日本の歴史 (09)室町時代
1336年 – 1573年
(約240年続いた時代)
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室町時代とは、足利氏が京都室町に幕府を置き、1336年から1573年まで
約240年間続いた日本の中世の時代区分で、南北朝時代と戦国時代を
含む広い意味で用いられる名称です。
概要
広義では「室町幕府が存在した時代」に当たり、足利尊氏が建武式目を制定した1336年または征夷大将軍に補任された1338年から、15代将軍義昭が織田信長によって京都から追放される1573年までの237年間、もしくは235年間を指す。
狭義では建武新政から明徳の和約による南北朝合一(1392年)までの最初の約60年間を南北朝時代、応仁の乱(1467年)または明応の政変(1493年)以後の時代を戦国時代と区分して、その間の75年間から100年間を室町時代とする場合もある。
南北朝期
1336年、後醍醐天皇と対立した足利尊氏が持明院統(北朝)の天皇を擁立し幕府を開いたが、1392年、3代将軍義満によって南北朝が統一され、最終的に武家が優位に立った。将軍直轄の軍事力や財政基盤は弱く、中央の幕府が上位に立ち、地域権力たる守護大名がその監督下にありつつも、両者が相互補完的に政治的経済的支配を展開した(室町幕府-守護体制)。
義満が京都北小路室町に花の御所を造営して以降、歴代将軍を室町殿(むろまちどの)と呼んだことから、その政権を室町幕府、時代を室町時代と呼ぶ。なお、将軍の政権・支配機構を指して「幕府」という言葉を用いるようになるのは後世のことである。
義満の時代に国内は安定したものの、応仁の乱(1467年 - 1477年)ないし明応の政変(1493年)以降は全国動乱の時代(戦国時代)を迎え、それまでの幕府 - 守護体制・荘園公領制が崩壊するとともに、各地に独立勢力とも言える戦国大名が並立するようになる。
室町時代は、鎌倉時代以前には見られない出自不明の農民・商人層の社会進出を可能とし、日本史上初めて顔が見える民衆を登場させた時代でもある。旧勢力の没落と新勢力の興隆の時代として捉えることができる(→下克上)。戦乱が続く時代だったが、経済面においては農業・工業ともに技術が向上し、生産も増大、内外の流通が盛んになった。文化面の充実も著しい時期である。
また、この時代において、ほんの些細ないざこざ(例えば、頭を下げる下げない、笑った笑わない、等)で民衆或いは武士をも巻き込む大騒動に発展することが日常茶飯事だった(「太平記絵巻」にその様子が描かれている)といわれ、これには幕府も手を焼いた、という。
建武の新政を開始した後醍醐天皇は、優れた政治的才覚により種々の先進的な法令改革を行い、これらは後の室町幕府や南朝の政策・法制度の基礎となった。後醍醐(諱は「尊治」)は、北条氏の親族として鎌倉幕府で力のあった足利氏の当主である足利高氏に、「尊氏」の偏諱や鎮守府将軍(のち征東将軍)の地位を与えて重用し、建武政権の中枢に取り込んだ。
こうした反面、相次ぐ北条氏残党の反乱や、恩賞に不満を持つ武士など、一定の火種はくすぶっていた。のち、北条時行による中先代の乱を鎮圧した尊氏は、独自の裁量で武士たちに恩賞を配りはじめた。これを自身への反乱と誤認した後醍醐天皇は、尊氏討伐を決め、建武の乱が発生した。
1336年、建武の乱に勝利した尊氏は、持明院統の光明天皇を擁立し、幕府を開き、両統迭立を再開させた。同年末、後醍醐は京都を脱出して大和国の吉野に南朝を開いたことから、両統迭立ではなく南朝と北朝(持明院統)の内乱が長期にわたって繰り広げられることになった。
