先週末、、、
観光
オシゴトで高知へ逝ってこられた、
カイケツ・ハリマオこと我らのかず殿が、
勝頼公の足跡を示す秘密資料を入手してこられ申した。
御本人の御好意に甘えて、
かたじけなくも、ここにオサシンを貼らせていただく。
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コレは有名な高野山持明院蔵の肖像を元にしたと思われるポスター。
上が勝頼公、下左は北条夫人、下右は嫡子信勝公。
大名家の家族が一枚に収まった、きわめて珍しい絵でござる。
勝頼公のお人柄が偲ばれる一枚ではござらぬか(´・ω▼メ)ワコサバ
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(C)かず
天正10年(1582年)3月、
卑怯にも数を頼む織田・徳川連合軍は、
木曽口・伊那口・飛騨口・駿河口から甲斐へ侵攻。
一族・親類衆の離反や国人衆の前代未聞の人間ナダレ現象によって、
高遠城攻防戦と鳥居峠の戦い以外ではマトモな抵抗すらできず、
新羅三郎義光以来の甲斐武田氏はあっけなく崩壊。
勝頼公は新造間もない新府城を棄て、東を目指して落ち伸びようとするが、、、
結局は、最後の最後に郡内領主で親類衆にもあたる小山田信茂が離反。
万事休すを悟った勝頼公は、ゆかりの地である天目山棲雲寺を目指すも、
途上の
田野で織田先鋒の滝川一益隊に捕捉され、
一族ともに自害された、、、、、、、、、
、、、、、のではなく、、、どうやって脱出したかは不明であるが、、、
土佐へ落ち伸びていた!?
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(C)かず
大崎玄蕃と名を換えて、
なんと慶長14年(1609年)まで御存命であった!!
というのが、土佐仁淀川地方に伝わる勝頼公生存伝説である。
仁淀川には、
武田勝頼土佐の会や勝頼君弁当、
勝頼君せんべい、
さらには、
ユルキャラまであるという。
真偽は別として、ロマンティックなお話しでござろう。
そのうちに必ず勝頼君弁当を食べに土佐まで弾丸ツーリングし松。
参加希望の諸氏はれんらくくらはい♪
①ふぁ
②かず
③ぱずちゃん
⑤オゲハラ城主
⑥マルコママ
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蒼空の墓標 | 日記
Posted at
2010/10/28 00:09:48