こちら側が真偽を精査しなければならないのです。
このままでは、ますます『陰謀論』の温床になるだけだと言えるでしょう。
そこで、ここでは意を決して、この『ハザール』の歴史を紐解いて行こうと思います。
まず、確認しておきたいことは、アシュケナージのハザール起源説は、もともとは『反ユダヤ主義』が目的ではなく、ユダヤ人自身のルーツ探しの過程で唱えられるようになったということ。
それが、強引な方法による現在のイスラエルという“後づけの国家”の建国によって、その反対派による『反ユダヤ主義』の“プロパガンダ”に使われることになったということ。
そして、もう一つは、近年の遺伝人類学の調査の結果、アシュケナージが遺伝的に中東と繋がっていることが示され、ハザール起源説の説得力が多少弱まったということです。
つまり、現状としては、この説が否定される方向に動いているのです。
しかし、ユダヤ人の歴史学者たちは、尚もハザール起源説を唱え続けているのです。
イスラエルの歴史学者シュロモー・サンドは『ユダヤ人の起源(歴史はどのように創作されたのか)』(高橋武智監訳、佐々木康之・木村高子訳、ちくま学芸文庫)で、歴史学によるハザールの検証は19世紀にロシアおよび東欧の研究者が先鞭を付け、それを受けてユダヤ人の歴史学者の中にも、積極的にハザール起源説を取り上げる者が現われたと述べています。
現ウクライナのキーウ生まれの歴史家アブラハム・ポラックは、1944年に『ハザリア(ヨーロッパにおけるユダヤ人王国の歴史)』を著し、
『このイスラエル人(シュロモー・サンド)は、東欧のユダヤ人の大半が、ハザール帝国が権力を行使していた空間の出身であることを断固として確言していた』と言うのです。
しかし、その後、ハザール起源説が『イスラエル国家の存在する権利という普遍的大義への疑問にまで及びかねない』と気付くと、イスラエルではこの説に触れることが“タブー”となり〝沈黙の時代〞が訪れることになります。
それと同時期にスターリン時代のソ連においても、『東洋の奇妙なユダヤ人』の存在が『母なる祖国ロシア』と矛盾しているとされ、ハザールの歴史を語った者が“ブルジョワ学者”のレッテルを貼られて弾圧されるという〝否認の時代〞が始まったのでした。
そして、1976年、この〝沈黙と否認〞を打ち破ったのが、アーサー・ケストラーによる『第十三支族 ハザール帝国とその遺産(The Thirteenth Tribe; The Khazar Empire and Its Heritage)』という書物です。
アーサー・ケストラーは、ユダヤの民は12支族からなるとの伝承を踏まえ、ハザールのユダヤ人は13番目の支族であると主張して(翻訳出版が認められなかったイスラエルを除いて)大きな反響を巻き起こしたのです。
アーサー・ケストラーは、1905年にブダペスト(ハンガリー)で生まれたユダヤ人(アシュケナージ)で、20代でシオニズム運動に傾倒してパレスチナに入植し、その後、マルクス主義と出合ってドイツ共産党に入党、一時はソビエトに滞在しましたが、
全体主義的な独裁体制に絶望してフランスに亡命し、ジャーナリストとしてスペインの内戦を取材することになります。
ナチスがフランスを占領するとヴィシー政権下で南フランスの収容所に送られたものの、その後は外国人部隊に配属されてイギリスに逃亡します。
そして、イギリス軍に参加してドイツ軍と戦い、戦後はスターリン体制を批判し、1956年のハンガリー動乱でも積極的に活動しましたが、60年代になると徐々に政治から距離を置くようになり、自然科学に関心が移って行くのでした。
1967年、『機械の中の幽霊(The Ghost in the Machine)』などで科学の還元主義を批判したアーサー・ケストラーは、部分を超えた全体としての『ホロン』を唱えて、ホーリズムやネットワーク論の先鞭を付けました。
日本では1983年に『ホロン革命』が先行して翻訳紹介され(『機械の中の幽霊』の翻訳は1995年)、ニューサイエンスブームの火付け役になったのです。(押井守の『GHOST IN THE SHELL / 攻殻機動隊』は『機械の中の幽霊』の影響を受けている)
1983年3月、アーサー・ケストラーは強度のうつ病から『自らの意志によってそれが可能であるうちに自らを苦痛から救出する』との遺書を残し、睡眠薬を用いて妻とともに自殺し、その生涯を閉じます。
『第十三支族 ハザール帝国とその遺産』は、アーサー・ケストラーの波乱万丈の人生の晩年に書かれたものですが、彼自身がユダヤ人であることから分かるように、謎に満ちたハザールの歴史を検証し、アシュケナージムのルーツを探るのが、純粋な彼の執筆の目的だったのです。
アーサー・ケストラーは、この著作が『イスラエルという国家の存在する権利の否定に結びつけられてしまうという危険性』を懸念し、『イスラエル国家の存在権は(アブラハムが神と交わした神話的契約ではなく)国際法に基づいているのである』と強調し、自身が解明した“ハザール説”とアシュケナージによるイスラエル国家の支配が関係が無いことを主張することになります。
さらに、アーサー・ケストラーは、『反ユダヤ主義』とは、セム民族(古代中東でセム系の言語を話していた民族)に対する民族差別でもあるが、
『アシュケナージがアブラハム、イサク、ヤコブの種より、フン人、ウイグル人、マジャール人により近い』ということになれば、
『アンチ・セミティズム(反セム主義)』という言葉は虚しく、
『それは殺戮者と犠牲者双方の誤解に基づいて生まれたことになる』として、ハザール王国の物語は『歴史の最も残酷ないたずらである』とも書いています。
つまり、アシュケナージが、ハザール起源であるのなら『反ユダヤ主義』(反アシュケナージム)や『反セム主義』というもの自体に根拠がなく、ただ残酷で虚しいと言っているのです。
その後、アーサー・ケストラーの『第十三支族 ハザール帝国とその遺産』は、日本においては、宇野正美氏による翻訳で『ユダヤ人とは誰か 第十三支族・カザール王国の謎』として1990年に出版されました。
そして、その宇野正美氏は、その数年前の1986年にベストセラーとなった『ユダヤが解ると世界が見えてくる』などで、ユダヤ人(アシュケナージム)が世界征服を策謀する源泉となったと言われる『シオン賢者の議定書』の内容を引用していたことで、『日本で反ユダヤ主義が台頭している』という原動力としてニューヨーク・タイムズなどから批判されることになるのでした。
この時すでに、この批判を受けていた宇野正美氏は『反シオニズム』や『ユダヤ陰謀論』に傾倒していると評価され、
その後は『古代ユダヤ人は日本に来ていた』と主張するようになって行くのです。
『ユダヤ人とは誰か 第十三支族・カザール王国の謎』の翻訳出版は、まさに、この時期のもので、宇野正美氏は『訳者序文』で『アシュケナージはカザール人である』というのはユダヤ社会の常識であるとして、
『アシュケナージ・ユダヤ人、すなわち元は中央アジアにいたカザール人が、なぜそのように(自分達の先祖がこの地に住んでいたから自分達もここに住む権利があると)主張するのか』と序文に書いています。(カザール人=ハザール人)
これは、アーサー・ケストラーが危惧していた『反ユダヤ主義』(反アシュケナージ)を肯定し、
逆に『反セム主義』を否定するものだったと言えます。
客観的に見れば、この宇野正美氏の主張は、真っ当なものなのですが、なぜ陰謀論者とレッテルを貼られて『反ユダヤ主義』だと海外から批判されるようになってしまうのでしょうか?
