今回も引き続き、今一度、確認しておかなければならないことがあります。
それが『古代ユダヤ人』というワードです。
いわゆる日ユ同祖論において、古代イスラエル12支族のうち、日本にやって来たと言われる『失われた10支族』と呼ばれる人々は、古代イスラエル人ではあるけれど、ユダヤ人と呼ぶには語弊があるということ。
逆に、パレスチナの地に残ったユダ族とベニヤミン族の2支族の人々が後のユダヤ人であるということです。
古代イスラエル12支族↓
ヨルダン川に跨がる12支族の分布図↓
紀元前922年、古代の統一イスラエル王国は“信仰の違い”が原因で、南側のユダ王国と北側の北イスラエル王国に分裂します。
ここが重要なところですが、分裂は“信仰の違い”が原因です。
パレスチナの地に残った南ユダ王国というのは、ユダ族とベニヤミン族という2支族と共にパレスチナに残った、もう一つの支族であるレビ族です。
レビ族というのは少数の指導者層で、宗教的祭司達のことで、現在のユダヤ教徒のラビ(祭司)という人たちは、このレビ族に相当します。
そして、このレビ族(ラビ)の信仰が現存するユダヤ教なのです。
つまり、南ユダ王国の指導者であり祭司であったラビ(レビ)と“信仰の違い”があって分裂したという北イスラエル王国の人々は、ユダヤ教徒ではないし、ユダヤ人と呼ぶのも間違いだということです。
『日本に古代ユダヤ人が来ていた』と言うのなら、パレスチナに残った方の、この南ユダ王国のユダヤ人が渡来していたということでなければならない訳です。
そして、この、古代日本に渡来したユダヤ人だろうと言われ、しばしば比定されるのが、帰化氏族である秦氏です。
彼らは、ネストリウス派キリスト教(景教)の信者だったと噂されています。
日本書紀によれば、応神天皇14年(癸卯、283年)に120県の人々を率いて帰化したという弓月君が秦氏だと言われています。
秦氏は、稲荷神社などを創祀し、また、聖徳太子に仕えて仏教の興隆にも尽力した氏族で、蚕や絹などによる織物、土木技術、砂鉄や銅などの採鉱及び精錬、薬草の知識などにも長けていました。
平安時代初期に編纂された『新撰姓氏録』によれば『秦氏は、秦の始皇帝の末裔』という内容の記載があり、諸説ありますが、
『後漢書』や『魏書』などに西域のローマ帝国を『大秦国』とする記述があり、秦の始皇帝がローマ出身であったという話しもあることから、秦氏のルーツが遠く西方であった可能性は高いと言えるでしょう。
しかし、少し難しいのが、秦氏を確実に、ネストリウス派キリスト教徒(景教徒)だったと決めてしまうことです。
なぜなら、原始的な、本当に当初の、ナザレのイエスという人物への信奉は、
この時点では、宗教や宗派と呼べるものではなく、当然、キリスト教というものは、まだ存在していない時点なので、キリスト教も、その宗派も存在していないはずだからです。
次第にイエスの話しが書物に書かれるようになり、後の新約聖書(偽典、外典)の礎になりますが、
当然、当初は、キリスト教という概念は、ローマ帝国で作り出されるまで存在しなかったのです。
あったのは、ユダヤ教における考えで、ナザレのイエスという人物が、ユダヤ教におけるメシアなのか?メシアではないのか?
という論争だけだったのです。
ナザレのイエスの死後、約300年後、ローマ帝国は、いわゆる『3世紀の危機』を克服して、帝国支配の安定を図ります。
この課程で、コンスタンティヌス帝は、313年にミラノ勅令を出して、ローマ帝国におけるキリスト教を公認し、それによって、自らがキリスト教に対する迫害に終止符を打つのでした。
しかし、この強引な終止符によって、神(救世主、キリスト)を巡る“神学論争”が勃発することになります。
ナザレのイエスの死後、数百年を経ていたため、強引な公認によって、その教えの理解には“矛盾”が生じていたのでした。
コンスタンティヌス帝は教義の統一を画策する必要に迫られるようになっていたのです。
教義上、問題となったのは“キリスト”をどう捉えるかということで、一般信徒には早くからイエスという人物は、神であるという信仰が生まれていましたが、その場合、父なる神とともにイエスも神だとすると、二神論となり唯一神の原理からはずれてしまいます。
