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ファルケ少佐のブログ一覧

2011年12月08日 イイね!

ヒトフタマルハチ

オゲハラ中継の途中ですがここで臨時ブログをアップします。



本官的歴史観です
異議のある方はスルーヨロシク






今日は12月8日。
何の日かご存じでない方はいらっしゃらないと思います。
本官の秘書のオネーサン達でもそれくらいはわかるようになりました。
昭和16年12月8日、
70年前のこの日、我が第一航空艦隊の航空母艦群から発艦した飛行機隊が、
布哇真珠湾に停泊する米海軍太平洋艦隊へ決死的大空襲を敢行。
ここに対米英戦の火蓋が切って落とされました。

大東亜戦争において散華され、
護国の鬼となられた英霊各位を偲びたいと思います。

Posted at 2011/12/08 14:10:49 | コメント(8) | トラックバック(0) | 蒼空の墓標 | 日記
2011年06月19日 イイね!

チミはモノホンのファルケ少佐を知っているか

「ファルケさ~ん!」

「あい♪」

オフ会では自然に返事していますが、
モチロン、本名ではありません(笑)
本官の顔写真見たさに「ファルケ少佐」で画像ググったヒトもいるようですが、、、^^:
ググってヒットする画像がホンモノのファルケ少佐です。
ホンモノとは言っても、ファルケ少佐は映画の登場人物なので架空の人物ですが、、、

その映画とは、、、
1969年の英国映画BATTLE of BRITAIN(邦題・空軍大戦略)。
戦後英国で多く作られた自慰的戦争映画とは一線を画する超大作です。





オープニングの勇壮な「エース ハイマーチ」
あたかもドイツ軍歌風ですが、
戦後作られた映画用の主題歌です。


ファルケ少佐のモデルになったのは、
英本土航空戦時のドイツ空軍(Luftwaffe)第26戦闘航空団の司令官、
アドルフ・ガーラント少佐(当時)だと言われています。
彼はユグノーの末裔でフランス系ドイツ人なので、
Gallandはガランドと発音するのが正しいらしいですが、
ここはドイツ風に発音をカタカナ表記します。
彼は、後に30歳そこそこで戦闘機隊総監(空軍中将)に上り詰めます。



ホンモノのファルケ少佐(演:マンフレート・レッデマン)




モデルになったアドルフ・ガーラント
火気厳禁のコクピットで葉巻をくわえています(汗)
映画でもファルケ少佐はいつも葉巻をくわえていました。



ウィキより引用した英本土航空戦当時のガーラントの乗機。

彼の愛機には、、、

主翼のMGFF20㎜機関砲外側に2挺の7.92㎜機銃、
光像式照準器の隣に望遠鏡式照準器、
そして、なんと灰皿!!
、、、が追加されていたのでした。


出演した「メッサーシュミット」は、もちろんBf-109Eの実機ではなく、
当時スペイン空軍が保有していたHA-1112-M1L の改造機で、
皮肉なことにスピットファイアと同じロールズ・ロイス「マーリン」を搭載しています。
しかし、エンジン以外のHA-1112-M1L はBf-109Gのコピーなので、
ポルシェでいえば930と993位の違和感でしょうか。



ウィキから引用。
戦後、編隊飛行するHA-1112-M1L とBf-109G。
BF-109G2はエンジンが倒立(ダイムラーベンツ601)で、
HA-1112-M1L はエンジンが正立(マーリン)です。




北フランスの海岸リゾートで談笑するシーン。
手前はフェーン少佐(演:パウル・ノイハウス)。
フェーン少佐のモデルはヴェルナー・メルダース少佐(当時)です。



ホンモノのメルダース(左)とガーラント(右)
両雄仲良く狩猟中の写真のようです。
英本土航空戦当時、

ヘルムート・ヴィック
ヴェルナー・メルダース
アドルフ・ガーラント
、、、がドイツ空軍三羽鴉と呼ばれていました。

ガーラントだけが大戦を生き抜き、
1996年に天寿を全うしています。
因みに彼の戦後の自家用機は「フジ号」といって、
富士重工(中島飛行機)製でした^^:





ガーラントの実際の逸話に基づいたシーン。

ゲーリング国家元帥「ファルケ君、ナニか欲しいものは?」
ファルケ少佐「スピットファイア一個中隊下さい」

ゲーリングというと、デブで無能な道化師的イメージが強いですが、
第一次大戦時にはリヒトホーヘンの下で活躍したエースパイロットで、
ドイツ帝国最高の栄誉であるプール・ル・メリ勲章を受章しています。


