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2026年06月28日 イイね!

日本の歴史 (09)室町時代

日本の歴史 (09)室町時代


日本の歴史 (09)室町時代
1336年 – 1573年
(約240年続いた時代)

原始 (00)石器時代 (01)縄文時代 (02)弥生時代
古代 (03)古墳時代 (04)飛鳥時代 (05)奈良時代 (06)平安時代
中世 (07)鎌倉時代 (08)建武の新政 (09)室町時代
中世 (10)安土桃山時代 (11)江戸時代
近代 (12)明治時代 (13)大正時代
現代 (14)昭和時代 (15)平成時代 (16)令和時代


室町時代とは、足利氏が京都室町に幕府を置き、1336年から1573年まで
約240年間続いた日本の中世の時代区分で、南北朝時代と戦国時代を
含む広い意味で用いられる名称です。



概要
広義では「室町幕府が存在した時代」に当たり、足利尊氏が建武式目を制定した1336年または征夷大将軍に補任された1338年から、15代将軍義昭が織田信長によって京都から追放される1573年までの237年間、もしくは235年間を指す。

狭義では建武新政から明徳の和約による南北朝合一(1392年)までの最初の約60年間を南北朝時代、応仁の乱(1467年)または明応の政変(1493年)以後の時代を戦国時代と区分して、その間の75年間から100年間を室町時代とする場合もある。



南北朝期
1336年、後醍醐天皇と対立した足利尊氏が持明院統(北朝)の天皇を擁立し幕府を開いたが、1392年、3代将軍義満によって南北朝が統一され、最終的に武家が優位に立った。将軍直轄の軍事力や財政基盤は弱く、中央の幕府が上位に立ち、地域権力たる守護大名がその監督下にありつつも、両者が相互補完的に政治的経済的支配を展開した(室町幕府-守護体制)。

義満が京都北小路室町に花の御所を造営して以降、歴代将軍を室町殿(むろまちどの)と呼んだことから、その政権を室町幕府、時代を室町時代と呼ぶ。なお、将軍の政権・支配機構を指して「幕府」という言葉を用いるようになるのは後世のことである。

義満の時代に国内は安定したものの、応仁の乱(1467年 - 1477年)ないし明応の政変(1493年)以降は全国動乱の時代(戦国時代)を迎え、それまでの幕府 - 守護体制・荘園公領制が崩壊するとともに、各地に独立勢力とも言える戦国大名が並立するようになる。

室町時代は、鎌倉時代以前には見られない出自不明の農民・商人層の社会進出を可能とし、日本史上初めて顔が見える民衆を登場させた時代でもある。旧勢力の没落と新勢力の興隆の時代として捉えることができる(→下克上)。戦乱が続く時代だったが、経済面においては農業・工業ともに技術が向上し、生産も増大、内外の流通が盛んになった。文化面の充実も著しい時期である。

また、この時代において、ほんの些細ないざこざ(例えば、頭を下げる下げない、笑った笑わない、等)で民衆或いは武士をも巻き込む大騒動に発展することが日常茶飯事だった(「太平記絵巻」にその様子が描かれている)といわれ、これには幕府も手を焼いた、という。

建武の新政を開始した後醍醐天皇は、優れた政治的才覚により種々の先進的な法令改革を行い、これらは後の室町幕府や南朝の政策・法制度の基礎となった。後醍醐(諱は「尊治」)は、北条氏の親族として鎌倉幕府で力のあった足利氏の当主である足利高氏に、「尊氏」の偏諱や鎮守府将軍(のち征東将軍)の地位を与えて重用し、建武政権の中枢に取り込んだ。
こうした反面、相次ぐ北条氏残党の反乱や、恩賞に不満を持つ武士など、一定の火種はくすぶっていた。のち、北条時行による中先代の乱を鎮圧した尊氏は、独自の裁量で武士たちに恩賞を配りはじめた。これを自身への反乱と誤認した後醍醐天皇は、尊氏討伐を決め、建武の乱が発生した。
1336年、建武の乱に勝利した尊氏は、持明院統の光明天皇を擁立し、幕府を開き、両統迭立を再開させた。同年末、後醍醐は京都を脱出して大和国の吉野に南朝を開いたことから、両統迭立ではなく南朝と北朝(持明院統)の内乱が長期にわたって繰り広げられることになった。
この2年後、尊氏は北朝から征夷大将軍に任命される。対する南朝方は各地の武士の勧誘も不調で、その勢力は河内の楠木正行、九州の懐良親王などわずかなものとなった。1348年には正行が高師直率いる幕府軍に敗死。師直は吉野の行宮を焼き払い、南朝はさらに奥地の賀名生に逼塞する事態となる。

ここに内乱の帰趨は決したかに見えたが、幕府では1349年に政務を執ってきた尊氏の弟で保守派の直義と革新派の執事高師直の対立が起こり、やがて守護や諸国の国人が尊氏・師直派と直義派の二派に分かれる全国規模の抗争に発展する(観応の擾乱)。
当初は直義が優位に立ち、師直は1351年に直義派の上杉重季によって殺害される。しかしその後、尊氏が直義派の切り崩しを行ったことにより形勢が逆転し、1352年に直義は伊豆で降伏。浄妙寺境内の延福寺に幽閉され、その後急死した。
その後も争乱は続き、南軍は京都に侵攻して北朝の崇光天皇を廃立し、光厳・光明・崇光の三上皇と皇太子直仁親王を拉致している。九州や中国地方では直義の養子である直冬が勢力を拡大し、山陰の山名氏とともに京都に攻め上るなど、反幕府方の抵抗が続いた。



幕府安定期
1367年、2代将軍足利義詮が死去し、10歳の義満が3代将軍となった。このころまでに反幕府方の大内弘世・上杉憲顕・山名時氏らが幕府に降っており、九州では後醍醐の皇子・征西将軍懐良親王が中国明朝より「日本国王」として冊封を受けてなお勢力を拡大していたものの、中央の南朝方は抵抗力をほとんど失っていた。
管領細川頼之は幼い将軍を補佐し、1369年には南軍の将楠木正儀を寝返らせ、九州の南朝勢力排除のために今川貞世を派遣、内政においては新興の禅宗である南禅寺と旧仏教勢力の比叡山との対立問題の対応や半済の実施などを行い、幕府権力の安定化を推し進めていった。
1379年には康暦の政変で頼之が失脚し、後任には斯波義将が就任する。義満は奉公衆と呼ばれる将軍直轄の軍事力を整え、有力守護大名の山名氏や大内氏を挑発してそれぞれ明徳の乱、応永の乱で追討し、将軍権力を固めて、明徳の和約によって南北朝を合一し、天皇に迫る権力を確立する。