では、本当の真実はどうなのか?
『ヨーロッパのユダヤ人』であるアシュケナージはハザール人ではないのか?
『ハザール滅亡後に、黒海沿岸にいたユダヤ教徒たちがロシアやモンゴルから追われて西へと移動し、東欧に定住したのがアシュケナージだ』との説が唱えられるようになり、
これが正しいのなら、イスラエルの政治や経済の中枢を構成する『ヨーロッパのユダヤ人(アシュケナージム)』は、中東起源ではないのだから、イスラエルやパレスチナの地への『正当な歴史的権利』を持たないことになると言うのですが、この理論自体に疑問があります。
そもそもですが、黒海沿岸地域と言えるアンカラ(トルコ)などは、イスラエルまでの距離は1500km程度です。
これは、日本で言えば青森~下関くらいの距離で、しかも完全な陸続きな訳ですから、古代からそこに住む人々が混血しているのは当然なのです。
アシュケナージの出自がハザールであろうと、遺伝調査で中東との繋りが示されることは、何ら不思議でも何でもないと言えるでしょう。
つまり、これらは、何の問題なのかと言うとアシュケナージの出自を解明しようとすると『反ユダヤ主義』だというレッテルを貼られ弾圧を受けるということが本当の問題であり、アシュケナージがハザール人の血統であろうが、中東系の血が混ざっていようが、そんな事は当然の事で、本来なら大した問題ではないということのです。
歴史家が“ハザール”に触れることを避けるようになったのは偶然ではなく、何者かの圧力が働いていて、ことあるごとに『反ユダヤ主義』だとか『陰謀論者』だと言われてしまうということが本当の問題なのです。
本来は、アシュケナージのハザール起源説は、もともとは『反ユダヤ主義』ではなく、ユダヤ人自身がルーツを探す過程で唱えられるようになったということ。
それがイスラエル建国によって、その反対派による『反アシュケナージ』の“煽動”に使われるようになったことで、世界的に権力を握っているアシュケナージ(国際金融資本)がハザール起源説の“火消し”にかかったというのが実態でしょう。
かくして『アシュケナージの原泉はハザールである』という話しは、陰謀論として語られる架空の物語であり、荒唐無稽な都市伝説となってしまったのです。
しかし、宇野正美氏が主張することの中に、一つ非常に気になる話しがありました。
それは『古代ユダヤ人は日本に来ていた』という話しです。これは本当なのか?
ここからは、少しそのことを考察して行きたいと思います。
まず、確認しておかなければならないのは『ユダヤ人』というワード自体に、かなりの作為的な語弊があるということです。
先の話しでも出ていたように、古代イスラエル人は12の支族に分かれていました。
その中の一つがユダ族であり、そのユダ族の信仰する宗教がユダヤ教であるということ。
そして、現代においてユダヤ人とは、そのユダヤ教を親子三代に渡って信仰している人物をユダヤ人と定義していて、決して血統や血筋によって裏打ちされた民族ユダヤ人ではないということです。
宇野正美氏は『古代ユダヤ人は日本に来ていた』と言っていますが、
日本には『日ユ同祖論』というものが存在します。
歴史を紐解くと、古代イスラエルの時代に、当時の北イスラエル王国がアッシリア帝国によって滅ぼされ、その他の人々は東方へと追われました。
これら東方に追われた人々が有名な『失われた10支族』であり、日本に渡来したとされるのが『日ユ同祖論』です。
ここにユダヤ人の定義を分かりづらくしているトリックがあります。
この『日ユ同祖論』とは簡略化しなければ『日本ユダヤ同一先祖論』ということになりますが、古代イスラエル12支族のうち、南のユダ族(後のユダヤ人)は東方に追われることなく、パレスチナの地に残り続けるのです。
このパレスチナに残った南ユダ王国の人々が、後のユダヤ人であり、その人達の宗教がユダヤ教なのです。
つまり、紀元前8世紀にアッシリア帝国に滅ぼされて東方に追われた北イスラエル王国の10支族は『古代イスラエル人』ではあるけれど『ユダヤ人』と呼ぶのは間違いであるし、10支族の人々がユダヤ教徒であったという証拠はどこにも無いというのが現実です。
実際、日本の宗教とユダヤ教には類似点はあるものの、日本の宗教が基本的に多神教的なアニミズム(自然崇拝)であるのに対してユダヤ教は、いわゆる一神教であるので別物と言えます。
共通点は『万物に神が宿る』と考えるところでしょうか。
なので、正確には
『日本イスラエル同一先祖論』(日イ同祖論)とでも呼ぶべきだということです。
失われた10支族は、恐らく拝火教徒(ゾロアスター教)と同化し、太陽信仰のもと、太陽が昇る方向へと旅を続け、約束の地である日本へ渡来したと考えるのが妥当なのではないのでしょうか。
現在、中国共産党(毛沢東のバックはロスチャイルドだった)から迫害を受けているチベット人やウイグル人も、この失われた10支族の末裔であると言われています。
一方、パレスチナ(イスラエル)に残ったユダ族とベニヤミン族の2支族、及び祭祀のレビ族が後のユダヤ人であり、セム系のルーツです。
