コラボ企業のいつもの面子と晩秋の甲斐路を回ってきました。
1000円の煽りか、今までに無いほど交通量の多い中央拘束。
しかも高速慣れしていない白物だらけで、、、。
プリ薄やミニバンが追い越し車線を我が物顔で塞ぐウンザリするような状況下、
勝沼ICを降りたのが出発後4時間経過の1200でした。
ミ@ス党はさらに拘束料金をナンタラとかアフォなことをホザいていますが、「仕@け」といいコレといい国と高速道路を滅ぼすつもりか!
訳のわからぬ憤懣をぶちまけていても仕方がないので、大人しくR20号へ、、(爆)
R20を東に下ってゆくと間もなく甲斐大和の集落に入ります。JR甲斐大和駅裏の広場に武田勝頼公の銅像がひっそりと佇んでいました。ここからさらに東に下ると道は笹子峠に取りつきますが、我々は勝頼公の足跡をたどって日川沿いに左折します。
天正10年(1582年)、織田・徳川連合軍は木曾口と駿河口からなだれを打って甲信に攻め込みました。親類衆や家臣の相次ぐ裏切りや離反によって窮地に立たされた勝頼公は、新造間もない新府城に火を掛け、郡内・岩殿城を目指して落ち延びようとしますが、郡内領主で親類衆の小山田信茂にも裏切られ、行き場を失います。そこで、彼等は武田家にゆかりの深い天目山*を目指しますが、3月11日、日川渓谷入り口の田野辺りで、織田軍の滝川左近将監一益隊先鋒に追いつかれてしまいます。
*応永24年(1417年)、室町幕府に追討された武田家13代武田信満が、山中の木賊山(とくさやま)で自刀して果て甲斐武田氏は一時断絶しています。後に木賊山に棲雲寺が創建されると、その山号から天目山と改称されました。この因縁深い地で武田家は二度滅んだことになります。
日川沿いの道を振り返ります。狭い峡谷の一本道で、小勢でも要所を押さえれば一定時間は敵を食い止めることができます。勝頼公一行は僅かに100人に満たぬ寡勢でしたが、直臣の土屋昌恒、・小宮山友晴らが奮戦し、土屋昌恒は「片手千人斬り」の異名を残しました。攻めよせた織田軍3000人、対する勝頼公の手勢100人弱。
織田軍に扇動された土民の群れが日川上流から攻めかかるに及んで、衆寡敵せず、武田方は全滅。勝頼公、信勝公、北条夫人は自害され、ここに新羅三郎義光以来20代続いた甲斐武田家の嫡流は滅亡してしまったのです。
後に甲斐を領有した徳川家康は、武田旧臣を懐柔するために、勝頼公自刀の地に景徳院を建立しました。
勝頼公生害石。
公はこの石の上で自刃されたと言われています…。
勝頼公の墓石。現在調査のため仮安置中とのことです。墓石の下から、多量の経文を書いた石が発見されました。景徳院には墓石のほか、勝頼公、信勝公、北条夫人の首のない胴体を葬った、没頭地蔵があります。首級は信長によって京都四条河原に晒されたそうです。
勝頼公享年37歳、辞世の句
「おぼろなる月もほのかに雲かすみ 晴れて行くへの西の山のは」
信長・家康の心胆を寒からしめ、一時は父信玄公以上の版図を獲得したものの、土壇場で親類衆や家臣に裏切られ、その無念や察するに余りある勝頼公ですが、辞世の句にはむしろすべてを達観したような清々しさが漂います。
道端のオマワリサン、
ナニを想う。
(´Tω▼メ)ワコサマ,,,,,,,涙
Posted at 2009/11/24 22:59:58 | |
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