足利義満が急死すると、4代将軍の足利義持は斯波義将に補佐され、義満に対する太上天皇の追号を辞退し、勘合貿易での明との通商を一時停止するなど義満の政策を否定し幕政を守旧的なものに改める。これは貴族色が強まった義満晩年の政策に反感を抱く武士達の不満に応えたものであった。
1423年に実子の足利義量に将軍職を譲るが義量が早世し、さらに義持自身も後継者を決めないまま死去する。6代将軍は籤引きで選ばれることとされ、義満の子で僧門に入っていた義円が還俗して足利義教を名乗り、将軍に就任する。

足利義満が南北朝合一を達成し幕府権力を絶大にしたものの、義満急死後は大名合議制に戻り相対的に将軍の権力も低下した。更に民衆による土一揆の発生や後南朝による南朝再興運動など、幕府にとってはかつてない事態に遭遇するようになった。
そのような中で諸大名にとっても領国統治の必要上、将軍のこれ以上の権威の低下は避けたいとの思惑もあった。比叡山座主であった足利義教がくじ引きで将軍になると、土岐氏・赤松氏・大内氏らの有力守護大名の後継争いに積極的に干渉し将軍権力の強化に努めた。
更に幕府に反抗的だった鎌倉公方足利持氏を永享の乱で、その残党を結城合戦で討伐すると全国に足利将軍に表向きに刃向かう勢力は無くなり、一見社会は安定に向かうかに見えた。だが、余りにも強硬な政治姿勢が人々に「恐怖政治」との反発を抱かせ、1441年に赤松満祐により義教は暗殺された(嘉吉の乱)。これをきっかけに将軍の力は衰えた。

義教の急死により息子の義勝が幼少にて7代将軍となるが、在位1年で早世した。義勝の死後、8代将軍足利義政が就任する。幼少の将軍が続いたため有力大名による合議で幕政が運営された。

関東で鎌倉公方足利成氏が関東管領上杉憲忠を暗殺したことに端を発し享徳の乱が勃発すると、義政は成氏への対抗策として前年に還俗させた異母兄の政知を正式な鎌倉公方として関東に送った。しかし政知は鎌倉に入ることが出来ず、手前の伊豆の堀越に留まりそこに堀越御所を築いた。一方で成氏の方は今川範忠に鎌倉を占拠されたため、下総の古河を新たな本拠とした。これにより、堀越公方と古河公方という二つの鎌倉公方が並立することになった。

義政は子供に恵まれなかったために弟の義視を養子として後継者に指名したが、正室の日野富子に息子・義尚が生まれると、将軍後継問題が発生した。義政は義視を中継ぎとして就任させてから、その上で義尚を将軍にするつもりであったが、義尚の養育係であった政所執事伊勢貞親は義視の将軍就任に反対であった。
1466年、貞親は斯波氏の家督争い(武衛騒動)に介入し斯波義敏に家督を与えるよう義政に求め、義政もこれに応じた。しかし有力大名の山名宗全は斯波義廉を支持し、これに反発した。
貞親は義敏に加え、日明貿易の利権をめぐって細川勝元と対立していた大内政弘も抱き込み一大派閥を結成した上で、義視に謀反の疑いありと義政に讒言し義視の排除を図った。しかし義視が勝元邸に駆け込み救援を求めると、勝元と宗全は結託して義政に抗議し、これにより貞親は失脚し京を去った(文正の政変)。
側近である貞親の失脚により義政は将軍親政を行うことが不可能となり、義政の権威は失墜した。



応仁の乱
その後、宗全は畠山氏の家督をめぐって畠山政長と争っていた畠山義就を味方に引き入れ、義就に上洛を促した。義就を利用して幕政を牛耳ることが宗全の狙いであった。一方でこれは政長に肩入れする勝元との対立を意味していた。
義政は宗全・義就陣営の軍事的優位を悟り、義就支持を表明し政長を管領職から罷免し、宗全に近い斯波義廉を新たな管領に任命した。政長はこれに反発し、上御霊神社に陣取り将軍御所をうかがう姿勢を見せた。
義政は山名・細川両名に畠山家への軍事介入を禁じ、義就と政長を一対一で対決させることで事態の収拾を図った。勝元は義政の命令に従ったが、宗全はこれを無視し義就と共に政長を攻撃した。政長は敗走し、勝元の屋敷へと逃げ込んだ。派閥の領袖としての面目を潰された格好となった勝元は、宗全との全面対決を決意した。

やがて、両者の対立は全国の大名の兵力を政治の中心地である京都に結集して遂に大規模な軍事衝突を引き起こした。これが応仁の乱である。陣を構えた場所から細川方を「東軍」、山名方を「西軍」と呼ぶ。勝元の要請に応じ義政は東軍に将軍旗を与え、西軍を賊軍とした。
これにより東軍は正当性の面で優位に立ったが、大内政弘が入京すると西軍は形勢を盛り返した。更に義政が貞親を政務に復帰させると、これに反発した義視は西軍へと奔り、西軍諸将は義視を新将軍と仰いだ。
これにより足利将軍家は二つに分裂した。その後、戦局が膠着状態に陥ると両軍の間に厭戦感情が広がるが、東軍の赤松政則や西軍の畠山義就は和睦に反対であり、勝元も宗全もこうした和睦反対派を説き伏せることが出来ずにいた。
勝元と宗全が多くの大名を自陣営に引き入れた結果、参戦大名が抱える問題の解決や、彼らが求める利益分配に応えることが困難となり、陣営をまとめることが出来なくなっていた。
結果的に首都で延々と11年間も決着が付かない軍事衝突を断続的に行うことになった。両軍の総大将である勝元と宗全が相次いで病死しても、義政が息子の義尚に将軍職を譲って隠居しても、諸大名は兵を撤退させることは無かった。
兵を撤退させることになったのは、余りの長い戦争に耐え切れなくなった領国で不穏な動きが相次いだからである。結果、応仁の乱は首都・京都を焦土としただけで何ら勝敗を決することなく終結したのである。
だが、応仁の乱をきっかけにした戦闘は乱終結後も地方へと拡大し、関東の享徳の乱も更に10年近く戦いが継続した。この一連の戦闘は日本全土を巻き込み、戦国時代と呼ばれる混沌とした時代へと突入するきっかけとなった。

