
《*shohei*》
改め
《che★shohei》
になりました(笑)
《che》はもちろん尊敬する革命家
《チェ・ゲバラ》から頂いてます。
ちなみにゲバラの本名は
《エルネスト・ラファエル・ゲバラ・デ・ラ・セルナ》
ですが、彼が友人に呼び掛ける時にあまりにも《チェ》を連発するのであだ名になり、彼自身も気に入り25歳の時に自ら名乗り始めました。
《チェ》とはアルゼンチン・コルドバ地方の方言で『ねぇ』『キミ』のような意味で、気のおけない相手を呼び掛ける時に使う言葉です。
アメリカにおける《ブラザー》みたいなニュアンスでしょうかね?
《*shohei*》の時のアスタリクは何となく使っていましたが、今回の《★》にも意味があります。
これまたゲバラから頂いてます(^^)v
彼は当初軍医としてして革命軍に加わりましたが、2・3週間もしないうちに、兵士としての非凡な才能を開花させます。
状況を分析する冷静な判断力、仲間を鼓舞し指導する能力に長け、リーダーとして認められていきました。
これは経営者にも通ずるコトだと思ってます。
彼は《コマンダンテ-司令官(一般には少佐)》という階級を与えられ、キューバの国旗を示す
星★型の勲章を誇りを持ってベレー帽につけていました。
チェ・ゲバラ
出身国アルゼンチン
1928年6月14日生まれ(僕と4日違いw)
父・母とも名門生まれで経済的に恵まれた家庭に生まれる。
ブエノスアイレス大学医学部に入学(持病の喘息のため)、通常6年かかる大学過程を3年で終え医学博士号を取得。
しかし唾棄すべき権力者と映るペロン独裁政権下の軍医になるコトを嫌い、ラテンアメリカ放浪の旅へ。
紆余曲折を経て(知りたい方はネットで検索

)、彼は反バティスタ武装ゲリラ闘争への参加を決意し、キューバ革命部隊の一員に。
8人乗りのレジャーボートに82人が乗り込み(笑)、目的地(シエラ・マエストラ)に上陸できたのはわずか12人(カストロ兄弟含む)。
この地で革命軍は反バティスタ派の農民をゲリラ部隊に入隊させ、訓練を積ませる。
57年、ニューヨークタイムズの記者が山へ分け入りゲバラ、フィデル・カストロと会談し彼らの行動は国内外に実績以上の高い評価を得ることに。
約1万人のバティスタ軍に包囲されたシエラ・マエストラの革命軍、人数はわずか321人。
2ヶ月あまり続いた戦闘は、死傷者1000以上、2台の戦車を含む500以上の近代兵器を奪う奇跡的な革命軍の勝利。
たった321人に1万人の軍隊を叩き潰されたことを知ったハバナの政治家、将校、アメリカのCIA達でさえも、バティスタ政権の前途に不安を感じ、アメリカに後押しされた軍事独裁政権が揺らぎはじめる。
続いての戦いは、たった230人の部隊でラス・ビシャス州の州都サンタ・クララを攻略するという常識的には見込みのないもの。
しかし革命軍の死者はわずか6人。キューバの歴史の中にアメリカ独立戦争と比肩されるほど特筆大書され、詳述されています。
彼の不敗神話はここに由来しているようですね。
アルゼンチンに生まれ、キューバの革命を成し遂げ、工業大臣、経済使節団団長等の役職を全うしつつも、コンゴでのゲリラ戦に参戦、ボリビアに渡りゲリラ活動。政府軍に捕らえられバリエントス大統領の命令で銃殺処刑。享年39歳。
彼に対し『ボリビア人でもないあなたが、どうしてここまでするのか?』と問いかけたCIA隊員に
『これはプロレタリアートの問題だ。
私はアルゼンチン人であり、キューバ人であり、ボリビア人でもある。
君には多分理解できないだろうがね』とゲバラは答えています。
プロレタリアートとはブルジョアジーの対語で、いわゆる労働者階級を指します。
ゲバラの理想は、あくまでも世界中の困窮する民衆が立ち上がり、不当な富を独占している圧制者を打ち倒すコト。この闘いには、国籍や出身地など関係なく、労働者階級と支配階級との闘いであると言いたかったんです。
彼は
『世界のどこかで誰かが不正な目にあっているとき、それを感じるコトができるようになりなさい。
それが革命家の最も素晴らしい性質だ』と自分の子供たちへの最後の手紙に記してますが、僕もこの言葉を胸に将来的に世界で広く活動したく思ってます。

Posted at 2009/12/02 11:37:30 | |
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