昭和20年のこの日、海軍343航空隊戦闘701飛行隊飛行隊長の鴛淵孝(おしぶちたかし)海軍大尉は、来襲した米艦載機のべ1500機余を迎撃するため、わずか20機の紫電改を率いて長崎県の大村基地を離陸しました。豊後水道佐多岬上空6000mで敵編隊200機と遭遇するや、鴛淵隊長は「直チニ攻撃セヨ」の命令を発し、味方の10倍にもなる敵の大編隊へ先頭を切って突っ込んで行きました。激しい空中戦のなかで敵機16機を撃墜するも、鴛淵隊長を含む6機が未帰還になりました。湊川の戦いの楠正成を思わせる壮絶な最期だったといわれています。時に鴛淵隊長は26歳。少年時代に「思想堅固にして健全、挙動端正にして敏活、活発にして統率の才あり」と評され、日本海軍の至宝とも称された将来有望の秀才は帰らぬ人となったのです。
われわれが今あるのも、不平不満を言いつつも何とか安穏に暮して行けるのも、大東亜戦争で戦陣の露となられた、鴛淵隊長はじめ数多の方々の尊い犠牲のおかげであることを忘れてはいないでしょうか。彼らは我々のようにスポーツカーを駆ってツーリングに興ずることも、物食性欲に現を抜かすこともできませんでした。そういうことを少しだけ思い出して欲しいのです。
ああ今日は駄目だな、、、泣けてくる
~~~~~~~(参考文献)~~~~~~~~~~
豊田穣:蒼空の器―若き撃墜王の生涯
碇 義朗:紫電改の六機―若き撃墜王と列機の生涯
Posted at 2009/07/26 00:19:26 | |
トラックバック(0) |
蒼空の墓標 | 日記