その後足利将軍家では、義政が義尚への政務の移譲を宣言し東山山荘に移り住んでからも、実際には権力を保持し続けたため室町殿と東山殿の二重権力状態が続いた。日本庭園や書院造の建物に情熱を注いでいた義政は、これらの造営費用を捻出するためにも権力を手放すことは出来なかった。
こういった義政の芸術保護は後の東山文化発展の基礎となり、後々の日本文化に大きな影響を与えた。一方で義政の干渉を疎ましく思った義尚は、その治世の晩年には六角征伐と並行して、義政の影響力を排除するために室町第ではなく近江で政務を行うようになった。

また応仁の乱以降、多くの守護大名が京都を離れ在国するようになり、守護在京制が形骸化した。理由の一つは幕府の権威が失墜したためである。もう一つは、幕府の権威が失墜したことでそこに由来していた守護としての統治権が揺らぎ、大名は己の実力で領国支配を維持しなければならなくなったためである。
配下であった守護代や国人衆による下克上、更には加賀一向一揆や山城国一揆に代表される民衆の一揆にもその領国支配を脅かされるようになっていくのである。



戦国期
応仁の乱で将軍の権威は大きく失墜し幕府の権力は衰退した。足利義維の「堺幕府」や足利義昭の「鞆幕府」や足利義材「放生津幕府」など足利将軍家の亡命幕府が樹立されたが軍事的な実権はある程度保たれていた。
義政が隠居した後、義尚は寺社本所領と奉公衆の所領を押領していた六角高頼を討伐するため、守護大名や奉公衆の軍勢を率いて将軍親征を行った(長享・延徳の乱)。義尚が陣中にて若くして病没したことで討伐軍は撤退したものの、後を継いで10代将軍の座に就いた義視の子・足利義材もまた義尚と同様に六角征伐を行っており、この時までは足利将軍は武家の棟梁、すなわち軍事的指導者としての役割を期待されていた。
だが六角征伐の後、1493年に義材が畠山政長と協力して河内の畠山基家討伐に向かったことで義材と将軍家の運命は大きく狂うこととなる。義材と対立していた細川政元は、富子や伊勢貞宗と示し合わせて義材が京を離れた隙に挙兵し、堀越公方足利政知の息子である清晃(足利義澄)を11代将軍に擁立した(明応の政変)。
孤立無援となった政長は正覚寺で自害。義材は捕縛され、上原元秀の屋敷に幽閉された(後に逃亡)。一方で、このクーデターを認めず義材の方こそが正当な将軍であるとみなした大名もいた。
これ以降、足利将軍家は「義澄系」と「義稙系」(義材系)の二つの系統に分裂した状態が永らく続くこととなる。戦国時代の始期は長らく応仁の乱がきっかけとされてきたが、今日では明応の政変が始期であるとする説が有力になっている。

家臣である管領が将軍を廃したこの事件で、政元は細川京兆家による管領職の世襲化と独占状態を確立、さらに将軍の廃立権をも手中に収めたが、程なく自らの後継者を巡る家中の内紛で暗殺された。以後、政元の養子である澄元と高国が細川京兆家の家督を巡って争いを始めた(永正の錯乱)。
これを知った前将軍義稙(義材改め)は、大内義興と共に中国地方の長門から上洛、細川高国の出迎えを受けて将軍位に復した。だが、大内義興が本国情勢によって帰国すると大内の軍事力を失った高国方は一時劣勢となり、澄元と三好之長に攻められ近江坂本まで後退する。
この状況を見た義稙は高国を見限り澄元方へと鞍替えした。しかし、六角定頼の支援を取り付けた高国は再び京へ進軍し之長を破った(等持院の戦い)。その後、高国の追撃を受けた澄元は阿波にまで追いやられそこで病没した。高国は亡命先で没した義澄の遺児・足利義晴を12代将軍に擁立して義稙を廃した。

最終的に澄元の子・晴元が高国を倒し(大物崩れ)、義晴と和睦しその管領になる事で20年以上にわたる内紛に終止符を打った。結局、明応の政変から始まった一連の内紛で中央政権としての室町幕府の機能は完全に崩壊し、京都周辺を治めるだけの一地方勢力へと転落、将軍は辛うじて戦国大名への権威付けとしての存在感を示すだけの形式的な存在と化した。

だが、晴元が政権獲得の最終段階で功臣・三好元長を、三好政長や茨木長隆らと結託して死に追いやった事が後年大きく裏目に出る。元長の子である長慶兄弟が父の仇である政長を討ち滅ぼすと(江口の戦い)、長慶の勢いを恐れた晴元は京を捨て近江に逃亡し細川政権は崩壊した。
長慶は上洛し13代将軍足利義輝を傀儡化した。長慶は晴元の後任に、高国の養子であった細川氏綱を擁立することで晴元の職権を奪い、相伴衆の一員として幕政の全権を掌握した。だがその後、弟の十河一存や三好実休、嫡男の三好義興が亡くなるなど身内の不幸が相次ぎ、畠山高政や六角義賢ら反三好勢力の活発化も重なり三好政権は不安定化する。晩年には病気がちであった長慶は失意のうちに亡くなった。

この状況を見た義輝は、関東管領上杉謙信をはじめとする親将軍家の戦国大名の支援を受けながら将軍権威の再建に努めるが、その矢先に三好政権の実力者であった三好三人衆らが御所を襲撃、大勢の幕臣とともに殺害された(永禄の変)。



織豊期
義輝の死後、その弟・足利義昭は管領斯波氏の守護代の元家臣である有力大名・織田信長の支援を受けて上洛し、三好義継らを臣従させて将軍に就任する。だが、やがて幕府の権威に依らない新秩序形成を目指す信長と旧来の将軍・幕府中心の秩序の再建を目指す義昭は敵対し、1573年に義昭は信長によって京都から追放された。
それ以降、義昭は各地を転々とした後、中国地方の有力大名・毛利輝元の支配下にあった備後の鞆の浦へと下向した。信長は義昭の子である義尋を当初は擁立するものの、やがて自ら天下人を目指すようになった。また、管領・守護などの幕府組織も信長の築く政治機構の内に吸収されていった。

しかし、織田家と対立する毛利領に移った義昭は、朝廷からは征夷大将軍職を解任されなかったので、備後から書状や重臣を派遣することにより各地の大名を動員し、信長征討活動を長期に渡って行った。長らく義昭の京都からの下向をもって室町幕府および室町時代の終期と看做されていたが、昨今では備後幕府(鞆幕府)の地位が改めて見直され、室町幕府の存続が認められつつある。

信長が自らの重臣・明智光秀によって討たれ(本能寺の変)、その仇討ちをしたもう一人の重臣である羽柴秀吉が関白太政大臣となり、義昭が帰京して将軍を辞任したところで、ようやく静かに足利時代は幕を閉じた。