ちなみにハム系とはアフリカを中心に広がった系列であり、ヤテペ系はヨーロッパを中心に広がった系列です。
ノアの箱船で知られるノアには三人の息子がいました。
その息子たちの名前が『セム』『ハム』『ヤテペ』であり、各々の宗派の開祖となったわけです。
セム系やハム系の末裔であるアラブ及びアフリカ系のユダヤ人が『スファラディー』と呼ばれる人達で、反シオニズムでありイスラエルとアラブ人が争うことには反対していると言われています。
また、同一系でイスラエルから東方の中東地域にはヘブライ語で東を意味する『ミズラヒ』と呼ばれるユダヤ人も存在します。
そして、ヤテペ系の末裔が白人系ユダヤ教徒の『アシュケナージ』です。
これがロスチャイルド家を筆頭に、現代社会において“ユダヤ人”を名乗り、世界を裏から動かそうと謀っている人達です。
支配層にいる人々を総称してアシュケナージと呼ぶ人もいます。
彼らアシュケナージは、本当のルーツを持つスファラディーやミズラヒや『失われた10支族』(10支族は日本人、チベット人、ウイグル人に比定される)に対して非常に攻撃的です。
『ユダヤ人迫害』というワードは良く耳にしますが、ここにも彼らの巧妙なトリックが隠されていて、本当のユダヤ人を迫害しているのはアシュケナージなのです。
“ユダヤを自称”してシオニズを唱えるヤテペ系(アシュケナージ)の人達が『反セム主義』というユダヤ人差別を煽動し、本当のユダヤ人を攻撃して殺戮を繰り返しているのです。
もちろん、彼らのバックアップで現在のチャイナ地域を統一した中国共産党が、10支族の末裔であるチベット人やウイグル人を迫害しているのも偶然ではありません。
つまり、彼ら、アシュケナージがチベット人やウイグル人を迫害している張本人なのです。
それにしても、しかし、宇野正美氏が、日本に来たと言っているのは『古代イスラエル人』ではなく『ユダヤ人』です。
では、いわゆる渡来人の中にユダヤ人がいたのかを調べてみると、数々の物的証拠が存在します。
幕屋、籠目紋、鳥居、相撲、御神輿、餅、山伏、頭襟、守屋山など、挙げれば切りがない程、日本にはユダヤ教との共通点が存在します。
全てを説明していたら本当に切りがないので、分かりやすいところで、ここでは『鳥居』だけを説明しましょう。
トリイ(鳥居)は、ヘブライ語アラム方言で『門』という意味であり、日本の神社の鳥居が赤いのは、ユダヤ教では過越しの前に、玄関の鴨居と二本の柱にヒソプ(植物の刷毛)で羊の血を塗り、赤く染めていました。
鳥居は、その赤い門を意味するとされ、『門』はヘブル・アラム語で『タラア』とされています。
ユダヤ人の過越祭(ペサハ)は、モーゼによる『エジプト脱出』(紀元前1290年)にルーツを持っていますが、同じく、日本の年越しや鳥居も、ここにルーツがあると言われているのです。
モーゼは、強情なエジプト国王ラムセス2世に、ヘブライ奴隷集団の脱出を認めさせるために“魔術競争”を挑んだのですが、しかし、エジプト脱出前日に“殺戮の天使”がエジプト全土に襲いかかって来ることになります。
その時、モーゼは、ヘブライ人たちに神の災いに合わないように、玄関口の鴨居と二本の柱に羊の血を塗らせ、災いが静かに通り過ぎるまで家の中で待つように指示したのでした。
これこそが赤い(朱塗りの)鳥居のルーツであり、年越しのルーツであるとされているのです。
これだけではなく、考古学的にも『古代ユダヤ人は日本に来ていた』という証拠があります。
それが、いわゆる『ユダヤ人埴輪』です。
先日、私自身も研究のため、千葉県山武郡の殿塚古墳と姫塚古墳がある芝山古墳群と『芝山古墳・はにわ博物館』を訪れ、実物を見てきました。
実際に目の当たりにすると、その異様さが際立ちます。
現代日本の礎になったはずの日本の遺構でありながら、いわゆる“和のテイスト”というものを全くと言っていいくらい感じられない物ばかりなのです。
こちらが、いわゆる『ユダヤ人埴輪』ですが、特徴的な高い鼻、幅広の鍔がついた帽子、耳元の美豆良(みずら、角髪)と顎髭という風貌は、まさにユダヤ人その物です。
彼らは、一体何者だったのでしょう。

この日本古来の髪型であるはずの美豆良は、正統派ユダヤ人のペオート(角)やシマニム(印)と呼ばれる正統派ユダヤ人の正装の髪型に酷似しています。
旧約聖書のレビ記(19:27)には『汝らの頭の鬢毛を剃ってはならない。汝の髭の端(ペア)を損ねてはならない』という掟が記されています。
そして、エレミヤ書(9:25)にも『エジプト、ユダ、エドム、アモン人、モアブ、および荒野の住人でこめかみを刈り上げているすべての者を罰する』とあります。(新改訳1970では9:26)

一説では、ヘブライ語の『ペア』の複数形が『ペオート』で、伝統的に両側の『もみあげ』と解釈されているのです。
誰であっても、一度でも、この埴輪がユダヤ人であると思ってしまったら、もう何をしても正統派ユダヤ人にしか見えないはずです。
さらに、この時代の古墳からは、馬の埴輪も多く発見されるのも特徴で、馬に関しては埴輪だけでなく、馬具や馬の鎧や装飾品も数多く発見されています。
この、古墳時代の人々が、なぜ、そこまで馬が好きだったのか?