そこからイエスという人間は、人間として存在したが、あわせて神性を有していたという解釈が生まれたのでした。
しかし、その場合も、神としての本性と人としての本性はどのような関係があるのか、という疑問が生じ、そこから各地の教会において、様々な解釈が生まれて行くこにとなるのです。
その背景には、キリスト教を哲学的で、また合理的に理解することが教会においても必要であるとされて来たことがありました。
その『キリスト論』という論争の過程は非常に長く続き、それらは深刻で、複雑であり、あまりにも不毛な神学論争が繰り返されることになるのでした。
そして、その“不毛な論争”のすえ、編み出されたのが、検閲と弾圧です。
431年、東ローマ帝国皇帝テオドシウス2世が開催した『エフェソス公会議』において、キリスト教ネストリウス派は、異端とされるのです。
しかし、ローマ領内などヨーロッパでの布教を禁止されたことによって、それらは、かえって東方へ広まって行きました。
ササン朝ペルシアを通じ、唐の太宗の時代の635年に中国に伝わり、景教と呼ばれるようになります。
そして、745年にはそれまで波斯寺と呼んでいた寺院を大秦寺としました。
唐の都の長安の大秦寺には、781年に、景教の布教を記念した『大秦景教流行中国碑』も建てられ、その碑文には『真常の道、妙にして名づけ難し。功用照彰し、強いて景教となす』と記されました。
これは、暗黒世界を照らす光明遍照の宗教(景の字義や光)の意味だったとされています。
この時代になって、ネストリウス派キリスト教(景教)は、ゾロアスター教(祆教)、マニ教(摩尼教)と共に唐において『三夷教』と言われることになるでした。
と、このように、イエスという人物への信仰を、キリスト教という一つの宗教と定義し、さらには、その宗派を確立させるのには、それ相応の時間が必要で、検閲と弾圧、そして、後の異端審問会による魔女狩りが必要だったのです。
応神天皇14年(癸卯、283年)という時代に、キリスト教ネストリウス派や中国における景教というものが日本にまで伝播していたとは考え難いと言えるでしょう。
もし、ナザレのイエスという“カリスマ”の子孫が日本へ帰化し、その血脈が天皇家の血族へ取り込まれていたとしても、
また、太秦(ウズマサ=イシュ・メシア=イエス・キリスト=天皇)を信仰していると自称して、わざわざ西方から日本へ帰化して、その天皇に仕えた秦氏(弓月君)も、
その時点では、いわゆるキリスト教というものも、また、その宗派も存在しなかったというこになるのです。
つまり、秦氏を確実に、ネストリウス派キリスト教徒(景教徒)だったと決めてしまうことは出来ないということなのです。
秦氏が、西方から来た古代ユダヤ人であり、当時、現地で“カリスマ”であったナザレのイエスという人物を信奉していようと、
また、その“カリスマ”であったナザレのイエスの血脈が天皇家に受け継がれていようと、
後付けによって、後からヨーロッパで作られた現在のキリスト教という宗教とは、その宗派に関わらず、関係が無いという事になるのです。
そして、そのことを踏まえた上で、今回のテーマは『古代の修験者は古代ユダヤ人なのか?』ということです。
こちらは秦氏が渡来するまでの年表↓
前回のブログで紹介したように、日本の文化や伝統、そして神道には、ユダヤ教文化との共通点や類似点(幕屋、籠目紋、鳥居、相撲、御神輿、餅、山伏、頭襟、虎之巻、守屋山など)が、数多く存在しています。
日本の神社とユダヤの幕屋↓
御神輿と『失われたアーク』で有名な契約の箱↓
シルクロードの陸路と海路↓
失われた10支族だけでなく、パレスチナに残ったユダヤ人までもが渡来して帰化していたとなると、古代イスラエルの12支族全てが日本人に吸収されたことになります。
今回は、明治政府(英国が作り出した倒幕のテロリスト)による神仏分離令(廃仏毀釈)および修験道廃止令という“大宗教改革”により、一時は歴史の闇に葬られてしまった修験道の修験者と、正統派ユダヤ人に成るため、宗教指導者(ラビ)のもとで厳しい修行を積まなければならないというユダヤ教の修行者を見比べてみようと思います。
額に頭襟(兜巾、ときん)を付けた修験者(山伏)と、同じく額にヒラクティリー(Phylactery)という黒い小箱を付けたユダヤ教の修行者(ラビ)↓