倭寇と西洋人来航
室町時代には倭寇(わこう)と呼ばれる無国籍海上勢力が活動し、14世紀の倭寇は前期倭寇、15世紀の倭寇は後期倭寇と呼ばれる。倭寇は朝鮮半島や中国沿岸部、東南アジアにわたる東アジア地域で活動し、海賊行為や密貿易などを行った。
さらに世界史的には大航海時代を迎えており、ポルトガルやイスパニアなどのヨーロッパ人も東アジアで活動を広めていた。

日明関係
勘合貿易で倭寇と区別するために商業の町堺と九州の港町の博多と坊津(鹿児島県南さつま市坊津町坊)から出航し、寧波で勘合符を照査させる。 足利義持が明と貿易を一時停止するが、足利義教が勘合貿易を再開した。細川氏と大内氏が実権を巡り衝突(寧波の乱)して、以後大内氏が貿易の実権を握った。

日朝関係
朝鮮王朝との国交と貿易。足利義満は倭寇を取り締まり朝鮮との交易。
朝鮮通信使 - 足利義満からの使者と国書に対する返礼で1375年に足利義満に対して信(よしみ)を通わす使者として派遣されたのが始まりである。15世紀半ごろまで続いた。
応永の外寇 - 1419年におきた朝鮮による対馬襲撃。
三浦の乱 - 三浦(乃而浦(鎮海市)、富山浦(釜山市))に定住する日本人が反乱。


Wikipediaより

Posted at 2026/06/28 03:50:09 | コメント(1) | トラックバック(0) | 日本の歴史 | 日記
2026年06月19日 イイね!

日本の歴史 (08)建武の新政

日本の歴史 (08)建武の新政


日本の歴史 (08)建武の新政
1333年 – 1336年
(約3年の時代)

原始 (00)石器時代 (01)縄文時代 (02)弥生時代
古代 (03)古墳時代 (04)飛鳥時代 (05)奈良時代 (06)平安時代
中世 (07)鎌倉時代 (08)建武の新政 (09)室町時代
中世 (10)安土桃山時代 (11)江戸時代
近代 (12)明治時代 (13)大正時代
現代 (14)昭和時代 (15)平成時代 (16)令和時代


1333年、鎌倉幕府を倒した 後醍醐天皇 は、天皇を中心とする新たな政治を始めました。 この政治のことを、当時の年号「建武」に由来して 建武の新政 といいます。 建武の新政は、公家(朝廷につかえる貴族)と武家の区別ない、天皇中心の政治を理想にかかげていましたが、実際は 公家を重視した政治 でした。


鎌倉時代後期には、鎌倉幕府は北条得宗家による執政体制にあり、内管領の長崎氏が勢力を持っていた。元寇以来の政局不安などにより、諸国では悪党が活動する。幕府は次第に武士層からの支持を失っていった。
一方、朝廷では大覚寺統と持明院統が対立して、相互に皇位を交代する両統迭立が行われており、文保2年(1318年)に大覚寺統の傍流から出た後醍醐天皇が即位し、平安時代の醍醐天皇、村上天皇の治世である延喜・天暦の治を理想としていた。
だが、皇位継承を巡って大覚寺統嫡流派(兄・後二条天皇の系統、後の木寺宮家)と持明院統派の双方と対立していた後醍醐天皇は自己の政策を安定して進めかつ皇統の自己への一本化を図るために、両派の排除及びこれを支持する鎌倉幕府の打倒を密かに目指していた。

後醍醐天皇の討幕計画は、正中元年(1324年)の正中の変、元弘元年(1331年)の元弘の乱(元弘の変)と2度までも発覚する。この過程で、日野資朝・花山院師賢・北畠具行といった側近の公卿が命を落とした。
元弘の乱で後醍醐天皇は捕らわれて隠岐島に配流され、鎌倉幕府に擁立された持明院統の光厳天皇が即位した。後醍醐天皇の討幕運動に呼応した河内の楠木正成や後醍醐天皇の皇子で天台座主から還俗した護良親王、護良を支援した播磨の赤松則村(円心)らが幕府軍に抵抗した。
これを奉じる形で幕府側の御家人である上野国の新田義貞や下野国の足利尊氏(高氏)らが幕府から朝廷へ寝返り、諸国の反幕府勢力を集める。

元弘3年/正慶2年(1333年)に後醍醐天皇は隠岐を脱出。伯耆国で名和長年に迎えられ船上山で倒幕の兵を挙げる。足利尊氏は京都で赤松則村や千種忠顕らと六波羅探題を滅ぼし、新田義貞は稲村ヶ崎から鎌倉を攻め、北条高時ら北条氏一族を滅ぼして鎌倉幕府を滅亡させた。後醍醐は赤松氏や楠木氏に迎えられて京都へ帰還する。


新政の開始
後醍醐天皇は光厳天皇の即位自体を遡って無かったことにし、正慶の元号も廃止。光厳が署名した詔書や光厳が与えた官位の無効を宣言する。さらに関白の鷹司冬教を解任した。
帰京した後醍醐は富小路坂の里内裏に入り、光厳天皇の皇位を否定し親政を開始するが、京都では護良親王とともに六波羅攻撃を万位主導した足利高氏が諸国へ軍勢を催促、上洛した武士を収めての京都支配を主導していた。
高氏ら足利氏の勢力を警戒した護良親王は奈良の信貴山に拠り高氏を牽制する動きに出たため、後醍醐天皇は妥協策として6月13日に護良親王を征夷大将軍に任命する。
8月5日、足利高氏は後醍醐天皇の諱「尊治」から一字を与えられ「尊氏」と改め、のち鎮守府将軍に任命された。

記録所、恩賞方、9月には雑訴決断所がそれぞれ設置される。関東地方から東北地方にかけて支配を行き渡らせるため、10月には側近の北畠親房、親房の子で鎮守府将軍・陸奥守に任命された北畠顕家が義良親王(後村上天皇)を奉じて陸奥国へ派遣されて陸奥将軍府が成立。
12月には尊氏の弟の足利直義が後醍醐皇子の成良親王を奉じて鎌倉へ派遣され、鎌倉将軍府が成立。

元弘4年/建武元年(1334年)正月には立太子の儀が行われ、恒良親王(母:阿野廉子)が皇太子に定められる。また、年号が「建武」と定められる。


新政の瓦解
建武2年(1335年)5月には内裏造営のための造内裏行事所が開設される。6月、関東申次を務め北条氏と縁のあった公家の西園寺公宗らが北条高時の弟泰家(時興)を匿い、持明院統の後伏見法皇を奉じて政権転覆を企てる陰謀が発覚する。公宗は後醍醐天皇の暗殺に失敗し誅殺されたが、泰家は逃れ、各地の北条残党に挙兵を呼びかける。