長々と下らぬオハナシでゴーアラウンドしました ( ̄▽ ̄;)
最後に、ぷらQとの出会いに繋がる原体験を、、、w





宿舎のヴァインケラーで歓談中に司令部から呼び出された二人が、
キューベルの後部座席に乗せられて向かった先で、
夥しい数の上陸用舟艇が集結しているのを目撃、
英本土上陸作戦間近を悟る、、、

ファ少年がキューベルというクルマを初めて意識したのがこのシーンです(爆)
因みに「運転手」は実車のオーナーさんだそうです。




※追記(6月20日)


>因みに彼の戦後の自家用機は「フジ号」といって、
>富士重工(中島飛行機)製でした^^:

ガーラントの自家用機は、
ビーチ・ボナンザ「ファット・ワン号」でした。
お詫びして訂正いたします。

「フジ号」は、、、
不世出の撃墜王、エーリッヒ・ハルトマンによって命名された、
ライン・マイン飛行クラブ所属の富士重工製エアロスバルFA200であり、
ガーラントの自家用機ではありませんでした。
どこかで記憶の糸がチャワチャワになっていたようです。

因みにフジ号の現在の姿↓
http://www.airliners.net/photo/Fuji-FA-200-180-Aero/1407950/&sid=8278ed0bf44d9e263ce7f4381cc629bd




Posted at 2011/06/19 23:57:44 | コメント(11) | トラックバック(0) | 蒼空の墓標 | 日記
2010年10月27日 イイね!

武田勝頼公は土佐に眠る?

先週末、、、

観光 

オシゴトで高知へ逝ってこられた、
カイケツ・ハリマオこと我らのかず殿が、
勝頼公の足跡を示す秘密資料を入手してこられ申した。
御本人の御好意に甘えて、
かたじけなくも、ここにオサシンを貼らせていただく。

IMG_3010
IMG_3010 posted by (C)かず

コレは有名な高野山持明院蔵の肖像を元にしたと思われるポスター。
上が勝頼公、下左は北条夫人、下右は嫡子信勝公。
大名家の家族が一枚に収まった、きわめて珍しい絵でござる。
勝頼公のお人柄が偲ばれる一枚ではござらぬか(´・ω▼メ)ワコサバ

IMG_3011
IMG_3011 posted by (C)かず

天正10年(1582年)3月、
卑怯にも数を頼む織田・徳川連合軍は、
木曽口・伊那口・飛騨口・駿河口から甲斐へ侵攻。
一族・親類衆の離反や国人衆の前代未聞の人間ナダレ現象によって、
高遠城攻防戦と鳥居峠の戦い以外ではマトモな抵抗すらできず、
新羅三郎義光以来の甲斐武田氏はあっけなく崩壊。
勝頼公は新造間もない新府城を棄て、東を目指して落ち伸びようとするが、、、

結局は、最後の最後に郡内領主で親類衆にもあたる小山田信茂が離反。
万事休すを悟った勝頼公は、ゆかりの地である天目山棲雲寺を目指すも、
途上の田野で織田先鋒の滝川一益隊に捕捉され、
一族ともに自害された、、、、、、、、、

、、、、、のではなく、、、どうやって脱出したかは不明であるが、、、


土佐へ落ち伸びていた!?


IMG_3012
IMG_3012 posted by (C)かず

大崎玄蕃と名を換えて、
なんと慶長14年(1609年)まで御存命であった!!
というのが、土佐仁淀川地方に伝わる勝頼公生存伝説である。
仁淀川には、武田勝頼土佐の会や勝頼君弁当、勝頼君せんべい
さらには、ユルキャラまであるという。

真偽は別として、ロマンティックなお話しでござろう。
そのうちに必ず勝頼君弁当を食べに土佐まで弾丸ツーリングし松。
参加希望の諸氏はれんらくくらはい♪

①ふぁ
②かず
③ぱずちゃん
⑤オゲハラ城主
⑥マルコママ

参加メンバー募集中♪


Posted at 2010/10/28 00:09:48 | コメント(6) | トラックバック(0) | 蒼空の墓標 | 日記
2009年12月14日 イイね!

ヒトフタヒトゴー?

ヒトフタヒトゴー?