疑問ではありますが、恐らく、その圧倒的な移動性(移動距離)と戦闘時における圧倒的な機動力(戦闘力)に依存した生活を送っていたからなのでしょう。
そして、実は、馬が好きというのは、現在の神社に祀られている神々たちも同じで、絵馬に願い事を書いて神さまにお供えすると、その願い事を神さまが叶えてくれるというのは、この古代の神々と言えるご先祖さまたちが、馬が大好きであったことに由来すると言われているのです。

つまり、古墳時代から日本の神々は馬に依存していたということなのです。
それにしても、出土品の中でも、やはり、日本的な物は、勾玉や鉄剣などの遺物でしょう。
これらは各地の考古学的な歴史博物館などでは見慣れた物です。

そして、勾玉や玉に空けられた針の穴ほどの小さな穴は、一体どうやってあけたのか?
高温でなければ溶けない鉄を用いて、どうやって剣を作ったのか?
着物や鎧は、どのように作られたのか?
この時代の日本人の技術力の高さは、本当に不思議な物ばかりです。
興味深いのは、この『ユダヤ人埴輪』の時代の鉄剣は直刀なのですが、片刃で、ほとんど日本刀と呼んでいいような造形なのです。
江戸時代まで脈々と続く日本刀の作刀技術である『水減し』『折り返し鍛錬』『焼き入れ』など、鉄を鍛錬する技術に繋がっていると思うと感慨深いものがあります。
今の日本人とその産業がエンジン作りや自動車のシャシーなど鉄鋼の技術に優れているのは、何も現代的な技術ではなく、古代から脈々と受け継がれてきた日本人の特技なのです。
そして、この芝山町近辺は非常に歴史が古く、同じ場所から縄文時代の遺物から新しい物では室町時代の遺物まで出土するという、太古から人々の営みがあった場所なのです。
文学博士で、東北大学名誉教授である田中英道先生によると、この辺りは日高見国と言って、天孫降臨以前に神々が暮らしていたという高天原に比定できる場所であると言います。
香取神宮や鹿島神宮を中心とした関東平野から東北地方が本当の高天原であったとの主張です。
これを裏付けるように、この美豆良を付けた『ユダヤ人埴輪』は関東地方や東北各地で出土されているのです。
今回も私自身、実際の古墳に足を運んで現地を視察して来ました。
これまで埼玉古墳群や西都原古墳群などを巡り、数多くの古墳を実際に見てきましたが、今回の殿塚古墳と姫塚古墳もなかなかの大きさの古墳でした。

姫塚古墳は、マイカーで目の前まで近付けたのは驚きでした。
ということで、ここ芝山古墳群とユダヤ人埴輪についてなのですが、ここでの考察は少し割愛して、先に進むことにしましょう。
これら物的証拠も然ることながら、ここでは、まず、古代において、中東から極東の日本まで、人間が歩いて辿り着けたのか?ということをもう少し考察して行きたいと思います。
シルクロードの東西を人間が徒歩で横断するには20年近くかかるというのが定説です。
これでは、寿命が短かったという古代人では難しかったのでは?ということになります。
では、どうやったら、古代ユダヤ人は、極東の日本まで来ることが出来たのか?
何か有効な乗り物でもあったとでもいうのか?
しかし、なんと、そんな乗り物が古代にも存在していたのです。
そうです、それが“馬”です。
そう、神々が大好きな馬なのです。
モンゴル帝国の時代であれば、騎馬民族は、このユーラシア大陸を馬で、1日に250マイルから300マイル(400~500km)走れたと言います。
シルクロードの、いわゆる『オアシス・ルート』の直線距離は約1万3000kmです。
単純計算で、この距離を1日に500km走れるという馬で移動した場合、僅か26日で走破してしまう距離です。
当然、これは単純計算での話なので、実際の山脈など起伏のあるルートや河川などの迂回も考慮して探らなければなりません。
では当時、古代ユダヤ人が、実際に中東から日本まで移動した場合、一体どれくらいの時間がかかったのか?
東北大学名誉教授である田中英道先生の計算によると、日本に渡来した古代ユダヤ人とは、応神紀において日本に渡来したとされる帰化氏族の『秦氏』であると言います。
もし、この渡来した古代ユダヤ人が、秦氏であったのなら、中東から、日本列島への通り道である朝鮮半島までは、僅か3年程度で移動できたと言います。
つまり、芝山古墳群から出土されるユダヤ人埴輪の正体は、トルコや中東からやって来て、朝鮮半島を通過して日本に帰化した古代ユダヤ人である秦氏であった可能性が非常に高いのです。
秦氏についても、話し出せば切りがないほど、古代の日本において、欠かすことの出来ない最重要な“ピース”であることは間違いないのですが、やはり今回は、紙面の都合から早足で先に進んで行きたいと思います。
秦氏無くして日本の歴史は語れないと言うほど、それほどまでに日本にとって重要な帰化氏族だったということは間違いありません。
今回は、早足に通り過ぎますが、これらのことは、検閲され尽くした現代の日本の学校歴史教育や新聞やテレビでは、ほとんど語られることのない事実なのです。
それでは、秦氏だけに拘らず、日本の古墳時代を見て行きましょう。
西暦250年頃から、およそ350年間続いたという古墳時代ですが、果たして、こんな時代に、本当に中東から渡来人が、この極東の日本にまで来ることが出来たのか?
来ていたと言うのなら、来ていたという確固とした証拠でも有るのか?