鎌倉幕府の滅亡後も、旧北条氏の守護国を中心に各地で反乱が起こっており、7月には信濃国で高時の遺児である北条時行と、その叔父北条泰家が挙兵して鎌倉を占領し直義らが追われる中先代の乱が起こる。
この新政権の危機に直面後、足利尊氏は後醍醐天皇に時行討伐のための征夷大将軍、総追捕使の任命を求めるが、後醍醐天皇は要求を退け、成良親王を征夷大将軍に任命した。仕方なく尊氏は勅状を得ないまま北条軍の討伐に向かうが、後醍醐天皇は追って尊氏を(征夷大将軍ではなく)征東将軍に任じる。
時行軍を駆逐した尊氏は後醍醐天皇の帰京命令を拒否してそのまま鎌倉に居を据えた。8月には新政下の世相を風刺する二条河原落書が現れた。

尊氏は乱の鎮圧に付き従った将士に独自に恩賞を与えたり、関東にあった新田氏の領地を勝手に没収するなど新政から離反する。尊氏は、天皇から離反しなかった武士のうちでは最大の軍事力を持っていた武者所所司(長官)の新田義貞を君側の奸であると主張し、その討伐を後醍醐天皇に対して要請する。

後醍醐天皇は尊氏のこの要請を拒絶し、11月に義貞に尊氏追討を命じて出陣させるが、新田軍は建武2年(1335年)12月、箱根・竹ノ下の戦いで敗北する。建武3年(1336年)1月に足利軍は入京する。後醍醐天皇は比叡山へ逃れるが、奥州から西上した北畠顕家や義貞らが合流して一旦は足利軍を駆逐する。
同年、九州から再び東上した足利軍は、持明院統の光厳上皇の院宣を得て、5月に湊川の戦いにおいて楠木正成ら宮方を撃破し、光厳上皇を奉じて入京した。このため新政は2年半で瓦解した。

同月、後醍醐帝は新田義貞ら多くの武士や公家を伴い、再び比叡山に入山して戦いを続けると、入京した尊氏は光厳上皇の弟光明天皇を即位させ北朝が成立する。9月、後醍醐天皇は皇子の懐良親王を征西大将軍に任じて九州へ派遣。兵糧もつき、周囲を足利方の大軍勢に包囲されると、10月には比叡山を降りて足利方と和睦。
和睦に反対した義貞に恒良・尊良親王を奉じさせて北陸へ下らせると後醍醐帝は光明天皇に三種の神器を渡し、花山院に幽閉される。後醍醐帝は12月に京都を脱出して吉野へ逃れて吉野朝廷(南朝)を成立させると、先に光明天皇に渡した神器は偽器であり自分が正統な天皇であると宣言する。
ここに、吉野朝廷と京都の朝廷(北朝)が対立する南北朝時代が到来。1392年(元中9年/明徳3年)の明徳の和約による南北朝合一まで約60年間にわたって南北朝の抗争が続いた。


新政の瓦解後
新政の瓦解後、足利尊氏が光明天皇によって征夷大将軍に任じられ、室町幕府が開かれた。初期には南北朝時代の戦乱が続き、15世紀以降になると戦国時代となって京都周辺以外の実効支配力を失うものの、1573年に織田信長によって足利義昭が京都から追放されるまで、足利氏の15代に渡る武家政権が続いた。

Wikipediaより

Posted at 2026/06/19 04:54:51 | コメント(0) | トラックバック(0) | 日本の歴史 | 日記
2026年06月09日 イイね!

日本の歴史 (07)鎌倉時代

日本の歴史 (07)鎌倉時代




日本の歴史 (07)鎌倉時代
12世紀末 – 1333年
(約150年続いた時代)

原始 (00)石器時代 (01)縄文時代 (02)弥生時代
古代 (03)古墳時代 (04)飛鳥時代 (05)奈良時代 (06)平安時代
中世 (07)鎌倉時代 (08)建武の新政 (09)室町時代
中世 (10)安土桃山時代 (11)江戸時代
近代 (12)明治時代 (13)大正時代
現代 (14)昭和時代 (15)平成時代 (16)令和時代


鎌倉時代は、1185年頃に源頼朝が守護・地頭を設置して武家政権(鎌倉幕府)を確立し、1333年に幕府が滅亡するまでの約150年間で、日本で初めて本格的な武家政権が全国支配を行った中世の時代です。武士の台頭、公武二重政権、元寇、新仏教の興隆などが特徴です。


幕府が鎌倉(神奈川県鎌倉市)に置かれていた約一世紀半の時代を指す日本の歴史の時代区分である。鎌倉時代は、京都の朝廷と並んで相模国鎌倉に置かれた鎌倉幕府が全国統治の中心となり、日本史上で本格的な武家政権による統治が初めて行われた時代である。
武家の法律として御成敗式目を制定し、三問三答制 を備えた裁判制度を有し、法治国家としての強い性質を持っていた。
鎌倉時代は、執権政治と御成敗式目による統治が機能し、後の室町時代、戦国時代と比較すると内乱の少ない時代であったが、二度の元寇(蒙古襲来)という未曽有の国難のほか、地震、疫病、飢饉も多く発生し、50回もの元号改元(そのうち災異改元が30回)が行われ、仏教(鎌倉仏教)が広く庶民と武家にまで広まった。

時代の始期については諸説あるが、鎌倉「幕府」の成立とは必ずしも一致はせず、東国支配権の承認を得た1183年説、守護・地頭設置権を認められた1185年説、源頼朝が征夷大将軍に就任した1192年説等が有力である。


概要
12世紀末期に、源頼朝が鎌倉殿として武士の頂点に立ち、中央に御家人を統率し検断沙汰(刑事事件)を担う「侍所」、財政や政務を担う「政所」、所領争いなどの民事裁判を担う「問注所」の3つの組織を置き、全国に守護を置いて、鎌倉幕府を開き1185年から1333年まで続いた。京都の朝廷と地方の荘園・公領はそのままで、地方支配に地頭等の形で支配構造ができあがった。

二度にわたる元寇(蒙古襲来)があり、内乱、地震、疫病、飢饉などの災害が多く発生した時代である。148年間の中で、50回もの元号改元があり、地震に関わる改元が11回も生じた。こうした時代を背景として。庶民を対象とした、易行(いぎょう。厳しい修行ではない)、選択(せんちゃく。…救済方法を一つ選ぶ)、専修(せんじゅ。…ひたすらに打ち込む)を特徴とした鎌倉仏教が広まった。

