
AUTO SPORT web を見ていたら、目に留まった。
さようなら西山さん
えぇ? と、悪い予感を感じつつクリックしてリンク先の記事を読むと、案の定だった。西山平夫さんが亡くなった。
西山平夫、といっても100名中100名知らないだろう。1万人中なら1人くらい知っているかもしれない。
以下、ご本人のHPから抜粋。
西 山 平 夫(にしやまひらお)
職業:F1ライター
1952年新潟県生まれ。レース雑誌「オートスポーツ」編集部を経て
1984年フリーランスのモータースポーツ・ライターとして独立し、国内外のレースを取材。
1990年からはF1取材がメインとなり、1997年から毎年全戦取材。
現在「Racing On」「F1速報」「NAVI」「Number」
「Sportiva」「東京中日スポーツ」などに寄稿。
主な著書に…
「キレて疾れ! 片山右京を追ったF1GP日記」(双葉社)、
「ブリヂストンがグッドイヤーを追い抜いた日」(講談社)、
「おいしい和食器」(文化出版)、
「君が代が聴きたい 佐藤琢磨とホンダの戦いを追って」(双葉社)などがある。
趣味は古書店100円均一台漁り、居酒屋探訪、古道具屋巡りなど。
好きなクルマはロンドンタクシー。
ドライバーはミカ・ハッキネン。
作家はヴォリス・ヴィアン。
酒は神亀ひこ孫、群馬泉、義侠。
肴は酒盗。
仕事仲間には"御大=オンタイ"と呼ばれる。
他にニッシー、ヘイちゃんの異称もあり。
また昔語りで恐縮だが、私が西山さんのお名前を明確に意識したのは、1988年3月(haji.少年13歳)、RACING’ON誌のコラムだった。
以来、この方の文章が大好きになった。本当に面白い。そして、何度読んでも飽きない。
この方は天才だと思った。この方のような文章を書きたいと思った。
もちろん、そんな文章を書けるようにはならなかったが、自分のブログの文体は多少なりとも影響を受けているかもしれない。
最近までモータースポーツ誌にコラムを書いていたが、今年半ばから病気の治療に入り、日本GP直前にお亡くなりになったのこと。
氏のHPのトップには以下のように書かれている。何ともこの方らしい。
当HP読者の皆さん、
カナダGP後も HPと筆者のメンテンナンス作業に手間取っています。
どうもCPUにバグが入ったようで
ハイドローリック系がうまく作動しません。
よくあるトラブルですが いまスイッチを切って リセット中。
もうしばらく復旧に時間がかかりそうですが 気長にお待ち下さい。
享年58歳。ご冥福をお祈りいたします。
もうこの方の新作コラムを読むことはできませんが、大丈夫です。だってこの方の文章は何度読んでも面白いし飽きないから。
当時13歳の私が感銘を受けたコラムを以下に載せておきます。
RACING’ON 1988年5月号 HOT RACING NOTE OVER TAKE
あの鰐たちに逢いたい 西山平夫
膝小僧が、カユいようなシビれたような、かく恐しくカッタルかった。無理もない、いったい何時間ヴァリク航空ジャンボ・ジェトの、奴隷クラスとポクらが呼ぶところのエコノミー・クラスの椅子で、膝を折り曲げていたことか。
たまらず椅子を離れて通路に立ってみたり、足の屈身運動をしてみたり、そうしないではいられなかった。(居ても立ってもいられないというのは、こういう状態を言うのかしらん?)時差ボケの紗がウッスラとかかり始めた脳ミソの片隅で、そんなことを考えたりもした。
「25時間だよ、25時間! もう~乗らねぇぞぉ飛行機にゃあ。たまんねぇよぉ」Kさんは帰りのことも忘れてそんなことを叫び、リオ・デ・ジャネイロ空港の出口に向かってズンズン進んで行く。ボクとTカメラマンは、へっぴり腰でその後を追う。このたった3人の豚汁グランプリ・ツアーメンバーの中で英語を駆使できるのは、Kさんだけだから、姿を失ってはえらいことになる。
空港ロビーに出た途端、お巡りさんに声を掛けられる。Kさんの英語能力はそこでゲシュタルト崩壊を起こしてしまった。ポルトガル語の国なのだ。それでもなんとか先方の意は通じた。換金するなら、いい闇ドル買いを紹介しようというのである。ホラ、あそこの柱の影にいる奴だよ、とかなんとか言ってる。
Kさんの目が点になった。その3秒後、お巡りさんにこう言った。「ノー。バンコ!」闇屋は嫌だ、銀行へ連れてけという気分なのである。驚くべし! これで通じるのだ。お巡りさんはエレベーターで航空会社の事務所のようなところヘボクらを案内した。ウム、銀行はないらしいが、ここなら安心だろう。Kさんは100ドルを換えてから、首をかしげ「どうもレートが安すぎるようだ」と言う。けっきょく何のことはない、闇屋で換えた方が正解だったのだ。膝が一段とダルい。