この2年後、尊氏は北朝から征夷大将軍に任命される。対する南朝方は各地の武士の勧誘も不調で、その勢力は河内の楠木正行、九州の懐良親王などわずかなものとなった。1348年には正行が高師直率いる幕府軍に敗死。師直は吉野の行宮を焼き払い、南朝はさらに奥地の賀名生に逼塞する事態となる。
ここに内乱の帰趨は決したかに見えたが、幕府では1349年に政務を執ってきた尊氏の弟で保守派の直義と革新派の執事高師直の対立が起こり、やがて守護や諸国の国人が尊氏・師直派と直義派の二派に分かれる全国規模の抗争に発展する(観応の擾乱)。
当初は直義が優位に立ち、師直は1351年に直義派の上杉重季によって殺害される。しかしその後、尊氏が直義派の切り崩しを行ったことにより形勢が逆転し、1352年に直義は伊豆で降伏。浄妙寺境内の延福寺に幽閉され、その後急死した。
その後も争乱は続き、南軍は京都に侵攻して北朝の崇光天皇を廃立し、光厳・光明・崇光の三上皇と皇太子直仁親王を拉致している。九州や中国地方では直義の養子である直冬が勢力を拡大し、山陰の山名氏とともに京都に攻め上るなど、反幕府方の抵抗が続いた。
幕府安定期
1367年、2代将軍足利義詮が死去し、10歳の義満が3代将軍となった。このころまでに反幕府方の大内弘世・上杉憲顕・山名時氏らが幕府に降っており、九州では後醍醐の皇子・征西将軍懐良親王が中国明朝より「日本国王」として冊封を受けてなお勢力を拡大していたものの、中央の南朝方は抵抗力をほとんど失っていた。
管領細川頼之は幼い将軍を補佐し、1369年には南軍の将楠木正儀を寝返らせ、九州の南朝勢力排除のために今川貞世を派遣、内政においては新興の禅宗である南禅寺と旧仏教勢力の比叡山との対立問題の対応や半済の実施などを行い、幕府権力の安定化を推し進めていった。
1379年には康暦の政変で頼之が失脚し、後任には斯波義将が就任する。義満は奉公衆と呼ばれる将軍直轄の軍事力を整え、有力守護大名の山名氏や大内氏を挑発してそれぞれ明徳の乱、応永の乱で追討し、将軍権力を固めて、明徳の和約によって南北朝を合一し、天皇に迫る権力を確立する。
足利義満が急死すると、4代将軍の足利義持は斯波義将に補佐され、義満に対する太上天皇の追号を辞退し、勘合貿易での明との通商を一時停止するなど義満の政策を否定し幕政を守旧的なものに改める。これは貴族色が強まった義満晩年の政策に反感を抱く武士達の不満に応えたものであった。
1423年に実子の足利義量に将軍職を譲るが義量が早世し、さらに義持自身も後継者を決めないまま死去する。6代将軍は籤引きで選ばれることとされ、義満の子で僧門に入っていた義円が還俗して足利義教を名乗り、将軍に就任する。
足利義満が南北朝合一を達成し幕府権力を絶大にしたものの、義満急死後は大名合議制に戻り相対的に将軍の権力も低下した。更に民衆による土一揆の発生や後南朝による南朝再興運動など、幕府にとってはかつてない事態に遭遇するようになった。
そのような中で諸大名にとっても領国統治の必要上、将軍のこれ以上の権威の低下は避けたいとの思惑もあった。比叡山座主であった足利義教がくじ引きで将軍になると、土岐氏・赤松氏・大内氏らの有力守護大名の後継争いに積極的に干渉し将軍権力の強化に努めた。
更に幕府に反抗的だった鎌倉公方足利持氏を永享の乱で、その残党を結城合戦で討伐すると全国に足利将軍に表向きに刃向かう勢力は無くなり、一見社会は安定に向かうかに見えた。だが、余りにも強硬な政治姿勢が人々に「恐怖政治」との反発を抱かせ、1441年に赤松満祐により義教は暗殺された(嘉吉の乱)。これをきっかけに将軍の力は衰えた。
義教の急死により息子の義勝が幼少にて7代将軍となるが、在位1年で早世した。義勝の死後、8代将軍足利義政が就任する。幼少の将軍が続いたため有力大名による合議で幕政が運営された。