幕府は「鎌倉殿(源頼朝)」の私的家政機関として設立されており、公的機関ではない。したがって基本的に鎌倉幕府が支配下に置いたのは鎌倉殿の知行国および主従関係を結んだ武士(御家人)であり、守護の設置などで諸国の治安維持等を担当したものの、全国の武士を完全な支配下に治めたわけではない。平氏政権が朝廷に入り込み、朝廷を通じて支配を試みたのとは対照的である。元寇以降は全国の武士に軍事動員をかける権限などを手にすると、全国支配が強化されることになる。

鎌倉幕府がそれ以前の武家政権である平氏政権と最も異なる点は、問注所と呼ばれる訴訟機関を設置したことで、これまでは地所の支配権をめぐる争いは、当事者同士の武力闘争に容易に発展していたが、これにより実質的に禁止されることになった。つまり武士の全国各地の騒乱のほぼ全ての原因が土地支配に関するものであり、頼朝の新統治理論はそれ以降の幕藩体制の根幹を成すものになった。

源頼朝の死後、2代将軍源頼家、3代将軍源実朝を経て、北条氏が執権として幕府の実権を掌握した(執権政治)。源氏将軍が断絶して以降も、幕府体制は永続するように制度整備がなされ、その裏打ちとして御成敗式目(1232年)という初の武家法が制定され、その後の中世社会の基本法典となった。また、将軍権力は形骸化していく一方で、北条氏惣領の得宗に権力が集中する得宗専制の体制になっていき、それに仕える御内人も台頭するようになった。

後鳥羽上皇らが政治の実権を取り戻すため起こした承久の乱では、鎌倉幕府が朝廷に勝利し、朝廷に対する幕府の政治的優位が確立。これにより、多くの御家人が西国に恩賞を得て、東国に偏重して西国に弱かった幕府の支配が強く及ぶようになった。

承久の乱後、幕府は守貞親王(後高倉院)を治天の君に擁立し、その系統が断絶すると後嵯峨天皇を即位させ、朝幕関係の安定化を図った。朝廷も幕府も社会と自らの政治的基盤の安定を図るために徳政の興行を推進し、治天の君(上皇)と執権が評定衆を主導して、訴訟の解決を図る態勢が構築された。
これは天皇や将軍が直接裁許に加わることで敗訴となった側の怨恨を受け、特に所領問題の場合には(主君による従者保護の責務に反したとして)敗訴となった側の主従関係の解消につながるような事態を回避するために、訴訟の解決を図りつつも所領問題から天皇・将軍を切り離すための仕組みであったと考えられている。

経済的には、地方の在地領主である武士の土地所有が法的に安定したため、全国的に開墾がすすみ、質実剛健な鎌倉文化が栄えた。文化芸術的にも、このような社会情勢を背景に新風が巻き起こり、それまでの公家社会文化と異なり、仏教や美術も武士や庶民に分かりやすい、新しいものが好まれた。政局の安定が西日本を中心に商品経済の拡がりをもたらすと、各地に定期的な市が立つようになった。

土地の相続に関しては分割相続が採用されていたが、そのため時代を下るごとに御家人の所領は零細化され、生活を圧迫することになってしまった。また、中期から本格的に貨幣経済が浸透し始めたが、これに順応できない御家人も多く、生活が逼迫した結果、土地を売却する者もいた。救済策として幕府は永仁の徳政令を発布するなどしたが、芳しい成果は得られなかった。

13世紀には、1274年の文永の役と1281年の弘安の役の二度にわたる元寇があったが、元の侵攻を撃退した。これにより「日本は神国」という神国思想の発端となり、後世に影響を与える事となった。また元の侵攻は阻止したものの、今までの幕府の戦争と違い、外国を相手にした防衛戦であったため、この戦いによって実質的に獲得したものは何も無く、そのため出征した武士(御家人)への恩賞の支払いが少なかったこともあって、「いざ鎌倉」といった幕府と御家人との御恩と奉公という信頼関係を損ねる結果となった。

元寇を機に幕府は、非御家人を含む日本全国の武士へ軍事動員をかける権限を得たほか、鎮西探題や長門探題などの出先機関を置き、西国への支配を強めた。西国をはじめ、日本国内を中央集権的に統治しようとする得宗は御家人を排除し、被官である御内人を重用するようになった。

生活に困窮した御家人の不満を幕府は力で抑えたため、表面上の幕政は安定したものの、霜月騒動や平禅門の乱など専制を強める得宗と御家人の確執は深まり、安藤氏の乱において御内人が当事者の双方から賄賂を取り立てるなどといった事象を幕政の腐敗と見る向きもあり、次第に幕府から人心が離れていくようになった。決定的となった鎌倉大地震や正嘉鎌倉地震などをはじめとして、鎌倉幕府を開いてから度々災害や疫病や飢饉などの混乱が起きたことも、後に鎌倉幕府が崩壊する要因となった。

また、承久の乱以後の朝廷の衰退は、皇位継承を巡る自己解決能力を失うことになり、結果的に幕府を否応無しに巻き込む事になった。幕府は両統迭立原則によって大覚寺統・持明院統両皇統間における話し合いによる皇位継承を勧めて、深入りを避ける方針を採ったが、結果的に紛糾の長期化による、朝廷から幕府に対する新たな介入要請を招き、その幕府の介入結果に不満を抱く反対派による更なる介入要請が出されるという、結果的に幕府の方針と相反した悪循環に陥った。
その結果、大覚寺統傍流出身の後醍醐天皇直系への皇位継承を認めないという結論に達したとき、これに反発した後醍醐天皇が、これを支持する公家と幕府に対して不満を抱く武士達の連携の動きが現れるのを見て、叛乱を起こし(正中の変、元弘の乱)、間もなく鎌倉幕府は崩壊した。(この時、幕府の重要な役職についていた人たちは東勝寺で自害した)


鎌倉時代の政治
鎌倉幕府は当初、将軍(実際には「鎌倉殿」。征夷大将軍職は必須ではない)を中心としていた。源氏(河内源氏の源頼朝系)直系の将軍は3代で絶え、将軍は公家(摂家将軍)、後には皇族(皇族将軍)を置く傀儡の座となり、実権は将軍から、十三人の合議制へ移る。
さらに和田合戦、宝治合戦、平禅門の乱などにより北条氏以外の他氏族を幕府から排除すると、権力を北条氏に集中させる動きも強まった。そうして実権は、頼朝の妻である北条政子を経て、執権であった北条氏へ移っていった。
更に執権北条時頼が執権引退後も執政を行ったことから、幕府権力は執権の地位よりも北条泰時を祖とする北条氏本家(得宗家)に集中。執権在職者も幕府最高権力者というわけではなく、宮騒動、二月騒動などで得宗家に反抗する名越北条家などの傍流や御家人は排除された(得宗専制)。

