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ファルケ少佐のブログ一覧

2009年11月30日 イイね!

みずみずしいスズカ

え?
みずみずしい、、、、!?


オオラッ!!(;`O´)o/ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄~ ミズ>゚))))彡~~ 

ア、アナタモ(*^_^;)_o/ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄~水嬢>゚)))≫彡~~~

キ、キタゾー!!(;`O´)o/ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄~M嬢 >゚))))彡☆

ヒ、ヒメサマ(´・ω▼)o/ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄~ S嬢>゚))))彡バタバタ


ハイ!
タイトルで釣られたそこのアナタ!


キャバ嬢とは違い松。


しかし、、何処かで見たようなタイトルだわ、、、( ̄ ̄▽ ̄ ̄川




11月29日、某Sサーキットへ行ってきました。
PC主催のドライビングレッスン2009(交通安全講習会)です。
参加19台、A・Bふた組に分かれます。
九さんの陰謀で10台中6台がゲーテさんのA組に入れられていました(爆)

( ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄▽ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄川)アウッ



九さんの新兵器でつ♪
沢山撮ってくらはいね。
本官もカメラ買い松(オーダーちう)

あれ?九さんは走らない?
RSRをトランポで持って来て、みずみずしいところで一緒に走らないんでつか?



教官殿の後について完熟装甲ちう。


画像提供九さん

PSMオフで低μ路。
1本目、窓を開けていたら放水でびしょびしょになりました。
滑りまくりましたが、楽しかったです。
タコ踊りが上達しました。



画像提供九さん

濡れたアスファルトで、コーススラローム。
凄いアンダー、、、汗;;;;;
( ̄ ̄ ̄o ̄ ̄ ̄;)頭もアンダー


休憩をはさんで、ブレーキングとパイロンスラローム。
ABS作動の一歩手前がなかなか難しい。
目前にコンクリート壁が迫って来るし(爆)
写真を撮る暇がなかったです。
次回への課題が山積。



サーキット装甲ですが、、、
夕闇が、、、(予約いっぱいだったのネ)。
なんと、ルマンのような夜間装甲になりました。



ゲーテさんばかりで、、、汗;;;



雨も降り出し、ゆったりペースになってしまいましたが、夜のサーキットは初体験でした。
コーナリングライトの照射は絶大でした( ̄ ̄m ̄ ̄*)ププ

お水路面では愛車の限界での挙動を勉強出来ました。
次回はもっと綺麗に走れるように努力し松。

サーキット夜間装甲中に10,000キロ逝ってしまいました。
本日の燃費、3.6㎞/l。


夜間サーキットの綺麗なオサシンは九さんのページをご覧ください。
九さん、どうも有難うございました。




Posted at 2009/11/30 22:55:05 | コメント(17) | トラックバック(0) | 911 | 日記
2009年11月26日 イイね!

甲斐路晩秋其三(恵林寺・高遠)

ゆっくりと朝食をすませて、出発。


道の駅「はなかげの郷まきおか」の近くにある、武田軍の狼煙台。
このノリが好きでごいっす。


臨済宗妙心寺派 乾徳山恵林寺。
三門には快川国師の有名な遺偈が掲げられています。

安禅不必須山水
滅却心頭火自涼


安禅必ずしも山水をもちいず
心頭滅却すれば火も自ずから涼し

武田家を滅ぼした信長は、武田家残党に対して酸鼻極まる掃討を加えました。
信長は恵林寺に対して潜伏した者の引き渡しを命じますが、快川国師はこれを拒否。
怒り狂った信長は、こともあろうか三門に快川国師はじめ約百人の僧侶を封じ込んで火を放ちました。上記は、快川国師が三門上で壮絶な火定を遂げた際の一句です。



鎌倉時代から続く庭園。
残念ながら紅葉はもう終わっています。



武田不動尊。
本堂脇の明王殿に安置された不動尊は、信玄公が叡山より大僧正の位を受けた際に、京より仏師を招き、対坐で公のナマの顔を刻ませたものです。胸下には信玄公剃髪の際の髪の毛が塗り込められているらしいです。



本堂裏手の信玄公の墓所。
コレもまた圧倒的な存在感を放っていました。
他には五代将軍綱吉の側近として権勢を振るった武川出身の柳沢吉保夫妻の墓所もあります。



宝物殿では多数の遺物を前に、館長さん自ら懇切に解説をして下さりました(感謝)。






時間も押してきたので、高遠に移動することになりました。
諏訪で降りて安国寺から上がりかけの所で、冠雪した八ヶ岳をパチリ。



杖突峠から高遠いりして、「ますや」へ。
お約束の高遠蕎麦です。
冬は蕎麦の食べ放題もやるそうです。
スキーの後に如何でしょうか♪
因みに、ここの大将は964乗りです。



