勝沼で遅めの昼食を摂り、
ヴァインケラーをあちこちして利き酒(本官以外の人達)するうち、
日は西に傾いてきました。
その道の大家は、
冬ツーリングは思いのほか行動時間が制限される
ような事を仰っていたような気がします。
夏のころなら、雁坂トンネルを越え奥秩父まで行って、道の駅ナンタラでトイレに入るのも夢ではありませんが、冬至まで1か月を切った昨今、笛吹川に沿って北上し、川浦温泉に着く頃には夕暮れ時となってしまいました。
川浦温泉の一軒宿、「
山県舘」の玄関。
川浦温泉は鎌倉時代から薬師の湯として知られていました。永禄4年(1561年、第4次川中島大会戦の年)5月、信玄公はこの地を領有する恵林寺宛てに湯屋の増設を命じています。その朱印状は現在も恵林寺に残されており、文献的に確認された唯一の信玄公隠し湯と言われる所以です。
コレはその文献のレプリカです。
恵林寺の宝物殿に本物は保管され、公開されています。
河浦湯屋造営本願の事
先々の如く勧進せしむべきの旨
寺中評定衆より下知あるべきものなり
よって件の如し
辛酉(四年)五月十日(信玄公龍朱印)
恵林寺
武田家滅亡の後、徳川家康に仕えた山県昌継(武田二十四将、武田四名臣・山県三郎兵衛尉昌景の四男)が川浦村に500石を賜り、その子孫が代々温泉を継承しています。現在のご当主は14代目とのことです。ミーハーな本官は挨拶してきましたが名刺交換するのを忘れていました、、汗;;;
こんこんと湧きだす温泉は、毎分1250リットル42度。
泉質湯量ともに関東一を誇る温泉で、全てかけ流し。
シャワーや蛇口からも源泉100%でした、、、、汗;;;
山県昌景が信玄公近侍(見習士官というところか)で飯富源四郎と呼ばれていた頃に、着用したという具足がありました。他、鎌鑓に陣笠、馬具が展示されていました。山県昌景は飯富兵部少輔虎昌の弟(甥という異説あり)で、信玄公・勝頼公を支えました。内政・軍事に優れた才能を発揮した武将でしたが、長篠戦役の設楽ヶ原の戦いで惜しくも戦死しました。山県隊の赤備えは武田家滅亡の後は、ほとんどそっくり徳川家康に引き継がれ、井伊直政に預けられました。有名な井伊の赤備えはここから由来しています。
お食事は「普通の温泉」でした、、、汗;;;
しゃぶしゃぶの肉質は魚松ヶ原並。
グルメ贅沢三昧のみん友諸兄にはちとナニでしょうか。
いつも素食ばかりの本官は完食するのが精いっぱいでした(爆)
朝の空気が美味しいです。
周囲には何もないので寝るしかありませんでしたw。
岩風呂の入口。
混浴( ̄ ̄m ̄ ̄*)プププ
階段で行くとしんどいですが、専用EVがあって便利です。
しかし、
いたのはおさーんばかりでした。
Posted at 2009/11/25 23:18:31 | |
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