これを何も知らない人が見たら、どちらがどちらなのか区別が付かないのではないでしょうか?
ユダヤ教の修行者は、ヒラクティリーを額に結び付け、羊の角笛ショーファールを吹きます。
また、額に頭襟を付けた修験者が吹くのは、ご存じ法螺貝です。
こちらもまた、それを吹く姿は酷似するのです。
そして、ユダヤ教のヒラクティリーの別名はテフィリン(Tefillin)というのですが、これもまた、修験者が身に付ける頭襟(ときん)と発音が似ています。
どちらが古いかは分かりませんが、どちらかが訛って同じような発音になったのではないでしょうか?
それでは、実際に足を運んだ高尾山を見て行きましょう。
高尾山ケーブルカー駅↓
このケーブルカーは日本一の傾斜角度を誇ります↓
ケーブルカーを降りて最初に現れる浄心門↓
浄心門を潜ると左側にある神変堂↓
南無飯縄大権現と刻まれた石塔↓

飯縄大権現が授ける『飯縄法』は『愛宕勝軍神祇秘法』や『荼枳尼天法』等とならび中世から近世にかけては『邪法』とされ、天狗や狐などを使役する外法とされつつ俗信へと浸透して行きました。
『世に伊豆那の術とて、人の目を眩惑する邪法悪魔あり』と江戸後期に茅原定が著した『茅窓漫録』にあります。
これから向かう飯縄大権現が祀られる御本社は華麗さにおいては山内一と言われていて、拝殿、幣殿、本殿が一体となった権現造りで壁面に施されている見事な彩色彫刻は、規模では及ばないものの日光の東照宮にも見劣りしないと言われています。
昭和27年に東京都の有形文化財に指定されました。
本殿にはご本尊の飯縄大権現が安置されていますが、秘仏とされており開帳されていません。
飯縄大権現堂正面両脇には大天狗、小天狗、さらに手前の山腹斜面には明治42年(1909年)に建てられた三十六童子像が、それぞれ御本尊飯縄大権現の鎮座する聖域を形作っています。
実物を見ることが出来ないので、ここは山梨県南アルプス市の隆昌院に所蔵される市指定文化財の『飯縄権現造図』を見ることにしましょう。

高尾山薬王院の御本尊である飯縄大権現は、不動明王を仮の姿として衆生を救済する徳を持った仏神と言えますが、その姿を観察すると、不動明王の他に、歓喜天、迦楼羅天、荼枳尼天、宇賀神(弁財天)の五相合体の姿をしています。
向背に火焔を負い、左右の御手に剣と索とを持つのは『不動明王』の御本誓を現し、悪魔を退治し、慈悲の智慧を以て種々の煩悩病苦を焼き尽くすものです。
不動明王は、密教の根本尊である大日如来の化身、或いはその内証(内心の決意)を現したものであると見なされています。
お不動さんの名で親しまれ、大日大聖不動明王無動明王、無動尊、不動尊とも呼ばれていますが、サンスクリットではAcalanatha(アチャラナータ、古代インドではシヴァ神の異名)と言います。
アチャラは『動かない』という意味で、ナータは『守護者』を意味し、全体としては『不動の守護者』という意味になります。
歓喜天は、象頭人身で、インドでは『ガネーシャ』と呼ばれ、福神で御利益は大きいが、大変厳格な神なので、おろそかに祀るとかえって祟りをなすと言われています。 別名、大聖歓喜天、大聖歓喜自在天、聖天などと呼ばれています。
鴟啄と羽翼ある鳥の姿は、自在に空を舞い衆生救済を施す『迦楼羅天』の飛行自在の徳を表しているのでしょう。
蘗魯拏(ガルーダ)と表記されることもあります。
インドのガルーダが仏教に取り入れられ、仏法の守護神となったもので、別名は、金翅鳥(こんじちょう)とも言います。
白狐に乗っているのは、先を見通す力を授けるためで『茶枳尼天』(だきにてん)の福を授けることを意味していると考えられます。
別名は、辰狐王菩薩(しんこおうぼさつ)です。
本来は、人間の肝や心臓を食らう夜叉でしたが、大黒天によって改心させられ、以後は死んだ人間の心臓のみを食らうようになり、福をもたらす神になったと言われています。
頭部に白蛇を頂くのは、五穀豊穣、商売繁盛、福寿円満を授ける『宇賀神』の宝珠を、弁財天の愛嬌を与えることを意味しています。
宇賀神の名は日本神話に登場する宇迦之御魂神(うかのみたま)に由来するものと考えられ、元々は宇迦之御魂神と同様の穀霊神、福神として民間で信仰されていた神でした。
宇賀弁才天とも呼ばれます。
高尾山は寺院ですが、飯縄権現を祀り、修験者たちの活動により、高尾山信仰は庶民にも広まって行きました。
神仏習合の修験道の聖地である高尾山には、飯縄権現堂(神社)と薬王院真喜寺(本堂)があるのです。
それでは、先に進んでい行きましょう。
樹齢1000年くらいという杉並木です↓
杉並木の先に山門が現れます↓
境内にある大天狗像↓
小天狗像↓

大天狗も小天狗も、股の“棒”が気になります↑
龍が巻き付く倶利伽羅剣でしょうか。金剛杵のような造形で、なぜか高千穂峰で拝んだ天の逆鉾を思い出しました↓
山頂まで行かなくても、なかなかの景色です↓
高尾山薬王院有喜寺御本堂↓

