ゆっくりと朝食をすませて、出発。

道の駅「はなかげの郷まきおか」の近くにある、武田軍の狼煙台。
このノリが好きでごいっす。

臨済宗妙心寺派 乾徳山恵林寺。
三門には快川国師の有名な遺偈が掲げられています。
安禅不必須山水
滅却心頭火自涼
安禅必ずしも山水をもちいず
心頭滅却すれば火も自ずから涼し
武田家を滅ぼした信長は、武田家残党に対して酸鼻極まる掃討を加えました。
信長は恵林寺に対して潜伏した者の引き渡しを命じますが、快川国師はこれを拒否。
怒り狂った信長は、こともあろうか三門に快川国師はじめ約百人の僧侶を封じ込んで火を放ちました。上記は、快川国師が三門上で壮絶な火定を遂げた際の一句です。
鎌倉時代から続く庭園。
残念ながら紅葉はもう終わっています。
武田不動尊。
本堂脇の明王殿に安置された不動尊は、信玄公が叡山より大僧正の位を受けた際に、京より仏師を招き、対坐で公のナマの顔を刻ませたものです。胸下には信玄公剃髪の際の髪の毛が塗り込められているらしいです。
本堂裏手の信玄公の墓所。
コレもまた圧倒的な存在感を放っていました。
他には五代将軍綱吉の側近として権勢を振るった武川出身の柳沢吉保夫妻の墓所もあります。
宝物殿では多数の遺物を前に、館長さん自ら懇切に解説をして下さりました(感謝)。
時間も押してきたので、高遠に移動することになりました。
諏訪で降りて安国寺から上がりかけの所で、冠雪した八ヶ岳をパチリ。
杖突峠から高遠いりして、「
ますや」へ。
お約束の高遠蕎麦です。
冬は蕎麦の食べ放題もやるそうです。
スキーの後に如何でしょうか♪
因みに、ここの大将は964乗りです。
高遠の商店街駐車場に車を置いて、建福禅寺へ参ります。
薄暗い街角の奥まった所に、石段があります。
諏訪御寮人(諏訪の姫様)の墓所です。
諏訪頼重の娘で、後に武田晴信(信玄)公の側室となり、勝頼公を生みました。
絶世の美女と謳われましたが25歳の若さで亡くなりました。
勝頼公が高遠城主だった時に、この地に改葬されました。
小説では「由布姫」「湖衣姫」とされていますが、本名は不明です。
戒名には「梅」の文字があり、梅姫だったのではないかと想像してしまいます。
沢山の花が手向けられていました。
合掌。
姫様の墓所のある建福寺からは高遠城が見えます(左上の杉木立のある丘)。
後方には雪を戴いた仙丈岳(3032.6m)が昔と変わらぬ姿で聳えています。
オマケ(勝頼公その後)
①勝頼公には生存伝説があります。
「香宗我部氏を頼ってこの土佐に落ちのび、その後、この大崎村川井(現仁淀川町大崎)に入り、以後、名前を「大崎玄蕃(おおさきげんば)」と変名し、この地で25年ほど活躍し、慶長14年(西暦1609年)8月25日64歳で逝去された、、、、」
武田勝頼の会HPより引用。大崎には
かつより君弁当なるモノがあるそうなので、春になったらツーして食べてみたいと思います。
②勝頼公の血脈
嫡男・信勝公はともに自刃して果て、二男勝親は夭折し、男系子孫は断絶していますが、北条夫人との間に貞姫という娘があり、叔母の松姫の下に養育され、後に徳川高家旗本の宮原義久の正室となり、嫡男・晴克を生み、子孫は旗本宮原氏として幕末まで続いているらしいです。
Posted at 2009/11/27 00:46:07 | |
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