令和5年(2023)9月30日土曜日 0800佐世保駅界隈を出発し、海軍墓地にて慰霊参拝のあと、1015「海上自衛隊 佐世保資料館」に到着です。
帝国海軍の佐世保水交社の建物の1階、2階の一部を改修再利用し、7階建ての建物を増築する形で平成9年(1997年)3月に開館しました。
ガラス張りの建物の前面にある、2階建の建物が帝国海軍佐世保水交社の建物です。
山すそを切り土をした、高台にある水交社建物と石積みの塀などは往時のままですので、目を細めると今にも海軍士官が出入りする光景が目に浮かびます。
さて入館しますと、エレベーターで7階へ上がるように館員の方に促されます。
海を正面にした佐世保軍港が目に飛び込んできます。
説明パネルにて、帝国海軍の施設と現在の海自施設及び占領軍である米海軍の施設を確認していきます。
画面中央にある、西九州高速道路は当然戦前はありません。
左の青色から右側が全て佐世保鎮守府の施設でした。
①画面左端にある佐世保川で海軍施設と民間は明確に分かれていました。
②と③が海兵団の敷地でした。現在は②がニミッツパークとして米海軍に占領され、競技場などの厚生施設として関係者以外立入り禁止(腹立つ!)となっています。
③自衛隊佐世保病院、佐世保消防、佐世保市総合医療センターなど
④樹木が残る部分が海軍時代、佐世保鎮守府司令長官官邸などがあった場所で、現在は市民の憩いの公園として、整備されています。
⑤海軍佐世保鎮守府跡地に現在の海自佐世保地方総監部があります。敷地の入口の門の場所、建物位置も同じ場所にあります。
この展示パネルのほぼ全域が海軍時代は、民間立入り厳禁の軍用地でした。
さて展示内容を観覧していきます。
こちらの佐世保資料館は、「なぜ日本が日清、日露、大東亜戦争を戦うに至ったか?」を丁寧に展示、解説しています。(どこの海自資料館でも同じですが・・・)
今の日本人に是非見て欲しい展示がここなのです!
戦後教育の賜物で「日本が亜細亜や欧米に悪いことをした」と教え込まれてきましたが、こちらの展示で目を覚ませて欲しいのです。
自虐史観から脱却して欲しい。
昔と今をわかりやすく、写真で解説してくれます。
欧米の圧力外交、侵略の始まりです。
まだ国として、成り立っていない江戸時代後半。
各藩ごとに外国勢力と戦っていた時代。
日本人の勤勉さ、旺盛な吸収力を発揮して、欧米列強に追いつこうとした、先人たちに本当に感謝します。
明治元年(1868年)
まだ、よちよち歩きながら、大阪は天保山沖にて明治天皇臨御、海軍初の観艦式。
欧米から吸収した知識を、教育していく旺盛な国防意識と先見性を発揮する明治初年の日本人。外国人も多数招聘し学問を乞う姿勢は、国として待ったなしの安全保障環境が及ぼした必然。
造船所建設も、ここ長崎から。
つづいて横須賀にも造船所を建設。ベルニー公園の名称はここから。
明治二年、海軍省として独立。いよいよ海国日本の防衛を担う。
日本各所に望楼(見張り台)を設置。外国からの不審者を監視。
日清、日露の役では佐世保は最前線の基地として機能し、艦船の修理など大変忙しくなった。
日露戦役での影の功労者にも、スポットライトを当てた展示。
下瀬火薬と共に勝利に貢献した、伊集院五郎大佐(当時)が開発した伊集院信管。
日露戦役緒戦、旅順港閉塞作戦では広瀬中佐(当時少佐)が有名ですが、作戦を立案し指揮官として作戦を指揮したのは、有馬良橘(ありまりょうきつ)中佐(当時)です。
非常に鮮明な写真です。(拡大して見てください)
日露戦役時の聯合艦隊司令部員。
当時の司令部人数は少ないですね。
後の聯合艦隊司令部とは1/3くらいの規模でしょうか。
ここからは、どれだけ帝国海軍が戦後の高度経済成長に貢献したかを展示した、パネル展示です。
7Fで佐世保軍港の展望、映像で歴史と海自の活躍を学べます。
6F~4Fで帝国海軍の歴史、海軍艦艇、人物、佐世保鎮守府の資料、日本人の民度の高さを学べます。
3F~1Fで海自の装備、艦艇等模型、活躍などを学べます。
以上が佐世保資料館の説明です。
観覧最初、資料に目を通していたところ、女性がお一人で熱心に観覧しておられましたので、思わず声をお掛けしました。
その方にお聞きしますと、鹿屋航空基地資料館の館員の方だそうで、お勉強のためお越しになられているとのことで、暫くお話させていただきました。
いろいろ勉強させてもらいました。
館内でお話しさせていただいた皆さま、ありがとうございました。
佐世保、いいところです!又来ます!
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海軍(陸軍)・海自関係 | 日記
Posted at
2023/10/29 18:15:33