薬師如来を本尊としながら、修験道の飯縄大権現を勧請し、こちらも本尊とすることで神仏習合させています。
こちらは御本堂の隣にある有喜閣↓

格式を感じる立派な建物です。
御本堂の奥に進むと鳥居が現れます↓

お寺に居ると思いきや、やはり不思議な感覚です。
江戸時代の寛政15年の年号が刻まれている狛犬↓

なかなか愛嬌のある顔つきです。
こちらにも鳥居が↓
そして、こちらが飯縄権現堂(御本社)です↓

ここでは皆さん“二礼二拍手一礼”をしていました。
飯縄権現堂の裏側↓

日光東照宮にも引けを取らない造形美と言われています。
奥之院、高尾山不動堂↓
歴史を感じる修験道の道場↓

ここでどんな修行が行われていたのか?
愛染堂に趺坐する愛染明王↓

愛染明王は、西方のキューピット由来の仏尊だと言われています。
梵名はラーガ・ラージャ(rāgarāja)ですが、興味深いのは異名が『タキ』ということです。
この仏尊は、サンスクリット経典には、その名は見られないと言われています。
チベットの経典や儀軌には散見され、中でもチベット密教の四大宗派に共通する後期密教のテキストである『プルパ金剛』 の儀軌や次第など、そして、グル・デワ・ダキニの『三根本法解説』 等には、『プルパ金剛十大忿怒尊』の一尊としてこの愛染明王が登場します。
また、漢訳では真言宗で五部秘経に数える『瑜祇経』(大正蔵No.867、金剛智三蔵訳)を典拠とするだけではなく、宋代の訳である『仏説瑜伽大教王経』(大正蔵No.890、法賢三蔵訳)や『仏説持明蔵腧伽大教尊那菩薩大明成就儀軌経』(大正蔵No.1169)をはじめ、チベット密教では、ニンマ派が伝承する旧訳『大幻化網タントラ』(グヒヤ・ガルバ・タントラ)経典群等の各種の曼荼羅や、サキャ派やカギュ派が伝承する新訳『幻化網タントラ』(マーヤ・ジャーラ・タントラ)の曼荼羅にも、尊那仏母(准胝観音)や大日如来の守護尊(yidam、イダム)として、穢跡金剛(大力金剛)や、不動明王らと共に、梵名のタッキ・ラージャ(takkirāja)の名で登場します。
『覚禅鈔』には、愛染明王の異名として『吒枳王』(たきおう)を挙げ、『妙吉祥平等秘密最上観門大教王経』(大正蔵No.1192)には、このタキ・ラージャが『大愛明王』と訳されており、その真言(マントラ)が『ウン・タキ・ウン・ジャク』とあるのです。
では、この西方から来たという『タキ』とは何者なのか?
このタキ尊が、サンスクリット経典に居ないということは、西方(西洋)からインドには入らなかったということで、やはり、シルクロードを通って直接的にチベットや東方にやって来たのでしょう。
前回、『トルコ』という名称の語源について考察しました。
つまり、トルコの語源となっている『テュルク』という名称の語源は、大月氏(ターキッシュ、前2世紀)だけでなく、丁零(テイレイ、前3世紀~5世紀)や拓跋(タクバツ、2世紀後半)も同じだと考えられ、そして、突厥(トッケツ、6世紀頃)や鉄勒(テツロク、6~7世紀)や突騎施(テュルギシュ、8世紀)も同じ。
さらには、イスラム教に改宗したトゥルクマーン(10世紀)なども、これら全てが同根の遊牧騎馬民族だったという話しをしました。
これらと、この『タキ』という西方からやってきた尊格(神)は、やはり同根なのではないか?ということです。
そう考えると、この愛染明王が祀られている、この高尾山の『タカオ』という名称とも何か関係性があるのかも知れません。
日本の神々の中にも怪しいものが沢山あるのも事実です。
十束剣(とつかのつるぎ)の切先の上で胡座をかいた建御雷神(武甕槌神、たけみかづちのみこと)や草那藝剣(くさなぎのつるぎ)を携えて東征した日本武尊(倭建命、やまとたけるのみこと)は、その名前に『タケ』とあります。
背の高い宝瓶の蓮華座に結跏趺坐する愛染明王の姿と十束剣の切先で胡座をかく建御雷神の姿は酷似します。
愛染明王↓
建御雷神↓
また、日本武尊は、埼玉の稲荷山古墳の『ワカタケル』であり、中国の歴史書に登場する『倭王武』であると考えられているのです。
下に記したのは、稲荷山古墳出土鉄剣の『金錯銘鉄剣』(きんさくめいてっけん)の銘文の内容です↓
『辛亥年七月中記乎獲居臣上祖名意富比垝其児多加利足尼其児名弖已加利獲居其児名多加披次獲居其児名多沙鬼獲居其児名半弖比』(表面)
『其児名加差披余其児名乎獲居臣世々為杖刀人首奉事来至今獲加多支鹵大王寺在斯鬼宮時吾左治天下令作此百練利刀記吾奉事根原也』(裏面)
『辛亥の年七月中、記す。ヲワケの臣。上祖、名はオホヒコ。其の児、(名は)タカリのスクネ。其の児、名はテヨカリワケ。其の児、名はタカヒシ(タカハシ)ワケ。其の児、名はタサキワケ。其の児、名はハテヒ。』(表面)
『其の児、名はカサヒヨ(カサハラ)。其の児、名はヲワケの臣。世々、杖刀人の首と為り、奉事し来り今に至る。ワカタケル(ワカタキロ)の大王の寺、シキの宮に在る時、吾、天下を左治し、此の百練の利刀を作らしめ、吾が奉事の根原を記す也。』(裏面)
この銘文は、この鉄剣を製作した人間が主語となっている文章で、歴代の王からの血脈を記した上で、その偉大なる大王(おおきみ)に仕えることが出来たことの喜びが記されているのです。
『ワケ』や『ワカ』は、その子供のことで、現在の『若』と同じ意味です。
この『獲加多支鹵大王』(ワカタケル大王)は、現在の研究では雄略天皇に比定され、中国の歴史書に登場する倭王武であるとされています。
この稲荷山古墳は、崎玉(さきたま、現在は埼玉)という場所にあって、現在の埼玉県の名称の元になった場所です。
その埼玉の辺りを『タケ』と発音できる『武』という文字を使って武州(武蔵国)と呼ぶということも、この神々たちの『タケ』と何らかの関係があるのかも知れません。
それでは、いよいよ山頂に到着です。
頂上からの景色↓