嗚呼、12月…( ̄Ω ̄)ボー

多忙を極めるオシゴト(タマニハスルノネ)、
重積する忘年会の二日酔い(アタマイタイ)、
大掃除や年賀状書き(マダナンニモヤッテナイシ)、
歳暮の選定でアレコレ悩み(ユージューフダンナセ-カク)、
ボーナスの支払いで財布も軽くなるなど(ボーナスクリョ~)、

最近はロクなことがないので、少しも楽しい気分になれない本官ではあります。

サンタクロースも来んし、、、、(´・ω▼`メ)ショボーン
こうなったら一人サンタするか( ̄ ̄m ̄ ̄*)プ


しかし、
子供の頃はどうだったかというと、
妙な高揚感に支配される月でありました。
ニヤニヤ((o( ̄ー ̄)o))ワクテカ

クリスマス、
冬休みにお正月、
プレゼントやお年玉の皮算用、
物欲と妄想の日々。


ここまではアタリマエに普通のお坊ちゃまクンしていました。



そして、昔も今もエキセントリックなファ少年が、
待ちに待ったその日がやってき松♪

「真珠湾」から一週間。

それは、

12月14日


なのにタイトルはヒトフタヒトゴ?って
ハイハイ、書き間違いではございません。
ま、最後まで読んでやってくださいませ。


12月14日は「忠臣蔵」…赤穂浪士の吉良邸討ち入りの日。
昔は、この時期になるとTVでは忠臣蔵モノの再放送のオン・パレードでしたね。

ぐっと堪えていたものが、
バーン!とブチ切れるこの快感。
男子の本懐コレにあり。

敵は本能寺にあり☆
ノブナガ凸(`・ω▼メ)=3オモイシッタカ!
~(m ̄-▼)ノ ~(((怨
信長チャウチャウ、上野介。
( ̄▽▼メ川)アウッ

小学校4年生の頃、「忠臣村」だと思っていたことはここだけのナイショです。


「忠臣蔵」についてウチの秘書のオネーサン達に聞きました。
正答率40%。
真珠湾より有名とは…(汗;;)
( ̄ω ̄;)

みん友諸氏はきっとご存じに違いありませんが、、、

一般には「忠臣蔵」の名で知られていますが、
コレは赤穂浪士の吉良邸討ち入り事件をテーマとした、
人形浄瑠璃や歌舞伎の演目・「仮名手本忠臣蔵」と、
そこから派生した作品の総称であります。
元禄当時は「吉良邸討ち入り」や「赤穂浪士の仇討」と称されていたそうです。
関ヶ原の戦いから100年あまり、
元禄泰平の世を揺るがすこの大事件、
現代では元禄赤穂事件と呼ばれています。

事件の経緯を乱暴且つ極めて手短にまとめてみましょう…(^ω▼メ)ノ

元禄赤穂事件とは、
元禄14年3月14日(西暦1701年4月21日)、
江戸城松の廊下で、
播州赤穂藩主の浅野内匠頭長矩が高家旗本の吉良上野介義央に対して、
鬱積する遺恨から殿中刃傷沙汰に及び、
将軍徳川綱吉の逆鱗に触れ即日切腹を命じられたことに端を発し、
取り潰された播州赤穂藩の元家老である大石内蔵助良雄以下赤穂浪士47名が、
元禄15年12月14日(1703年1月30日)、
江戸本所の吉良邸に討ち入り、吉良上野介を殺害したため、
幕府によって浪士全員が切腹を命じられた出来事を指します(フー、ナガカッタ)。

しかしながら、

本官は子供心にある疑問を抱いておりました。
討ち入りの日付は12月14日というのが当たり前のように言われていますが、

どう見ても、
夜半過ぎに行動を起こして未明に討ち入りやん。
チャンバラして吉良上野介を討ち取ったころ、夜も白々と明けて来るし、、、

なんで12月15日とちゃうねん。
☆\(-_-)ナンデヤネン

そう思いながら、今までのうのうと生き長らえてまいりました(汗)。
ε-(ーдー)ハァ



ま、ブログネタにすることだし、
一度調べてみようということで、いろいろ調べますと、


12月14日(1703年1月30日)夜。
赤穂浪士は九つ(24時ごろ)の鐘を合図に行動を開始、
江戸市中3か所に集合の上、本所の吉良屋敷を目指したそうです。
やはり実際に襲撃したのは、未明の4時頃でありましたので、
正確に言えば12月15日(1703年1月31日)ということになり、
ファ少年の指摘は正しい。
∈( ̄o ̄)∋ ホーッ

誰でも分る罠、これくらい。

しかし、

江戸時代は明け六つ鐘を1日の区切りとしたので、
 
当時の日付としては「14日の斬り込み」となるのだそうです。 
( ̄ ̄▽ ̄ ̄;)Aシランカッタ

ついでながら、
雪が降っていたというのは『仮名手本忠臣蔵』での脚色で、
実際は凍てつくような満月の夜だったといわれております。
(`・ω▼メ)♪ソレガシハアヲキツキカゲ、、、、、カンスケチャウチャウクラノスケ