関東で鎌倉公方足利成氏が関東管領上杉憲忠を暗殺したことに端を発し享徳の乱が勃発すると、義政は成氏への対抗策として前年に還俗させた異母兄の政知を正式な鎌倉公方として関東に送った。しかし政知は鎌倉に入ることが出来ず、手前の伊豆の堀越に留まりそこに堀越御所を築いた。一方で成氏の方は今川範忠に鎌倉を占拠されたため、下総の古河を新たな本拠とした。これにより、堀越公方と古河公方という二つの鎌倉公方が並立することになった。
義政は子供に恵まれなかったために弟の義視を養子として後継者に指名したが、正室の日野富子に息子・義尚が生まれると、将軍後継問題が発生した。義政は義視を中継ぎとして就任させてから、その上で義尚を将軍にするつもりであったが、義尚の養育係であった政所執事伊勢貞親は義視の将軍就任に反対であった。
1466年、貞親は斯波氏の家督争い(武衛騒動)に介入し斯波義敏に家督を与えるよう義政に求め、義政もこれに応じた。しかし有力大名の山名宗全は斯波義廉を支持し、これに反発した。
貞親は義敏に加え、日明貿易の利権をめぐって細川勝元と対立していた大内政弘も抱き込み一大派閥を結成した上で、義視に謀反の疑いありと義政に讒言し義視の排除を図った。しかし義視が勝元邸に駆け込み救援を求めると、勝元と宗全は結託して義政に抗議し、これにより貞親は失脚し京を去った(文正の政変)。
側近である貞親の失脚により義政は将軍親政を行うことが不可能となり、義政の権威は失墜した。
応仁の乱
その後、宗全は畠山氏の家督をめぐって畠山政長と争っていた畠山義就を味方に引き入れ、義就に上洛を促した。義就を利用して幕政を牛耳ることが宗全の狙いであった。一方でこれは政長に肩入れする勝元との対立を意味していた。
義政は宗全・義就陣営の軍事的優位を悟り、義就支持を表明し政長を管領職から罷免し、宗全に近い斯波義廉を新たな管領に任命した。政長はこれに反発し、上御霊神社に陣取り将軍御所をうかがう姿勢を見せた。
義政は山名・細川両名に畠山家への軍事介入を禁じ、義就と政長を一対一で対決させることで事態の収拾を図った。勝元は義政の命令に従ったが、宗全はこれを無視し義就と共に政長を攻撃した。政長は敗走し、勝元の屋敷へと逃げ込んだ。派閥の領袖としての面目を潰された格好となった勝元は、宗全との全面対決を決意した。
やがて、両者の対立は全国の大名の兵力を政治の中心地である京都に結集して遂に大規模な軍事衝突を引き起こした。これが応仁の乱である。陣を構えた場所から細川方を「東軍」、山名方を「西軍」と呼ぶ。勝元の要請に応じ義政は東軍に将軍旗を与え、西軍を賊軍とした。
これにより東軍は正当性の面で優位に立ったが、大内政弘が入京すると西軍は形勢を盛り返した。更に義政が貞親を政務に復帰させると、これに反発した義視は西軍へと奔り、西軍諸将は義視を新将軍と仰いだ。
これにより足利将軍家は二つに分裂した。その後、戦局が膠着状態に陥ると両軍の間に厭戦感情が広がるが、東軍の赤松政則や西軍の畠山義就は和睦に反対であり、勝元も宗全もこうした和睦反対派を説き伏せることが出来ずにいた。
勝元と宗全が多くの大名を自陣営に引き入れた結果、参戦大名が抱える問題の解決や、彼らが求める利益分配に応えることが困難となり、陣営をまとめることが出来なくなっていた。
結果的に首都で延々と11年間も決着が付かない軍事衝突を断続的に行うことになった。両軍の総大将である勝元と宗全が相次いで病死しても、義政が息子の義尚に将軍職を譲って隠居しても、諸大名は兵を撤退させることは無かった。
兵を撤退させることになったのは、余りの長い戦争に耐え切れなくなった領国で不穏な動きが相次いだからである。結果、応仁の乱は首都・京都を焦土としただけで何ら勝敗を決することなく終結したのである。
だが、応仁の乱をきっかけにした戦闘は乱終結後も地方へと拡大し、関東の享徳の乱も更に10年近く戦いが継続した。この一連の戦闘は日本全土を巻き込み、戦国時代と呼ばれる混沌とした時代へと突入するきっかけとなった。