また、貨幣経済が浸透して、市場がある市場町が誕生した。多くの御家人が経済的に没落して、凡下(庶民階級・非御家人層)の商人から借財を重ねた。1284年に弘安徳政、さらに1297年に永仁の徳政令を実施して没落する御家人の救済を図ったが、恩賞不足や商人が御家人への金銭貸し出しを渋るなど、かえって御家人の不満と混乱を招く結果に終わった。後醍醐天皇による鎌倉幕府打倒は、この武士たちの不満を利用する形で行われることになる。


鎌倉時代の文化
鎌倉文化の特徴は、文化の中心地は平安時代と変わらず京都と奈良であるが、武士や庶民の新しい文化が以前の貴族文化と拮抗した点で、文化の二元性が出てきたところにある。作風は、一般に素朴で質実、写実的と言われる。中国(宋・元)からの禅文化の影響も色濃い。

Wikipediaより

Posted at 2026/06/09 18:36:56 | コメント(0) | トラックバック(0) | 日本の歴史 | 日記
2026年06月05日 イイね!

日本の歴史 (06)平安時代

日本の歴史  (06)平安時代




日本の歴史 (06)平安時代
794年 – 1185年
(約390年続いた時代)

原始 (00)石器時代 (01)縄文時代 (02)弥生時代
古代 (03)古墳時代 (04)飛鳥時代 (05)奈良時代 (06)平安時代
中世 (07)鎌倉時代 (08)建武の新政 (09)室町時代
中世 (10)安土桃山時代 (11)江戸時代
近代 (12)明治時代 (13)大正時代
現代 (14)昭和時代 (15)平成時代 (16)令和時代


約390年続いた平安時代は、日本史上有数の転換期となった時代です。これまで国の体制は中国の隋(ずい)や唐(とう)に倣い、天皇に権力を集中させた律令政治(刑罰や政治の決まりごとを定めた法令によって国を治める政治)が基盤でした。
しかし、荘園(国の支配を受けない私有地)の広まりなどによって地方への権力分散が進み、国の政治体系が大きく変わります。権力や貧富に大きな格差が生まれ、天皇に代わって政治や文化を牽引する社会の中心人物となる存在が次々と現れるようになったのです。その動きはやがて武士の台頭をもたらしました。


延暦13年(794年)に桓武天皇が平安京(京都府京都市)に都を遷してから鎌倉幕府が成立するまでの約390年間を指し、京都におかれた平安京が、鎌倉幕府が成立するまで政治上ほぼ唯一の中心であったことから、平安時代と称される。
古代から中世への過渡期と理解されている。

平安前期は、前代(奈良時代)からの中央集権的な律令政治を、部分的な修正を加えながらも、基本的には継承していった。しかしながら、藤原氏による荘園の拡大の結果として、律令制と現実の乖離が大きくなっていき、9世紀末から10世紀初頭ごろ、政府は税収を確保するため、律令制の基本だった人別支配体制を改め、土地を対象に課税する支配体制へと大きく方針転換した。
この方針転換は、民間の有力者に権限を委譲してこれを現地赴任の筆頭国司(受領)が統括することにより新たな支配体制を構築するものであり、これを王朝国家体制という。

平安時代以降、16世紀まで日本列島は戦乱が頻発するようになった。国家から土地経営や人民支配の権限を委譲された有力百姓(田堵・名主)層は、自衛のために武装し、武士へと成長した。彼らは、国家から軍事警察権を委譲された軍事貴族層や武芸専門の下級官人層を取り込み、武士団を結成した。
国家権限の委譲と中央集権の過大な負担の軽減により、中央政界では、官職が特定の家業を担う家系に世襲される家職化が進み、貴族の最上位では摂関家が確立し、中流貴族に固定した階層は中央においては家業の専門技能によって公務を担う技能官人として行政実務を、地方においては受領となって地方行政を担った(平安貴族)。
この時期は摂関家による摂関政治が展開し、特定の権門が独占的に徴税権を得る荘園が、段階的に増加し、受領が徴税権を担う公領と勢力を二分していった。

11世紀後期からは、上皇が治天の君(事実上の君主)となって政務に当たる院政が開始された。院政の開始をもって中世の開始とする見解も有力である。院政期には荘園の一円領域的な集積と国衙領(公領)の徴税単位化が進み、荘園公領制と呼ばれる体制へ移行することとなる。
12世紀中期頃には貴族社会内部の紛争が武力で解決されるようになり、そのために動員された武士の地位が急速に上昇した。こうした中で最初の武家政権である平氏政権が登場するが、この時期の社会矛盾を一手に引き受けたため、程なくして同時多発的に全国に拡大した内乱により崩壊してしまう。
平氏政権の崩壊とともに、中央政府である朝廷とは別個に、内乱を収拾して東国の支配権を得た鎌倉幕府が登場し、平安時代は幕を下ろした。


対外関係史
中国の唐朝に対する遣唐使は次第に派遣回数が減少し、838年(承和5年)からは50年以上中断した。唐では874年頃に黄巣が洛陽・長安を陥落させ斉を成立させた。斉は数年で倒れたものの唐は弱体化し、首都の長安周辺のみを治める地方政権へと凋落した。894年には、遣唐使も廃止された。

935年には呉越が日本と国交を開いた。翌936年には、藤原忠平が呉越王に書を送り、良好な関係を築こうとした。940年には藤原仲平が、947年に藤原実頼が、953年に藤原師輔も呉越王に書を送った。957年には呉越王が黄金を送った。

後周の皇帝柴栄が没したのちの960年には、趙匡胤が時の皇帝から禅譲を受けて北宋を建国し、中国統一の機運が高まった。978年には呉越も北宋に吸収され、日本との外交・貿易は日宋貿易となる。皇朝十二銭が国内で信用を失ったのちは、商いでも宋銭が利用されるようになった。

日宋貿易は、平氏滅亡のちの鎌倉時代も御分唐船として継続されたが、元寇やモンゴル・南宋戦争の影響も受けた。

Wikipediaより

Posted at 2026/06/05 15:05:09 | コメント(0) | トラックバック(0) | 日本の歴史 | 日記
2026年06月04日 イイね!