しかし、それが、なんと有るのです。
それが、奈良県橿原市にある5世紀頃に築かれた『新沢千塚126号墳』です。
新沢千塚(にいざわせんづか)古墳群は、4世紀から6世紀の古墳群です。
約600もの古墳は、小型の円墳が中心ですが、その中の『新沢千塚126号墳』は、長辺22m、短辺16mの長方形の墳墓です。
決して大きな部類には入らないこの古墳からは、沢山の貴重な品々が見つかりました。
この墳墓は5世紀後半頃に築造されたもので、考古学的には一応というか、一般的に長方形の『方墳』であるとされている墳丘墓です。
しかし、おかしいのは、『新沢千塚126号墳』は、墳丘実測図面と実測断面図を見る限り、『前方後方墳』に分類されていても良い構造にも関わらず、なぜか『方墳』とされています。そして、なぜか、メディアで取り上げられることもほとんど無いので世界はおろか、日本人でも知る人は少ない古墳です。
この隠蔽体質にも、何か見えない勢力の力が働いているのではと勘繰ってしまいますが、それほどまでに、この墳墓の発見は重要であると言えるのです。
『新沢千塚126号墳』の発見は、もしかすると、ここでの今回の考察が立証されれば、世界中の戦争の火種となっている世界宗教の問題や、そもそもの世界宗教史や日本史のみならず世界史までもがひっくり返る可能性すらある大発見なのであります。
『新沢千塚126号墳』の発見は、“黒幕”たちにとって、かなり都合の悪い遺物なのかも知れません。
なぜなら、反日勢力は、この遺物と中国や朝鮮半島を執拗に結び付けることに終始しているのが現状だからです。
では、この『新沢千塚126号墳』には、どんな遺物が残されていたのか見て行きましょう。
・円筒埴輪破片1
・青銅製熨斗1
・漆盤3
・滑石製勾玉1
・滑石製臼玉361
・鏡1
・ガラス製碗1
・ガラス製皿1
・金製方形板1
・金製垂飾付耳飾2
・金製螺旋状垂飾2
・翡翠勾玉4
・金製丸(空)玉2
・銀製丸(空)玉40
・ガラス製粟玉321
・ガラス製金箔入り丸玉2
・金製腕輪1
・銀製腕輪2
・金製指輪5
・銀製指輪3
・ガラス製小玉8
・帯金具1
・ガラス製雁木玉2
・金製歩揺382
・ガラス製丸玉649
・鉄刀3
以上が出土品です。
ここで、一般的(意図的)に注目され、誇張されるのが、木製の棺の外側で発見された、四神(しじん、中国の神話で東西南北を守る四つの神格)と思しきものが描かれた漆盤(うるしばん)や棺の中の人物が身に付けていたと思われる、豪華な装飾品などです。
服には歩揺(ほよう)と呼ばれる小さな金属の飾り、また、金製や銀製の合計8つの指輪、3つの腕輪、非常に繊細に作られた耳飾りなどが出土したのですが、これらは、なぜか中国大陸や朝鮮半島で作られた物だったのではないかと強く主張されるのです。
しかし、一番重要な発見は、これらの装飾品ではなく、本当に重要なのは、ガラス皿とガラス椀です。
なぜなら、これらは、ササン朝ペルシアから持ち込まれた物であると考えられるからであります。
ガラス皿(J-37205)は、宙吹き成形で作られ,高台も本体から摘まみ出して作られていて、底部にポンテの痕跡があります。
皿の内面には金彩で鳥、樹木、人物、馬などが描かれていた痕跡があり、このガラス皿は,主体部の木棺内からガラス碗をのせた状態で出土されました。
製作地は、その図柄からササン朝ペルシアであると考えられています。
さらに、ガラス椀(J-37204)は、宙吹き成形で作られ,口縁は切り離したままの状態で未整形で、器壁は1~2ミリ程度と非常に薄い作りになっています。
底部に2段、胴部には5段の円形切子の装飾が施されていて、底部と胴部の3段の切子は磨き途中で不透明になっているのが特徴で、これが意図的なものかどうかは分かりません。
紺色のガラス皿とセットで出土していることからも、こちらもササン朝ペルシア製であると考えられ、正倉院宝物の白瑠璃碗(ペルシアングラス)と酷似します。
そうです、これらの物的証拠が示すように、日本には、古来から中東(西アジア)との往来があったと考えるのが妥当なのです。
正倉院宝物の白瑠璃碗は、江戸時代になって初めて発見されたので、後世になって日本に持ち込まれた物であるというのが、一般的な通説(プロパガンダ)です。
しかし、正確に精査すれば、真実が見えてきます。
正倉院は、元は東大寺の仏具などを納めるために建てられた付属的な倉庫でした。
西暦756年、聖武天皇の七七忌の法要に際し、光明皇太后が東大寺に天皇の遺品や宝物を施入したのが正倉院御物の始まりとされています。
正倉院に3つある倉のうち、当初、勅封蔵(宝庫)だったのは北倉のみで、後に中倉が作られ、最終的には南倉も加えられますが、長い間、正倉院は東大寺の倉庫としても使われていました。
つまり、その間、北倉、中倉、南倉の間で宝物の移動が幾度となく繰り返されていたのです。
そして、開封点検の対象とされたのは、当初は勅封蔵の北倉のみで、後に中倉が加わり、南倉が初めて対象となったのが元禄6年(江戸時代)であり、南倉はこの時に初めて点検目録が作成されたのです。
そうです、正倉院の宝物は、江戸時代になるまで、全てが点検された事はなかったのです。
『正倉院宝物の白瑠璃碗は後世になってから持ち込まれた物だ』という“定説”は、
『近代になってから発見されたのだから、近代になってから持ち込まれた物だ』という、あまりに強引な理屈がまかり通ることによって成り立っているのです。
恐らく、本来なら、日本は、古来から中東との往来があったというのが常識だったと考えるのが妥当なのでしょう。
我々日本人は、明治維新、そして、その後のGHQの政策によって情報統制され、ウソを教え込まれ続けたせいで、情報統制されていることにすら気付けない程に骨抜きにされただけでなく、ウソをウソとも思わない、中身の無い、空っぽな人間に仕立て上げられてしまったと言ったら言い過ぎでしょうか?