タクシーでホテルに向かう。何げなく後ろを振り返ったTカメラマンの細い目が急に裂けた。見ると、ボクらの後ろを超満員のバスが走っているのだが、これがどういう具合のものか右側に大きく傾いている。スピードは100キロを超えているだろう。道は左にカーブしている。ボクら3人は思わず顔を見合わせ、急いでバスに視線を戻した。左側タイヤがリフトしかけている! 「あっ、あ-」ボクは目を閉じた。バスは……無事だった。
ホテルヘついてシャワーを浴び、ビールを飲んだ。昼食の時間だが、3人ともベッドにゴロンと横になってしまった。ちょっとウトウトして目覚めたら、次の日の朝になってた。
ホテルの囲りをウロついてみた。ワッと闇屋さんが近付いて来る。みんな片手に手帳を持っている。こいつに数字を書きつけながら交渉するのだ。ボクはちょっと換金してみようかと思った。ボボ・ブラジルみたいな顔をしたオジサンが相手だ。彼は27と書いた。ボクはボールペンを受け取って35と応じる。向こうは28。こっち33……30まで下げた。オジサンは「サンパウロ!」と叫ぶ。サンパウロとリオじやあレートが違うらしい。結局1ドル=29クルザードで手を打った。じゃ換金……となったところでしオジサンはこっちへ来い、と言って一軒のお土産屋さんに入り、やおらそこの主人らしき中年男と手帳のやりとりをし始めた。何のことはない。ボボ・ブラジルはお金を持ってないのだ。つまり、彼はボクと土産屋さんの間に立って「カスリ」を取ろうというわけである。
オートドローモ・ジャカレバグアヘ向かう道路は、いつもレーシング・コースだった。たとえば、3車線から2車線に絞られる場所があるとすると、その寸前まですべてのクルマがアクセル全開で右に左に車線を変えながら、1台でも前に出ようとする。「これならいいドライバーが出るだろうなあ」Kさんがタメ息をついた。
サーキットヘ到着し、ホンダの特設観戦部屋を表敬訪問すると広報部の方がウナコーワ虫よけを下さった。「テストの時に、ロータスのメカが蚊に刺されて高熱を出して2人ばかりバッタリ。ま、これで気をつけて……」
決勝レースの朝、サーキットヘ向かう途中の峠道が渋滞。交通事故だった。2台の車が大破。現場はブラインドの右コーナー。どうやら、反対車線に出て追い越しかけようとしたらしい。しかし、よりにもよって一番見通しの悪いところでやることはないだろう。道路に広げた青いシートの下に、何人かの人間がいるらしかった。交通マナーなんぞというものは、あるようには思えなかった。そういえば、昨日の夜は道路脇に変な格好で止まっているクルマを見かけた。前の片輪が飛んで傾いているようなのだ。よく見たら違った。穴に片輸を落としている。なんというか……オッチョコチョイというしかない。タクシーの運ちゃんにも驚かされた。カーラジオのボリュームをいっぱいにあげて、サンバを聞くのはいいが、完全にそのリズムに酔っ払っているのだ。ハンドルのホーン部をツメで叩きながら、片手運転もいいところ。助手席に乗っているボクは気が気ではない。フルスロットルで追い越しをかけ、それに負けまいとするクルマとカーチェイスをおっ始め、ついには勝ってしまう。よせばいいのに、後席のKさんとTカメラマンが一緒に声をかけた。「ネルソン・ピーケー!」 運ちゃん大げさに照れて、なんと両手で顔をおおった。ギャーッ、前を見てくれぇ~。ボクは白目を剥き、泡を吹く寸前だった。
ブラジル・グランプリを迎える前に、ボクはこの国にホトホト感心してしまった。そうしてヘトヘトに疲れてしまった。あまりにも刺激が強すぎた。日常の姿が、あまりにも非日常的だった。誰もがいつも全開なのだ。
ジャカレバグアとは、鰐の沼という意味だが、今はもう鰐はいないと聞いた。嘘をつけ、ブラジルのすべてが鰐じやないか、と思った。お巡りさんも、闇屋も、タクシーの運ちゃんも、ドライバーも、コパカバーナやイパネマの海岸を歩く娘ッ子達も、風景も天気も、バスも、鰐なのだ。それらは、おそろしく強靭な生命力に支えられている。ブラジル・グランプリはそんな環境の中で開かれるレースなのだ。
あの鰐たちに逢いたい。あの愛すべき観客達に。イエロー・ロータスがグランド・スタンド前を突っ走ると「セーナーッ!」の大声援が時速300キロの津波となって走るのだ。
たとえ、それが中嶋だったとしても……。
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本 | クルマ
Posted at
2010/10/05 02:21:20