その後足利将軍家では、義政が義尚への政務の移譲を宣言し東山山荘に移り住んでからも、実際には権力を保持し続けたため室町殿と東山殿の二重権力状態が続いた。日本庭園や書院造の建物に情熱を注いでいた義政は、これらの造営費用を捻出するためにも権力を手放すことは出来なかった。
こういった義政の芸術保護は後の東山文化発展の基礎となり、後々の日本文化に大きな影響を与えた。一方で義政の干渉を疎ましく思った義尚は、その治世の晩年には六角征伐と並行して、義政の影響力を排除するために室町第ではなく近江で政務を行うようになった。
また応仁の乱以降、多くの守護大名が京都を離れ在国するようになり、守護在京制が形骸化した。理由の一つは幕府の権威が失墜したためである。もう一つは、幕府の権威が失墜したことでそこに由来していた守護としての統治権が揺らぎ、大名は己の実力で領国支配を維持しなければならなくなったためである。
配下であった守護代や国人衆による下克上、更には加賀一向一揆や山城国一揆に代表される民衆の一揆にもその領国支配を脅かされるようになっていくのである。
戦国期
応仁の乱で将軍の権威は大きく失墜し幕府の権力は衰退した。足利義維の「堺幕府」や足利義昭の「鞆幕府」や足利義材「放生津幕府」など足利将軍家の亡命幕府が樹立されたが軍事的な実権はある程度保たれていた。
義政が隠居した後、義尚は寺社本所領と奉公衆の所領を押領していた六角高頼を討伐するため、守護大名や奉公衆の軍勢を率いて将軍親征を行った(長享・延徳の乱)。義尚が陣中にて若くして病没したことで討伐軍は撤退したものの、後を継いで10代将軍の座に就いた義視の子・足利義材もまた義尚と同様に六角征伐を行っており、この時までは足利将軍は武家の棟梁、すなわち軍事的指導者としての役割を期待されていた。
だが六角征伐の後、1493年に義材が畠山政長と協力して河内の畠山基家討伐に向かったことで義材と将軍家の運命は大きく狂うこととなる。義材と対立していた細川政元は、富子や伊勢貞宗と示し合わせて義材が京を離れた隙に挙兵し、堀越公方足利政知の息子である清晃(足利義澄)を11代将軍に擁立した(明応の政変)。
孤立無援となった政長は正覚寺で自害。義材は捕縛され、上原元秀の屋敷に幽閉された(後に逃亡)。一方で、このクーデターを認めず義材の方こそが正当な将軍であるとみなした大名もいた。
これ以降、足利将軍家は「義澄系」と「義稙系」(義材系)の二つの系統に分裂した状態が永らく続くこととなる。戦国時代の始期は長らく応仁の乱がきっかけとされてきたが、今日では明応の政変が始期であるとする説が有力になっている。
家臣である管領が将軍を廃したこの事件で、政元は細川京兆家による管領職の世襲化と独占状態を確立、さらに将軍の廃立権をも手中に収めたが、程なく自らの後継者を巡る家中の内紛で暗殺された。以後、政元の養子である澄元と高国が細川京兆家の家督を巡って争いを始めた(永正の錯乱)。
これを知った前将軍義稙(義材改め)は、大内義興と共に中国地方の長門から上洛、細川高国の出迎えを受けて将軍位に復した。だが、大内義興が本国情勢によって帰国すると大内の軍事力を失った高国方は一時劣勢となり、澄元と三好之長に攻められ近江坂本まで後退する。
この状況を見た義稙は高国を見限り澄元方へと鞍替えした。しかし、六角定頼の支援を取り付けた高国は再び京へ進軍し之長を破った(等持院の戦い)。その後、高国の追撃を受けた澄元は阿波にまで追いやられそこで病没した。高国は亡命先で没した義澄の遺児・足利義晴を12代将軍に擁立して義稙を廃した。