しかし、肩を落としている暇は、今の私たちには無いようなので、気を取り直して、この先を見て行きましょう。
果たして『新沢千塚126号墳』の被葬者は、古代ユダヤ人だったのか?それともペルシア人だったのか?帰化氏族である秦氏だったのか?
では、ここからは、ササン朝ペルシアとは、どんな国だったのかを見て行きましょう。
ササン朝ペルシアは、3世紀にパルティアに替わりイラン高原を支配した農耕イラン系国家です。
ローマ帝国やビザンツ帝国と抗争します。
ゾロアスター教を国教とし、高度なイラン文明を発達させましたが、7世紀半ばにイスラム勢力の侵攻を受け滅亡したというのが概要です。
ササン朝ペルシアは、古代のイランにおいて、西暦226年に、パルティアに替わって登場した王朝です。
パルティアが遊牧イラン人主体であったのに対し、ササン朝は農耕イラン人であるペルシア人が主体で建国しました。
初代はアケメネス朝と同じペルセス地方を拠点としたアルデシール1世でですが、この古代国家は一般にアルデシール1世の祖父の名に由来する『ササン朝ペルシア帝国』と呼ばれるようになります。(自称はエーラーン帝国=アーリア帝国であると言われる)
都はパルティアと同じくティグリス河畔のクテシフォンに置かれました。
この王朝は自らの正当性をイランの伝統を継承することに置いたので、この時点でゾロアスター教を国教としました。
そして、西暦226年、アルデシール1世が、自らが『王の王』と自称して王位に就きます。
アルデシール1世の祖であるササン家はペルセス地方(ペルシアの故郷)のイスタフルという町にあるゾロアスター教の大寺院の世襲の守護者であったと言われています。
紀元後3世紀の初め、その一族のパーパクが、パルティア王国の臣下の地方王朝から、その地方の権力を奪い、次いでその末子のアルデシール1世が兄に代わってその地位を継承しました。
アルサケス朝パルティアのアルタバーヌス5世はそれを認めず、軍隊を派遣しましたが、224年にアルデシール1世が戦いに勝利し、パルティア王であるアルタバーヌス5世は殺されました。
パルティア王アルタバーヌス5世の死は、全イランに衝撃を与えましたが、アルデシール1世の野心は留まることなく、2年のうちにイランの西部地方を従え、226年に自ら『王の王』として戴冠したのでした。
アルデシール1世は、軍事的天才というだけでなく、行政的統治能力にも長けており、ペルシア帝国を再現するための宗教的プロパガンダとして、アルサケス朝パルティアよりも自分たちは信心深く、アケメネス朝ペルシアの『アフラ・マズダ信仰』を継承する正統であると宣伝しました。
それを助けたゾロアスター教祭司団の祭司長(マギ)が、タンサールという人物で、タンサールはササン朝が正統なゾロアスター教の保護者であることを示すために、地域でばらばらだった教徒集団を単一のゾロアスター教の教会に統合し、『アヴェスター』の本文の唯一の正典を確立し、暦を改定し、死者などの偶像を破壊して王朝の認めた寺院の“火”のみを崇拝するようにしたのでした。
このようなゾロアスター教の『国教化』は、次のシャープール1世が異端のマニ教に傾倒したため、一時衰えましたが、その後の王によってさらに推進され、ホスロー1世の時に完成することになります。
ササン朝のシャープール1世時代は、西方のユダヤ人の中から興ったキリスト教と東方のインドに興った仏教の影響がイランにおよび、イラン本来のゾロアスター教が大きく動揺した時代でありました。
特にバビロンで活動したペルシア人のマニ(マーニー)は、グノーシス派キリスト教と仏教の影響を受けてゾロアスター教と折衷させた新たな宗教の教祖となったのでした。
シャープール1世は、ゾロアスター教を国教とすることは継続していましたが、この新興のマニ教に対しても寛容で、むしろ保護を加える姿勢を取ることになるのです。
4世紀に70年間在位したシャープール2世の時代にもローマとの関係は緊張が続いていました。
その背景には313年にコンスタンティヌス帝のミラノ勅令によって、遂にキリスト教が公認されたことがあったのです。
当時、ササン朝ペルシア帝国の中のアルメニアやシリアに住む多数の原始的なキリスト教徒は、ゾロアスター教が国教とされていたため迫害されていたので、ローマの保護を受けることを望むようになっていました。
ところが、325年のニケーア公会議でアタナシウス派の三位一体説が正統として定められましたが、ササン朝支配下の西アジアにはネストリウス派の信仰が浸透していたので、宗教を巡るローマとササン朝の関係は複雑になって行くのです。
コンスタンティヌス帝とシャープール2世は、アルメニアをそれぞれの勢力下にあるとしたので、アルメニア王はローマとペルシアの双方に朝貢してバランスを取ろうとしました。
両者のアルメニアを巡る攻防は断続的に続き、ローマ帝国のユリアヌス帝は、363年には都であるクテシフォン付近まで遠征して来ましたが、シャープール2世のササン朝軍に敗れ、ユリアヌスも戦死することになります。
431年には、エフェソス公会議で、原始的キリスト教のネストリウス派が異端とされました。
ササン朝支配下の西アジアではネストリウス派の影響力が強く、さらにローマ領内で追放されたネストリウス派がササン朝領内に逃れて来ていたのでした。
ササン朝はこれらのネストリウス派キリスト教の信仰に寛容であったので、その信仰はササン朝領内に広がって行ったのです。
しかも、その頃、北インドのクシャーナ朝は衰退し、ササン朝と中国(魏晋南北朝時代)が国境を接するようになったので、ネストリウス派キリスト教は、中国に伝えられることになり、中国では、これが『景教』となりました。
また、グノーシス派や仏教を取り込んでイランのゾロアスター教から派生したマニ教も中国に伝えられ、こちらは『摩尼教』となり、ともに唐代に長安などで盛んに信仰されることになるのです。