日本の歴史 (05)奈良時代

日本の歴史  (05)奈良時代




日本の歴史 (05)奈良時代
710年 – 794年
(約80年続いた時代)

原始 (00)石器時代 (01)縄文時代 (02)弥生時代
古代 (03)古墳時代 (04)飛鳥時代 (05)奈良時代 (06)平安時代
中世 (07)鎌倉時代 (08)建武の新政 (09)室町時代
中世 (10)安土桃山時代 (11)江戸時代
近代 (12)明治時代 (13)大正時代
現代 (14)昭和時代 (15)平成時代 (16)令和時代


奈良時代とは、和銅3年(710年)の平城京遷都から延暦3年(784年)の長岡京遷都まで、奈良(平城京)に都があった約70年間で、律令国家が完成し仏教と天平文化が大きく栄えた時代です。


第43代元明天皇により平城京(奈良県奈良市)や聖武天皇の難波宮に都が置かれた時代。日本仏教による鎮護国家を目指して天平文化が花開いた時期とされる。

740年から745年にかけて、聖武天皇は恭仁京(京都府木津川市)、難波京(大阪府大阪市)、紫香楽宮(滋賀県甲賀市信楽)に、それぞれ短期間であるが宮都を遷したことがある。


平城京遷都には藤原不比等が重要な役割を果たした。平城京は、中国の都長安を模した都を造営したとされる。政治家や官僚が住民の大半を占める政治都市であった。

平城京への遷都に先立って撰定・施行された大宝律令が、日本国内の実情に合うように多方面から変更されるなど、試行錯誤を行ない、律令国家・天皇中心の専制国家・中央集権を目指した時代であった。また、天平文化が華開いた時代でもあった。

710年(和銅3年)、元明天皇は藤原京から平城京への遷都を行い、都は平城京に遷った。この時期の律令国家は、戸籍と計帳で人民を把握すると、租・庸・調と軍役を課した。遣唐使を度々送り、唐をはじめとする大陸の文物を導入した。全国に国分寺を建て、仏教的な天平文化が栄えた。『古事記』『日本書紀』『万葉集』など現存最古の史書・文学が登場した。この時代、中央では政争が多く起こり、東北では蝦夷との戦争が絶えなかった。

皇位は、天武天皇と持統天皇の直系子孫によって継承されることが理想とされ、天皇の神聖さを保つ観点から、近親婚が繰り返された。その結果として、天武天皇と持統天皇の直系の皇子の多くは、病弱であり、相次いで早死にした。そのような天武・持統の直系子孫による皇位継承の不安定さが、8世紀におけるさまざまな政争を呼び起こし、結果として、天武・持統の直系の断絶・自壊へとつながった。

政治的には、710年の平城京遷都から729年の長屋王の変までを前期、藤原四兄弟の専権から764年(天平宝字8年)の藤原仲麻呂の乱までを中期、称徳天皇および道鏡の執政以降を後期に細分できる。


天平文化
政府は、学生や僧を唐へ留学させ、さまざまな文物を取り入れた。また、朝鮮半島との交流も盛んであった。これらの交易物などは、正倉院宝物でも、その一端をうかがい知ることができる。716年(霊亀2)には阿倍仲麻呂(唐で客死)・吉備真備・僧玄昉ら唐に留学した。彼らは、当時の列島にさまざまな文化をもちこんだ。

『記・紀』・風土記と万葉集の編纂
712年(和銅5年)にできたとされる『古事記』は、宮廷に伝わる「帝紀」「旧辞」をもとに天武天皇が稗田阿礼によみならわせた内容を、元明天皇の時に太安万侶が筆録したものである。神話・伝承から推古天皇にいたるまでの物語であり、多くの歌謡を収載している。口頭の日本語を漢字の音・訓を用いて表記されている。

それに対し、714年(和銅7年)に紀清人・三宅藤麻呂に国史を撰集させ、舎人親王が中心となって神代から持統天皇までの歴史を編集、720年(養老4年)に撰上されたのが『日本紀(日本書紀)』30巻・系図1巻である。これは、中国の歴史書の体裁にならったもので、漢文の編年体で記されている。こののち、『日本三代実録』まで漢文正史が編まれて「六国史」と総称されるが、『日本書紀』はその嚆矢となったものである。

また、政府は713年(和銅3年)には諸国に「風土記」の編纂を命じた。これは、郷土の産物や山や川などの自然、あるいはその由来、古老の言い伝えなどを収めた地誌である。『出雲国風土記』がほぼ完全に伝存するほか、常陸国、播磨国、豊後国、肥前国の風土記のそれぞれ一部が伝えられている。これは、古代の地方の様相を示す貴重な文献資料になっている。

文芸の面では、751年(天平勝宝3年)に現存最古の漢詩集『懐風藻』が編集され、大友皇子、大津皇子、文武天皇、長屋王などの作品を含む7世紀後半以降の漢詩をおさめている。奈良時代中期を代表する漢詩文の文人としては淡海三船と石上宅嗣が著名であり、いずれかが『懐風藻』の編集にたずさわったであろうと推定されるが、確実な証拠はない。

和歌の世界でも、和銅年間から天平年間にかけて山上憶良、山部赤人、大伴家持、大伴坂上郎女らの歌人があいついであらわれた。『万葉集』は759年(天平宝字3年)までの歌約4500首を収録した歌集で、雄略天皇の歌が巻頭をかざっている。
舒明天皇・推古天皇以降の飛鳥時代、奈良時代の和歌が収められ、著名な歌人や宮廷人の作品ばかりではなく、東歌や防人歌など、地方の農民の素朴な感情をあらわした作品も多く収められており、このなかには心に訴える優れた歌が多くみられる。
漢字の音と訓をたくみに組み合わせて日本語を記す万葉仮名が用いられていることも大きな特徴である。


対外関係
618年、隋に代わって中国を統一した唐は大帝国を築き、東アジアに広大な領域を支配して周辺諸地域に大きな影響をあたえた。西アジアや中央アジアなどとの交流も活発であり、首都長安は国際都市として繁栄した。
玄宗の治世前半は「開元の治」と称された。周辺諸国も唐と通交して漢字・儒教・漢訳仏教などの諸文化を共有して、東アジア文化圏が形成された。

東夷の小帝国
日本の律令国家体制では、天皇は中国の皇帝と並ぶものであり、唐と同様、日本を中華とする帝国構造を有していた。
国家の統治権が及ぶ範囲を「化内」、及ばない外部を「化外」と区別すると、さらに化外を区分して唐を「隣国」、朝鮮諸国(新羅と渤海)を「諸蕃」、蝦夷・隼人・南島人を「夷狄」と規定する「東夷の小帝国」と呼ぶべきものであった。

Wikipediaより

Posted at 2026/06/04 03:37:50 | コメント(0) | トラックバック(0) | 日本の歴史 | 日記

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「[整備] #フィット3ハイブリッド (i-DCD) DCT/フロントデフのATF交換 2025 https://minkara.carview.co.jp/userid/3290363/car/2992111/8444283/note.aspx
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