横浜や江ノ島が一望できるというのですが、霞んでいたせいでスカイツリーもランドマークタワーも見えませんでした。
富士山側の景色↓

神々しい太陽光ですが、この日は雲が多く富士山も見られませんでした。
この高尾山を開山したのは、役行者であると言われています。
役行者(神変大菩薩)の像↓
役行者は、舒明天皇6年(634)元日、大和国葛木上郡茅原の郷賀茂役氏の娘の渡都岐白専女(とつきしらとうめ、母)と高賀茂問賀介磨(たかかもまかげまろ、父)との間に生まれ、吉野の金峰山で霊感を得て呪術を身に付けたと言われています。
幼名は『金杵麿』(こんじょまろ)或いは『小角』(おづぬ)と呼びました。
これは出生の時に、役行者の前頭部が突出して独鈷杵の形をしていからだという説や、役行者を渡都岐白専女(とつきしらとうめ、トツキ)が懐胎した際に、彼女の口に金色の独鈷杵(ヴァジュラ)が入られたからこのように呼ばれのだとする説があります。
渡都岐白専女の女性器に入っていて、口からも出ていたという独古杵(金剛杵、ヴァジュラ)は、イエスの“体液”が付着したことで、その切っ先がダイヤモンド(金剛)に成ったと言われる伝説のロンギヌスの槍の信仰が、異端審問会の検閲を逃れ、チベットに入って密教と融合したものかも知れません。