最終的に澄元の子・晴元が高国を倒し(大物崩れ)、義晴と和睦しその管領になる事で20年以上にわたる内紛に終止符を打った。結局、明応の政変から始まった一連の内紛で中央政権としての室町幕府の機能は完全に崩壊し、京都周辺を治めるだけの一地方勢力へと転落、将軍は辛うじて戦国大名への権威付けとしての存在感を示すだけの形式的な存在と化した。
だが、晴元が政権獲得の最終段階で功臣・三好元長を、三好政長や茨木長隆らと結託して死に追いやった事が後年大きく裏目に出る。元長の子である長慶兄弟が父の仇である政長を討ち滅ぼすと(江口の戦い)、長慶の勢いを恐れた晴元は京を捨て近江に逃亡し細川政権は崩壊した。
長慶は上洛し13代将軍足利義輝を傀儡化した。長慶は晴元の後任に、高国の養子であった細川氏綱を擁立することで晴元の職権を奪い、相伴衆の一員として幕政の全権を掌握した。だがその後、弟の十河一存や三好実休、嫡男の三好義興が亡くなるなど身内の不幸が相次ぎ、畠山高政や六角義賢ら反三好勢力の活発化も重なり三好政権は不安定化する。晩年には病気がちであった長慶は失意のうちに亡くなった。
この状況を見た義輝は、関東管領上杉謙信をはじめとする親将軍家の戦国大名の支援を受けながら将軍権威の再建に努めるが、その矢先に三好政権の実力者であった三好三人衆らが御所を襲撃、大勢の幕臣とともに殺害された(永禄の変)。
織豊期
義輝の死後、その弟・足利義昭は管領斯波氏の守護代の元家臣である有力大名・織田信長の支援を受けて上洛し、三好義継らを臣従させて将軍に就任する。だが、やがて幕府の権威に依らない新秩序形成を目指す信長と旧来の将軍・幕府中心の秩序の再建を目指す義昭は敵対し、1573年に義昭は信長によって京都から追放された。
それ以降、義昭は各地を転々とした後、中国地方の有力大名・毛利輝元の支配下にあった備後の鞆の浦へと下向した。信長は義昭の子である義尋を当初は擁立するものの、やがて自ら天下人を目指すようになった。また、管領・守護などの幕府組織も信長の築く政治機構の内に吸収されていった。
しかし、織田家と対立する毛利領に移った義昭は、朝廷からは征夷大将軍職を解任されなかったので、備後から書状や重臣を派遣することにより各地の大名を動員し、信長征討活動を長期に渡って行った。長らく義昭の京都からの下向をもって室町幕府および室町時代の終期と看做されていたが、昨今では備後幕府(鞆幕府)の地位が改めて見直され、室町幕府の存続が認められつつある。
信長が自らの重臣・明智光秀によって討たれ(本能寺の変)、その仇討ちをしたもう一人の重臣である羽柴秀吉が関白太政大臣となり、義昭が帰京して将軍を辞任したところで、ようやく静かに足利時代は幕を閉じた。
倭寇と西洋人来航
室町時代には倭寇(わこう)と呼ばれる無国籍海上勢力が活動し、14世紀の倭寇は前期倭寇、15世紀の倭寇は後期倭寇と呼ばれる。倭寇は朝鮮半島や中国沿岸部、東南アジアにわたる東アジア地域で活動し、海賊行為や密貿易などを行った。
さらに世界史的には大航海時代を迎えており、ポルトガルやイスパニアなどのヨーロッパ人も東アジアで活動を広めていた。
日明関係
勘合貿易で倭寇と区別するために商業の町堺と九州の港町の博多と坊津(鹿児島県南さつま市坊津町坊)から出航し、寧波で勘合符を照査させる。 足利義持が明と貿易を一時停止するが、足利義教が勘合貿易を再開した。細川氏と大内氏が実権を巡り衝突(寧波の乱)して、以後大内氏が貿易の実権を握った。
日朝関係
朝鮮王朝との国交と貿易。足利義満は倭寇を取り締まり朝鮮との交易。
朝鮮通信使 - 足利義満からの使者と国書に対する返礼で1375年に足利義満に対して信(よしみ)を通わす使者として派遣されたのが始まりである。15世紀半ごろまで続いた。
応永の外寇 - 1419年におきた朝鮮による対馬襲撃。
三浦の乱 - 三浦(乃而浦(鎮海市)、富山浦(釜山市))に定住する日本人が反乱。
Wikipediaより