シャープール1世の時代は、マニ教を一時保護し増長したため、ゾロアスター教祭司団は危機感を強め、祭司長のキルデールはシャープール1世の死後、王となったホルミズド1世に働きかけてマニ教を異端として弾圧し、捕らえさせました。
その後、何代もの国王に仕えて長期にわたって祭司長を務めたキルデールは、勢力の衰えないマニ教に対抗してゾロアスター教の教義を明確にするため『アヴェスター』の編纂を急ぎ、さらには、イラン全土でのペルシア語の公用化を図ったのでした。
さらに、ホスロー1世の治世における文化は、学芸文化の面でもササン朝の最盛期でありました。
529年、ビザンチン帝国のユスティニアヌス帝の異教禁圧によってアテネのアカデメイア(哲学の学園、アカデミア)が閉鎖されると、ギリシア人学者の亡命を受け入れ、首都クテシフォンに哲学や医学の研究機関を設立して、ギリシア人やインド人による著作のペルシア語翻訳を盛んに行ったのです。
また、シリアから多くの職人を移住させ、金銀細工やガラス器などの優れた作品が生み出されたのでした。
そして、聖典『アヴェスター』の編纂が行われます。
ホスロー1世はマズダク教を厳しく弾圧し、ゾロアスター教を国教として熱心に保護したことで『アノーシラワーン』(不滅の魂の持ち主)という称号を得ます。
また、国教としてのゾロアスター教の教義を明確にするため、それまでは“口承”で伝えられいて、文献としては断片として残っていたに過ぎなかったその聖典『アヴェスター』の編纂を進めました。
現在見ることのできる『アヴェスター』はこの時期に編纂された物の一部です。
ササン朝ペルシアの文化と社会は、ゾロアスター教を国教としたことが特徴です。
また、このササン朝で、マニ教が興ることになりましたが、結果としては、これらは厳しく弾圧されることになりました。
ササン朝ペルシアの社会は農業を基本とした厳格な階級社会であり、その上にササン朝の専制君主制が成り立っていたのです。
ササン朝で生まれたイラン独自の文化であるササン朝文化は、シルクロードを通じて、日本を含む東アジアにも影響を与えたのでした。
このようにササン朝ペルシアという国は、太陽崇拝のゾロアスター教(拝火教)を国教とし、しかも秦氏も信仰したとされる原始キリスト教ネストリウス派(景教)に寛容であり、さらには、マニ教(摩尼教)も隆盛していたのです。
このようにササン朝ペルシアという国家を考察した上で、もう一度『新沢千塚126号墳』から出土した遺物を見直すと、興味深い物があることに気付きます。
それが『金製方形板』です。
この紋様は、いわゆる『唐草文様』と呼ばれるものです。

↑『新沢千塚126号墳』から出土された実物。
唐草文様は、日本人にとっては、風呂敷の柄として馴染みが深い絵柄ですが、その起源は古く、古代メソポタミアやエジプトで生じたもので、そこから各地に伝播したと言われていて、古代のギリシア神殿のアカイア式円柱などに見られる草の文様が唐草文様の原型の一つであると考えられています。
有名なのはメソポタミアの葡萄紋様ですが、唐草文様は世界中に伝播され、現パキスタンのガンダーラ美術、インドのサーンチー、中国の雲崗石窟などで様々な唐草文様が確認できます。
日本では、古墳時代より使われ、平安時代には唐華、唐草と呼ばれていました。
その後、日本の文化に融合した松竹梅や鶴亀、菊などの発展がありました。
また、古代エジプトの睡蓮の文様は、イスラム美術のアラベスク文様にも影響を与えたと言われ、イスラムでは食器、陶板などの表面デザインに描かれたり、建築美術でも礼拝堂の天井、壁面の装飾に用いられています。
イスラムのアラベスク(紋様)は、狭義では唐草文系の意匠を意味し、広義では、文字系や幾何学系も含むと言われていますが、新沢千塚126号墳出土の『金製方形板』の唐草文様は、このイスラム系のアラベスクに近いようにも見えます。
金銅製帯金具とアラベスク調の垂飾部↓
このベルトのバックルの造りと装飾のデザイン性は、現代の技術やファッション性にも全く引けを取らない物です。
唐草文様は、日本には、シルクロード経由で伝わったとされているので、やはり、この新沢千塚126号墳の被葬者が、イスラエルを含む中東と何らかの関係がある人物であったのは間違いありません。
『騎馬民族征服説』を執拗に嫌う保守的な右派の方々が嫌う言説になってしまいますが、
ササン朝ペルシアから渡来人がやって来ていたということは、馬に乗ったテュルク系民族(騎馬民族)が日本にまで来ていたことになります。
ここまで見てきたように、それについては、ほぼ完全な証拠があると言えるのです。
テュルク系民族とは、チュルク語族の言語を使用する民族集団のことで、ユーラシア大陸の中央部を斜めに貫く、東シベリアからトルコ共和国にまで及ぶ乾燥地域を中心にシベリア、中央アジアおよび西アジア、東欧などに広域に渡り分布する古代からの民族です。
しかし、この騎馬遊牧民族を野蛮な盗賊や戦闘民族と嫌う事なかれ。
というのは、この民族が、紀元前8世紀にアッシリア帝国に滅ぼされて東方に追われた北イスラエル王国の10支族である『古代イスラエル人』と同化した末裔であると考えられるからです。
それだけに『テュルク系』と言われる人々は優秀で後世まで勢力を維持し続けます。
彼らは、元々は紀元前の月氏から始まる大月氏(ターキッシュ)だったと考えられます。
イラン系の遊牧氏族であるとされる月氏は、現在の中国の甘粛省付近(黄河上流域)を拠点としていましたが、起源前3世紀の末に冒頓単于が率いる匈奴に攻撃されて敗走し、西方に逃れます。
天山山脈の北のイリ地方のイシク湖周辺へ逃れて起源前2世紀に大月氏(ターキッシュ)と名乗りました。
彼らは、ササン朝以前のパルティア時代に、広域へ分布したのでしょう。