↑人体に入れる刑具
なぜなら、イエスという人物は、股から槍(杭)が入り、他人に折られることなく、自ら足が折れて(しゃがみ、かがみ)串刺しになった可能性があるからです。
その時に、流れ出した水(体液)によって切っ先がダイヤモンドに成ったというのが、いわゆるロンギヌスの槍だと考えられるのです。
イエス本人が、酸い葡萄酒(麻酔薬)を口にしてまで、それを行い、
本人が『成し遂げられた』(ヨハネの福音書19:30)と発言したのですから、自ら座ったのでしょう。
イエスという人物は、仏教徒だった可能性があるのです。
仏陀のように菩提樹(生命の樹)の下で座禅を組みたかったので、イエス自らが座りたかったと考えられるのです。
彼を異端(異教徒)として、罰を与えた祭司たちがしたことは、
『その骨は砕かれない』(ヨハネの福音書19:36)という聖書の預言が、つまり『足が折られることはない』と豪語するイエスを見世物として晒したと考えるのが妥当でしょう。
そうです、イエスは信念に基づいて、自ら座ったと考えられるのです。
馬小屋で生まれたというイエスと、厩戸皇子(うまやとのおうじ)と呼ばれる聖徳太子の特徴は酷似します。
名前も、そのまま聖(ひじり)の徳であり、
そして、その聖徳太子によって日本で隆盛したのが仏教です。
つまり、我々が目にすることが出来る既存の情報では考えられないことなのですが、ナザレのイエスという人物は仏教徒であった可能性が高いということです。
もちろん、これらは全て状況証拠に過ぎません。
しかし、その状況証拠が、証拠の一つであるのも、また確かな事実なのです。
少し厳しい言い方をすれば、マトリックスの中でぬくぬくと生活し、プロパガンダされた情報だけを本物の証拠だとしてピックアップし、そこから真実を導き出そうとする行為は、あまりにも奴隷的で懐柔的な愚かな考えであると言わざるを得ません。
我々が目にすることが出来る情報は、全て検閲された後のもので、また、新しい情報(ニュース)というものは、初めから用意されたプロパガンダであるということを知っておく必要があるのです。
今までの“軍産複合体”(ネオコン、国際金融資本)による兵器産業の草刈り場(市場、戦場)は、中東でした。
しかし今年、遂にこれから、パンデミック条約とIHR改正、そして、緊急事態条項によって、ここ日本が爆心地になると言われています。
ビッグファーマ(巨大製薬会社)とディープステート(国際金融資本)とWHO(世界保険機関)が癒着した“医療産業複合体”とでも言いましょうか。
それらが、ここ日本で、プランデミック(計画パンデミック)という、見えない現代型の大量殺戮(第3次世界大戦)を、新型レプリコンワクチンによって始めようと画策しているのです。
我々日本人は、一刻も早く、今すぐに目覚めなければ手遅れになるでしょう。
ということで、これらの話しは尽きませんが、少々話しがそれたので、今回は役行者の話しに戻ることにしましょう。
役行者の幼少期から見て行きましょう。
役小角(金杵麿)は、幼少の頃から博学で、梵字を書いたり拝んだりしていたと言われ、まわりの子らとは遊ばず、泥や土で仏像を作り、草の茎でお堂や塔を建て、花や水をそなえて礼拝していたと言われています。
17歳になると元興寺(飛鳥寺)で学ぶようになります。
やがて、葛城山で山林修行に入るようになり、さらに、熊野や大峰の山々で修行を重ねることになります。
そして、箕面山の大滝で、伝説の龍樹菩薩(龍猛、ナーガールジュナ)から秘法を授けられ、悟りを開いたと言われています。
その後も、孔雀明王の呪術を修得し、鬼神を自在に操りました。
鬼神に命じて大和国の金剛山と葛木山の間に橋をかけようと出来るほど、役行者は、鬼神を使役できる法力を持っていたのです。
前鬼と後鬼という夫婦の鬼を使役したと言われることから、邪法を使う者として名を貶められることもありますが、この前鬼と後鬼は、能においての『鞍馬天狗』であるとされ、大峰山の天狗だとされています。
そうだとすれば、この前鬼と後鬼は、もともと役行者と同じ山岳修験者で、行者に付き従った者たちと考えられるのです。
役行者が呪文を唱えると、蛇の毒を含むあらゆる毒、病気、災厄や苦痛を取り除くことが出来た言われています。
神変大菩薩というのは、役小角(えんのおづぬ)のことであり、平安時代の頃に山岳信仰の隆盛に伴い『役行者』と呼ばれるようになったようです。
他には、役優婆塞(えんのうばそく)と呼ばれることもありました。
ちなみに”優婆塞”とは、寺に入らず仏道を修行する男子の呼称であると言われています。
また、『源平盛衰記』などによれば本名は賀茂役君小角(かものえのきみおづの)であり、一応、神道の名家賀茂一族の分家にあたるとの説もあるようです。
役小角の生涯は伝承によるところが大きいですが、確実な史料として『続日本紀』巻第一文武天皇三年五月丁丑条の記述が存在します。
続日本紀には
『丁丑。役君小角流于伊豆島。初小角住於葛木山。以咒術稱。外從五位下韓國連廣足師焉。後害其能。讒以妖惑。故配遠處。世相傳云。小角能役使鬼神。汲水採薪。若不用命。即以咒縛之。』とあり、
以下、現代語訳
『文武天皇3年(699年)、役君小角を伊豆大島に配流した。そもそも、小角は葛城山に住み、呪術で称賛されていた。のちに外従五位下の韓国連広足(からくにのむらじひろたり)が師と仰いでいたほどであった。ところがその後、ある人が彼の能力を妬み、妖惑のかどで讒言(ざんげん)した。それゆえ、彼を遠方に配流したのである。世間は相伝えて、「小角は鬼神を使役することができ、水を汲ませたり、薪を採らせたりした。もし鬼神が彼の命令に従わなければ、彼らを呪縛した」という。』とあります。
しかし、先に注意しておきたいのは、この史実に対しても反日作為的な訳文(解釈)が流布されていることです。
