1995年1月17日午前5時46分、最大震度7、犠牲者6,434名…
平成7年1月の兵庫県南部地震、いわゆる「阪神淡路大震災」から、今日で丸29年が経ちました。
※タイトル画像は「東遊園地」、今日は『1.17のつどい』が行われ、午前5時46分に参加者全員の黙祷が捧げられました。
当時、私は34歳。
地震に襲われる約半年前に、大学生時代から住む大阪を離れ、生まれ育った神戸に戻って来ていました。
結婚して、神戸の新しい顔である人工島の海上都市「ポートアイランド」のマンションを購入し、新居を構えたのです。
あの日は、成人の日を含む3連休明けで、私と妻はまだベッドの中で眠っていました。
「ドーン!!!」5時46分、いきなり下からの突き上げで、何ごとかっ!…とワケが分からないまま、すぐに激しい横揺れに襲われ…
正直“死”を覚悟し、妻を抱きかかえました。
その後も、激しい横揺れが何度も繰り返し…その時、新居購入時に義父から言われた言葉を思い出しました。
『ホント君、そんな高い(14階建の高層階)マンション買って、地震来たらどないすんねん』
まだ、その時は「お義父さん、関西は地震なんて来えへんから大丈夫ですよ…ははは」と笑って返していました…
当時、私も妻も大阪市内で勤務しており、陸路の交通機関は遮断され、ライフラインもついえ、文字通り“陸の孤島”となった神戸ではなす術もありませんでした。
結局は、翌18日早朝リュックに必需品を詰め込み背負い、「く」の字に折れクルマが通れなくなった「神戸大橋」を歩いて渡り、本土に出てからはR43を一路東へ東へ…と大阪を目指して歩き続けました。
途中、都賀川だったか石屋川だったかの河川敷(目の前の家屋は屋根だけ残り潰れていました)で、テントを張り、鍋で炊き出しをしている老夫婦が居ました。
私と妻が、歩き疲れてしばらくベンチで休憩していると…「どうぞ」と炊き出しの煮物をお裾分けしてくださいました。
老夫婦は、ご自身達も大変だろうに、たまたま通り掛かり休んでいる私達にも、温かい食事を分け与えてくれたのです。
この時、温かい煮物をいただきながら、涙が溢れ出て来ました。
私は、以前から人間の『性善説』を信じていましたが、この時に確信を持ちました。
また、あの横倒しになった「阪神高速」の下(ベンダーのトラックが横転しており缶コーヒーやジュースも散乱していました)も、まだ余震が続いていたので、恐る恐る通って来ました。
大阪駅との間で、ピストン輸送を再開させていたJR(どこの駅だったかは覚えていません)の列車に乗る事が出来て、ようやくホッとしました。
そして、大阪梅田に降り立ち、唖然としました…
そこには、街中を行き交うサラリーマンやOLがいて“日常の生活”がありました。
あの瓦礫の山となった神戸の街…
戦後生まれの私が、終戦直後の焼け野原の様な無残な街を生まれて初めて目の当たりにして、正直向こう10年は立ち直れないと感じた神戸の街から30kmほどしか離れていない大阪で、こんな日常が営まれているだなんて!
目を疑うとは、まさしくこの事でした。
大阪府南部に在る妻の実家から、JRそしてライフライン最後の復旧となったポートライナーが再開する8月半ばまで、マスオさん生活をさせて貰いながら大阪市内の職場へ通勤しておりました。
あの日から29年が経ち、東日本や熊本、新潟、胆振などが続き、この元日に発生した能登半島地震ではまだ余震もあり、避難生活が続いており、まだまだ復旧開始も目処が付きません。
そんな災害大国の日本では、まだこれから先も様々な災害に見舞われるでしょう。
しかし、世界から称賛されている1月2日の『日航機事故、奇跡の全員脱出』に見られるように、我々日本人は悲劇的な窮地にあっても、お互い助け合い支え合う事の出来る民族です。
私は、29年前の「あの日」の被災者の一人として、幸いにも生き延びる事が出来ました。
「あの日」亡くなった方々の分まで、これからも日本民族の矜持を胸に生きてゆきます。
「1.17のつどい」会場
竹灯籠「1.17」の「.」部分
Posted at 2024/01/17 14:56:36 | |
トラックバック(0)