高遠の商店街駐車場に車を置いて、建福禅寺へ参ります。
薄暗い街角の奥まった所に、石段があります。



諏訪御寮人(諏訪の姫様)の墓所です。
諏訪頼重の娘で、後に武田晴信(信玄)公の側室となり、勝頼公を生みました。
絶世の美女と謳われましたが25歳の若さで亡くなりました。
勝頼公が高遠城主だった時に、この地に改葬されました。

小説では「由布姫」「湖衣姫」とされていますが、本名は不明です。
戒名には「梅」の文字があり、梅姫だったのではないかと想像してしまいます。
沢山の花が手向けられていました。
合掌。



姫様の墓所のある建福寺からは高遠城が見えます(左上の杉木立のある丘)。
後方には雪を戴いた仙丈岳(3032.6m)が昔と変わらぬ姿で聳えています。



オマケ(勝頼公その後)

①勝頼公には生存伝説があります。

「香宗我部氏を頼ってこの土佐に落ちのび、その後、この大崎村川井(現仁淀川町大崎)に入り、以後、名前を「大崎玄蕃(おおさきげんば)」と変名し、この地で25年ほど活躍し、慶長14年(西暦1609年)8月25日64歳で逝去された、、、、」
武田勝頼の会HPより引用。大崎にはかつより君弁当なるモノがあるそうなので、春になったらツーして食べてみたいと思います。

②勝頼公の血脈
嫡男・信勝公はともに自刃して果て、二男勝親は夭折し、男系子孫は断絶していますが、北条夫人との間に貞姫という娘があり、叔母の松姫の下に養育され、後に徳川高家旗本の宮原義久の正室となり、嫡男・晴克を生み、子孫は旗本宮原氏として幕末まで続いているらしいです。











Posted at 2009/11/27 00:46:07 | コメント(7) | トラックバック(0) | 日記
2009年11月25日 イイね!

甲斐路晩秋其二(信玄公隠し湯・川浦温泉)

勝沼で遅めの昼食を摂り、
ヴァインケラーをあちこちして利き酒(本官以外の人達)するうち、
日は西に傾いてきました。

その道の大家は、

冬ツーリングは思いのほか行動時間が制限される

ような事を仰っていたような気がします。


夏のころなら、雁坂トンネルを越え奥秩父まで行って、道の駅ナンタラでトイレに入るのも夢ではありませんが、冬至まで1か月を切った昨今、笛吹川に沿って北上し、川浦温泉に着く頃には夕暮れ時となってしまいました。



川浦温泉の一軒宿、「山県舘」の玄関。


川浦温泉は鎌倉時代から薬師の湯として知られていました。永禄4年(1561年、第4次川中島大会戦の年)5月、信玄公はこの地を領有する恵林寺宛てに湯屋の増設を命じています。その朱印状は現在も恵林寺に残されており、文献的に確認された唯一の信玄公隠し湯と言われる所以です。



コレはその文献のレプリカです。
恵林寺の宝物殿に本物は保管され、公開されています。



河浦湯屋造営本願の事
先々の如く勧進せしむべきの旨
寺中評定衆より下知あるべきものなり
よって件の如し

辛酉(四年)五月十日(信玄公龍朱印)
恵林寺




武田家滅亡の後、徳川家康に仕えた山県昌継(武田二十四将、武田四名臣・山県三郎兵衛尉昌景の四男)が川浦村に500石を賜り、その子孫が代々温泉を継承しています。現在のご当主は14代目とのことです。ミーハーな本官は挨拶してきましたが名刺交換するのを忘れていました、、汗;;;

こんこんと湧きだす温泉は、毎分1250リットル42度。
泉質湯量ともに関東一を誇る温泉で、全てかけ流し。
シャワーや蛇口からも源泉100%でした、、、、汗;;;



山県昌景が信玄公近侍(見習士官というところか)で飯富源四郎と呼ばれていた頃に、着用したという具足がありました。他、鎌鑓に陣笠、馬具が展示されていました。山県昌景は飯富兵部少輔虎昌の弟(甥という異説あり)で、信玄公・勝頼公を支えました。内政・軍事に優れた才能を発揮した武将でしたが、長篠戦役の設楽ヶ原の戦いで惜しくも戦死しました。山県隊の赤備えは武田家滅亡の後は、ほとんどそっくり徳川家康に引き継がれ、井伊直政に預けられました。有名な井伊の赤備えはここから由来しています。



お食事は「普通の温泉」でした、、、汗;;;
しゃぶしゃぶの肉質は魚松ヶ原並。
グルメ贅沢三昧のみん友諸兄にはちとナニでしょうか。

いつも素食ばかりの本官は完食するのが精いっぱいでした(爆)



朝の空気が美味しいです。
周囲には何もないので寝るしかありませんでしたw。



岩風呂の入口。
混浴( ̄ ̄m ̄ ̄*)プププ
階段で行くとしんどいですが、専用EVがあって便利です。

しかし、

いたのはおさーんばかりでした。






Posted at 2009/11/25 23:18:31 | コメント(6) | トラックバック(0) | 日記
2009年11月24日 イイね!