誤った解釈として、句末を示す助字の『焉』を抜かして文を繋げ、『外従五位下の韓国連広足(からくにのむらじひろたり)小角を師としていたが、その後に師の能力を妬んで讒言(ざんげん)した』とする説です。
これでは『韓国連広足の讒言によって、小角が人々を言葉で惑わしているため、小角が遠流になった』という文章が成り立ち、韓国連広足が小角を追放したという意味になってしまうのです。
そして、韓国連(からくにのむらじ)自体が現在ある大韓民国とは、使う漢字が同じという以外は関係がなく、連(むらじ)とは饒速日命を遠祖とする姓(かばね)の一つであり、韓国氏は物部氏の支族です。
しかも、古代の朝鮮半島には、紀元前の原三国時代と呼ばれる時代と、近現代の韓国(大韓帝国および大韓民国)以外に『韓』という文字が付く国家は無いということも確認しておかなければなりません。
このように、いわゆる『韓国起源説』に対しては、いちいち註釈が必要なのですが、
我々日本人は、もっと大きな敵に立ち向かわなければならないので、いわゆる『嫌韓運動』をしている暇はありません。
ちなみに、韓国連広足が正六位上から外従五位下に昇進したのは、役小角が没したとされる時期から約30年後の天平3年(731年)であるとされています。
話しを役小角に戻しましょう。
文武天皇3年(699年)、役小角は、定説では一言主神(ひとことぬしのかみ)の讒言によって伊豆大島に配流されたとされています。
小角は昼間は島にいて命令に従い、母親に孝行をしていましたが、夜になると富士山に登り修行をしたと言われています。
さらに、霊地を見付けると海の上を踏み渡り、大空を飛んでその地に向かったとも言われ、江ノ島の裸弁財天(妙音弁財天)の影向などを拝していたようです。
そして、夜が明けるとともに島に戻ってくるとの話しが伝わっています。
また、『日本霊異記』(上巻28)によると、道照法師が唐へ往られた時、新羅の五百の虎の要請により、法華経を講じていたら、聴衆の中に日本語で質問する者がいて、名を尋ねると『役優婆塞』と名乗ったと伝えられているように、役小角は各地に飛び回っていたようです。
伊豆大島に配流されてから3年が経とうとしてい頃、役小角の評判の良さを耳にした一言主神(ひとことぬしのかみ)は、これをねたみ疎んじて『小角をすみやかに死罪にせよ』と天皇に告げました。
そして、大島へ天皇から派遣された勅使は、到着するや役小角を浜辺に引き出したのです。
勅使が刀を抜き振り上げようとしたその瞬間、小角は舌で刀をねぶり『さあ、早く我を斬れ』と言いました。
勅使が、その刀を見てみると、富士明神の表文が浮かび上がっていたと言います。
勅使はこの事象に恐れ驚き、この事を天皇に上奏し、その裁下を待つことにしたのでした。
天皇は、博士を召し出して表文を説明させました。
博士によると『天皇も謹んで敬い給うべし。小角は凡夫ではなく、まことに尊い大賢聖である。早く死刑を免じて都にお迎えし、敬い住まわせ給うべきお方である』と書かれていたそうです。
これにより、天皇は早急に使者を島に送り、役小角の死刑を免じたのでした。
故郷に戻った役小角は、母を鉢に載せ五色の雲に乗って天に昇ったと伝えられており、大宝元年(701年)6月7日が、役小角と母の白専女が冥界に旅立った日とされています。
また、一言主神は役小角によって役優婆塞の呪法で縛られて今(霊異記執筆の時点)になっても解けないでいたようです。
しかし、謎が残ります。
文武天皇3年(699年)に流罪にされてから、それ程までの霊力を発揮し、故郷に戻った役小角が、戻った途端の大宝元年(701年)に、本当に死んでしまったのでしょうか?
霊験灼然と言って過言でない程の霊力を発揮していた役小角が、そんな簡単に死んでしまったとは考えられないのです。
もしかすると“冥界に旅立った”というのは死んのではなくて、文字通りどこか、また霊場を見付けて、修行の旅に出たのかも知れません。
一度は命を狙われた身です。
名前を変えて、どこかで生き続けていたのではないか?
そう思い、調べてみると、すぐに怪しい人物を発見しました。
それが『行基』(ぎょうき)という人物です。
行基の父とされる高志才智(こしのさいち)という人物自身が百済からの渡来人という、あまり系譜のはっきりしない人物で、息子である行基の出生地が畿内の和泉国であったのか、甲信越の越後国であったのかも判然としていません。
ですが、父親の『高志』という姓が地名から由来するのであれば、越後国だったのかも知れません。
なぜなら、天皇家以前に大和を治めていた大国主命の出生地は、高志国(こしのくに)であるとされ、高志国は、のちに越国と字が改められ、この地方を現在でも上越、中越、下越と呼ぶのはその名残りだからです。
役行者(役小角)が高尾山を開いたのかと思いきや、そこにある真言宗智山派大本山である薬王院は、この行基が開いたものなのです。
それでは、ここからは、この行基という人物を見て行きましょう。
『高尾山縁起』によれば、薬王院が開かれたのは奈良時代の聖武天皇の時代だと言います。
この頃、奈良の都には東大寺の大仏殿などが造営され、同時に日本全国六十余州の各々の国には、国分寺が建立されたのです。
真言宗智山派大本山である高尾山薬王院は、奈良時代の天平十六年(744)に聖武天皇の勅命を受け、東大寺大仏の建立の悲願のため、諸国に国分寺造営を命じた天皇の願いを達成すべく、薬師の像を刻んだ行基が東国鎮護の祈願寺として、その道を開いたのでした。
父親は、先ほど紹介した百済系渡来人の高志才智(こしのさいち)で、母は蜂田首虎身(はちだのおびととらみ)の娘である古爾比売(こじひめ)だと伝えられています。
行基は、15歳で出家して薬師寺に入り、玄奘三蔵の弟子である法相宗の道昭(どうしょう)に『瑜伽師地論』『成唯識論』などの 教典を学びました。