真珠湾攻撃の日はポルヒさんの誕生日ですが、
(´・ω▼メ)
武田家が天下に誇る諜報機関「諸国御使者衆」が、
みん友さん諸氏宅に速攻で侵入し、
公表分を判る範囲で調べたところによると、
14日と15日にお生まれのみん友さんが、
其々一名ずついらっしゃります。
お誕生日、おめでとうござりまする。
(* ̄∇ ̄)/゚・:*【祝】*:・゚\( ̄ω▼*)


上の画像は
「大石内蔵助良雄像」
赤穂大石神社蔵 江戸時代・作者不詳
をモチーフにデザインしました。



Posted at 2009/12/14 21:37:28 | コメント(9) | トラックバック(0) | 蒼空の墓標 | 日記
2009年12月08日 イイね!

ヒトフタマルハチ

ヒトフタマルハチ













本官的歴史観を展開しますので異議のある方はスルーヨロシク願います。




ヒトフタマルハチ…
12月8日、
この日が何の日か、皆さんご存じでしょうか。

忠臣蔵?
誰かの誕生日?

ポルヒさん…誕生日おめでとうございます。


秘書のオネーさんたちに聞いてみましたが誰も答えられませんでした。



昭和16年のこの日(日本時間)、
わが帝國陸海軍は米英蘭等連合国に対して戦闘状態に入りました。

ハワイ沖北東海域では、
長躯進撃したわが空母機動部隊から、
払暁に大挙発艦した飛行機隊が、
米海軍太平洋艦隊の根拠地、真珠湾(パールハーバー)に対して
人類史上未曽有の決死的大空襲を敢行しました。

「トラトラトラ」

総隊長・淵田中佐の97式艦上攻撃機から打電された電文です。
トラは「雷撃隊、突撃セヨ」の意味です。
奇襲が成功した場合、雷撃隊が先手を撃つ手筈でした。
しかし、淵田機より発射された信号弾の解釈に少々の手違いがあって、
実際は急降下爆撃隊が「強襲」と勘違いして開戦劈頭の第一弾を投下することになりました。
強襲の場合、「急降下爆撃隊、突撃セヨ」、
すなわち「トキトキトキ」が打電されるはずでした。

「トラトラトラ」なのに急降下爆撃隊が一番槍をつけてしまったのです。

因みにそのあと打電された「トツレ」は「突撃準備隊形作レ」で
・・‐・・ ・‐‐・ ‐‐‐ 
「特等席 都合どうか 礼装用」と聞こえます。 
これを合調音語といいます。
 
さらに、
「トトト…」(ト連送)「突撃セヨ」
・・‐・・ ・・‐・・ ・・‐・・ ・・‐・・
合調音語では、「特等席 特等席 特等席 特等席…」

モールス信号の話に逸れましたが、




真珠湾攻撃隊に参加したパイロットの多くはその後の航空戦で散華されました。
「帝國海軍最後の勝利」と言われた、
昭和17年10月26日の南太平洋海戦では、多くの未帰還者が出ました。
淵田隊長機で歴史的な電文を打電した水木兵曹も、
真珠湾浅海雷撃を成功させた村田少佐とともに、
97式艦上攻撃機に搭乗して米空母ホーネットに突撃。
ついに帰って来ませんでした。


その模様をCGで史実に正確に再現した動画があります。
CGの常で人物の描写はショボイですが、
いかに空母対空母の戦いが消耗戦であるかよくわかる良作です。

興味のある向きは
淵田美津雄・奥宮正武共著「ミッドウェー」「機動部隊」
淵田美津雄著「真珠湾攻撃」「真珠湾攻撃総隊長の回想 淵田美津雄自叙伝」
山本悌一朗「海軍魂」
等、如何でしょうか。









合掌。

いつものように、昼食は梅干とご飯(日の丸弁当)です。
写真はイメージで前もって撮影したものであることをお断りしておきます。

Posted at 2009/12/08 00:55:12 | コメント(16) | トラックバック(0) | 蒼空の墓標 | 日記

プロフィール

「神の加護は我らと共にあり続けん」
何シテル?   01/13 00:25
大ガミラス帝星第2航宙艦隊第26戦闘航宙団  ( ̄w ̄;;) の落ちこぼれ万年少佐。ときどき総統や井上靖の山本勘助キャラになる自己韜晦的人物。
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