甲斐路晩秋其一(田野・勝頼公終焉の地)

コラボ企業のいつもの面子と晩秋の甲斐路を回ってきました。



1000円の煽りか、今までに無いほど交通量の多い中央拘束。
しかも高速慣れしていない白物だらけで、、、。
プリ薄やミニバンが追い越し車線を我が物顔で塞ぐウンザリするような状況下、
勝沼ICを降りたのが出発後4時間経過の1200でした。

ミ@ス党はさらに拘束料金をナンタラとかアフォなことをホザいていますが、「仕@け」といいコレといい国と高速道路を滅ぼすつもりか!

訳のわからぬ憤懣をぶちまけていても仕方がないので、大人しくR20号へ、、(爆)



R20を東に下ってゆくと間もなく甲斐大和の集落に入ります。JR甲斐大和駅裏の広場に武田勝頼公の銅像がひっそりと佇んでいました。ここからさらに東に下ると道は笹子峠に取りつきますが、我々は勝頼公の足跡をたどって日川沿いに左折します。

天正10年(1582年)、織田・徳川連合軍は木曾口と駿河口からなだれを打って甲信に攻め込みました。親類衆や家臣の相次ぐ裏切りや離反によって窮地に立たされた勝頼公は、新造間もない新府城に火を掛け、郡内・岩殿城を目指して落ち延びようとしますが、郡内領主で親類衆の小山田信茂にも裏切られ、行き場を失います。そこで、彼等は武田家にゆかりの深い天目山*を目指しますが、3月11日、日川渓谷入り口の田野辺りで、織田軍の滝川左近将監一益隊先鋒に追いつかれてしまいます。


*応永24年(1417年)、室町幕府に追討された武田家13代武田信満が、山中の木賊山(とくさやま)で自刀して果て甲斐武田氏は一時断絶しています。後に木賊山に棲雲寺が創建されると、その山号から天目山と改称されました。この因縁深い地で武田家は二度滅んだことになります。



日川沿いの道を振り返ります。狭い峡谷の一本道で、小勢でも要所を押さえれば一定時間は敵を食い止めることができます。勝頼公一行は僅かに100人に満たぬ寡勢でしたが、直臣の土屋昌恒、・小宮山友晴らが奮戦し、土屋昌恒は「片手千人斬り」の異名を残しました。攻めよせた織田軍3000人、対する勝頼公の手勢100人弱。



織田軍に扇動された土民の群れが日川上流から攻めかかるに及んで、衆寡敵せず、武田方は全滅。勝頼公、信勝公、北条夫人は自害され、ここに新羅三郎義光以来20代続いた甲斐武田家の嫡流は滅亡してしまったのです。



後に甲斐を領有した徳川家康は、武田旧臣を懐柔するために、勝頼公自刀の地に景徳院を建立しました。



勝頼公生害石。
公はこの石の上で自刃されたと言われています…。



勝頼公の墓石。現在調査のため仮安置中とのことです。墓石の下から、多量の経文を書いた石が発見されました。景徳院には墓石のほか、勝頼公、信勝公、北条夫人の首のない胴体を葬った、没頭地蔵があります。首級は信長によって京都四条河原に晒されたそうです。

勝頼公享年37歳、辞世の句

「おぼろなる月もほのかに雲かすみ  晴れて行くへの西の山のは」

信長・家康の心胆を寒からしめ、一時は父信玄公以上の版図を獲得したものの、土壇場で親類衆や家臣に裏切られ、その無念や察するに余りある勝頼公ですが、辞世の句にはむしろすべてを達観したような清々しさが漂います。

















道端のオマワリサン、
ナニを想う。



(´Tω▼メ)ワコサマ,,,,,,,涙


Posted at 2009/11/24 22:59:58 | コメント(10) | トラックバック(0) | 日記
2009年11月23日 イイね!

高遠

高遠本日は朝一で恵林寺に参詣した後、諏訪から杖突峠経由で高遠入りして、いつものますやさんで高遠蕎麦を食しました。その後、建福禅寺にある諏訪御寮人(勝頼公生母、諏訪の姫様)の墓参をし帰途につきました。
(´・ω▼メ)ヒベサマ

拘束は白物で大渋滞ですた〓〓〓
Posted at 2009/11/23 21:07:25 | コメント(10) | トラックバック(0) | モバイル | モブログ

プロフィール

「神の加護は我らと共にあり続けん」
何シテル?   01/13 00:25
大ガミラス帝星第2航宙艦隊第26戦闘航宙団  ( ̄w ̄;;) の落ちこぼれ万年少佐。ときどき総統や井上靖の山本勘助キャラになる自己韜晦的人物。
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