さらに龍門寺の義渕(ぎえん)による法相をたちまち理解し、秀才の誉れが高かったようです。
24歳の時に受戒し仏門に帰依にします。
初めは、法興寺に住して、後に薬師寺に移り、やがて山林修行に入ったと言います。
この山林修行において、優れた呪力と神通力を身に付けたと言われていますが、何とも役行者とキャラが被るところです。
その後は、山を降ります。
文武天皇の慶雲元年(704年)、弟子たちを自ら率いて、民間布教に努めるとともに、民衆と道路を整備し、交通の難所には橋を架け、池を掘り、水路を通し、提を築くなどの土木開発を推進し、摂津、河内、和泉、山城など畿内諸国を行脚したと言われています。
行基は、山岳修行時代に豊富な技術者等の人脈を持っていたこともあり、そのことを聞き付けた人々たちが皆こぞって来て、その事業に協力しました。
行基は、地図の専門家ではなかったのですが、僧侶として測量技術についての学識があったので、測量技術集団を統括することが出来たようです。
また、平城京造営のために、諸国から駆り出された使役の民などが、路傍で餓死することが多いのを見て、救済として布施屋(宿泊所)や施薬院を作ったのでした。
その他、全国にわたり開基した寺院道場は約700におよぶと言われています。
行基による、こうした社会事業が行われていた頃、国家の平安を祈る鎮護国家仏教の性格を強めて行きました。
天武天皇が、諸国の豪族は仏舎を作り仏像と経典を置き、礼拝しなければならないと命じたことで、仏教を保護する流れが決定づけられます。
奈良時代に入ると仏教を保護しながらも、律令制の中で『僧尼令』(そうにりょう)が施行され、僧や尼となるには国の認定が必要とした統制がかけられたのです。
718年に編纂し、757年より施行された『僧尼令』によって、民間への布教活動は禁止されたのでした。
僧尼令によると、すべての僧尼は静かに寺の中にいて、仏の教えを受け、仏の道を伝え、国家の安泰を祈念すべきであるとされていて、民衆教化を禁止したのでした。
しかし、行基の行動は明らかに、これらに違反するものだったのです。
行基とその一門は、禁を破ったとして弾圧を受け、五度にわたって中止を命ぜられたと言います。
それでも行基たちは、禁を犯しても民衆救済のため屈することはなかったようです。
聖武天皇も目を瞑るしかなかったのかも知れません。
天平15年(743年)10月15日、聖武天皇は、仏教の興隆によって鎮護国家、万民の平安を願って、巨大な盧遮那仏(大仏)造立の詔勅を出しました。
国を挙げての大事業を完遂させる為には、どうしても畿内に大きな組織を持つ行基の協力が必要だったのです。
行基は、その時すでに76歳になっていましたが、自ら弟子達を率いて積極的に参加したと言います。
また、大仏造営が資金難により中断すると、行基は歓進活動を行い莫大な寄進をし、その再開を助けたのでした。
このこともあり聖武天皇からは、深く敬重されることとなり、天平17年には、日本で最初の『大僧正』の位を授けられ、さらには400人の出家僧を弟子として与えられたと言います。
これをもって、人々は彼を行基菩薩と呼んだのでした。
天平宝字元年2月2日、行基は、奈良西郊の菅原寺で数千の弟子に囲まれ生駒の往生院に葬られたました。
結局、行基自身は、大仏開眼会を目にすることは出来なかったのでした。
それにしても、行基が開いたと記録に残っている寺院は、高尾山薬王院のみならず、畿内を始めとして関東圏から東北に至るまで各地に見受けられます。
今回の考察では、役行者と行基が、同一人物であったか否かは分かりませんでしたが、役行者よりも史料が多く、その存在が確実な行基という人物が本物で、役行者という者は、やはり誰かの仮の姿だったのかも知れません。
また、行基の父親である高志才智は、秦氏と同じく百済(朝鮮半島)経由で日本に帰化したユダヤ人だったかも知れません。
行基本人も、受戒して仏門に帰依し、仏教色の強い人物ですが、結局のところ山林での修行によって優れた呪力と神通力を身に付けた訳ですから、行基もまた、一人の修験者であったと言って良いでしょう。
行基という名前も行者の基(もと)と書くのですから意味深長であると思います。
その後の役行者に関しては、寛政11年(1799年)には、聖護院宮盈仁親王が光格天皇へ役行者御遠忌(没後)1100年を迎えることを上表しました。
同年、1月25日に光格天皇は、烏丸大納言を勅使として聖護院に遣わして神変大菩薩(じんべんだいぼさつ)の諡を贈ったのでした。
日本に開国を迫った海外勢力にとって都合が悪い存在だったのか、
明治政府(傀儡)によって一度は破壊された修験道ですが、現在は復活し、奈良県吉野山の金峰山修験本宗、京都市左京区の本山修験宗、京都市伏見区の真言宗醍醐派などを拠点に信仰が行われています。
ということで、現地視察はここまでです。
帰りは麓でお蕎麦を食べました。
この『高橋家』は、高尾山ケーブルカー駅前にあるお蕎麦屋さんです。

樹齢150年余の柿の大木などがあり、歴史を感じられる評判のお店です。
広々とした店内には、座敷とテーブル席があり、落ち着いた空間になっています。
蕎麦粉を6割と、とろろと上質な粉で練ったという蕎麦が堪能できます。
蕎麦メニューの中でも人気なのが『とろろそば』ということで、そちらと『天婦羅丼』を頂きました。
全てが赤く見えるのは、表にある真っ赤な番傘のせいです。
天婦羅丼↓
お蕎麦ととろろはもちろんですが、天婦羅丼もとても美味しかったです。
驚きは付け合わせのお味噌汁やお新香までもが手抜きがなく、完璧というほど美味しかったです。
ご馳走さまでした。
ということで、今回も長々とお付き合い頂き、ありがとうございました。
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