現トルコの語源となっている『テュルク』という名称の語源は、大月氏(ターキッシュ)だけでなく、丁零(テイレイ、前3世紀~5世紀)や拓跋(タクバツ、2世紀後半)も同じだと考えられます。
そして、突厥(トッケツ、6世紀頃)や鉄勒(テツロク、6~7世紀)や突騎施(テュルギシュ、8世紀)。
さらには、イスラム教に改宗したトゥルクマーン(10世紀)なども、これら全てが同根の遊牧騎馬民族であったと考えられるのです。
古代イスラエルの10支族が、太陽信仰のゾロアスター教(拝火教)化して、極東の日出ずる国である日本に渡来したという話しとは相反するのですが、
もしも、何らかの“月信仰”があって、月氏が
テュルク系民族の元となったなら、現在のトルコ共和国の国旗のマークが月なのも、イスラム教の象徴が月なのも頷ける話しです。
月氏は翡翠(玉、ヒスイ)の産地(タリム盆地)を治めていたので、玉氏が訛って月氏になったとする説もあるので、もしかしたら、日本の翡翠製の勾玉が月の形をしている事とも何か関係があるのかも知れません。
また、帰化氏族であった秦氏の別名は、弓月君(ユヅキノキミ)というのも意味深長です。
もちろん、失われた10支族が信仰していた宗教は分かりませんし、南ユダ王国が作り上げたユダヤ教とネストリウス派キリスト教やイスラム教は、元が同根であったとしても別のものです。
しかし、これらの人々が日本に辿り着いたというのも、また事実なのです。
広大な中央アジアの高原や草原、また盆地や山脈で、同根である彼らは合流し、約束の地(カヌ・ナー)への道であるシルクロードを進んだのでしょう。
そして、現実の日本を見ると、それらはアイデンティティーを捨て、全てが溶けて、全て日本という国に吸収されたというのが真実の実態でしょう。
『カヌ・ナー』とは、ヘブライ語で『葦の原』を表します。
そして、『ミズホラ』とは、ヘブライ語で『東方の日出ずる国』を表します。
日本の古代の国名は『豊葦原瑞穂国』です。
『日本書紀』神代上には『豊葦原千五百秋瑞穂の地』とあり、神代下には『豊葦原千五百秋瑞穂国』とあります。どちらも『トヨアシハラノチイオアキノミズホノクニ』と読みます。
これらは、絶対に日本の歴史教科書に載せるべき事実です。
これだけの物的証拠が存在するにも関わらず、我々が、いや、世界中がこの事実を知らないのは、このこともまた、ハザールが隠蔽されたのと同じく、この世界の黒幕たちにとって都合が悪いからに他なりません。
日本を神の国と認めたくないという反日主義者は、執拗に隠蔽工作をし、ウソとニセのプロパガンダを繰返し発信し続けます。
中世から続いた魔女狩りの最終着点は、この日本なのです。
この反日勢力の目的は、弓月君の存在を否定し、ネストリウス派キリスト教を否定し、さらに、最も知られたくないのが、天皇が、失われた10支族の血統と、パレスチナで処刑されたイエス・キリストの子孫の血を受け継いでいる可能性があることです。
秦氏について、反日勢力は、弓月国の存在を否定します。
原始的キリスト教徒であったという弓月君(秦氏)がいたという弓月国が存在しないと発信するのはプロパガンダの一つです。
『弓月国なんて国は、歴史書に登場しない』と言いますが、
11世紀の北宋時代に編纂された中国の第一級である歴史書『資治通鑑』に『弓月城』は登場します。
『国』ではなく『城』なので、存在を否定する材料としているのですが、当時は、大国を『国』と言い、小国を『城』と呼んでいたのです。
例えば古代朝鮮の『新羅』(356~935)は『しんら』または『しら』ですが、 『城』の意味を語尾に付けて、『しらぎ』と呼びます。
『城』という程度の小国ではあったものの中央アジアには弓月国という国がちゃんと存在していたのです。
一説では、古代イスラエル王国からアッシリアによって追われた10支族の中のガド族、ルベン族、マナセ族は、黒海北岸のクリミヤ半島にしばらく住んでいたと言われ、後に彼らの手によって建てられた国が弓月国であったと言われています。
それにしても、これらの全ての人々が、争いの無い豊穣の約束の地へ到達することで、文字通り昇天し、日本という国土と、また、その国體である天皇という存在に、全て吸収されたというのが厳然たる状況証拠なのです。
この宇宙の、他の銀河の、他の惑星になら日本以上の神の国が存在するのかも知れませんが、我々の住む地球においては、この日本こそが神の国であることは間違いありません。
ということで、
今回も、かなりの長文となってしまいましたが、出来れば、今回ここでお話した内容は、日本の歴史教科書に載せてもらいたいと思う真実の内容です。
歴史というものは、
疑わしいものは、疑わしいですし、
可能性のあるものは、可能性があると思います。
それらは、全て自由に議論されるべきなのです。
情報操作と情報統制の出来る勢力にとって都合の良い情報というものは、当然真実ではありません。
古代より統治者によって歴史は書き換えられて来ました。
そして、近代の『報道』というものは、約200年前にロスチャイルド家(ユダヤ資本)が作り出したもので、我田引水の為のツールであって、真実や新しい情報(ニュース)を伝える機能はありません。
我々が目にすることの出来る『報道』とは、仮想現実であり、いわゆる“マトリックス”なのです。
まず、このことから一人でも多くの日本人が目覚めなくてはなりません。
なるべく多くの人に伝え、子供たちを育てることだと思います。
少子化は絶対にいけません。
『多勢に無勢』と言いますが、その通りで、支配者にとって少人数の奴隷など怖くはないのです。
これは、当の初代のマイヤー・ロスチャイルド自身が言っていることです。
『矢は、一本なら簡単に折れるが、五本あれば折れない』と。
今回は、本当に長くなってしまいましたが、最後までお付き合い頂き、ありがとうございました。
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