2012年参拝した社寺
後一條帝の御代(約900年前)真野の里に生まれ育ったと言われる橘墨虎という兇賊がおりました。
墨虎は人並み外れて大きく神通に長けた豪の者で常に部下を引き連れて村落を行き来し民家を襲って財物を強奪し「墨虎の通る時は駅民皆縮みあがり逃げ惑う」状態となり良民は大いに難渋しておりました。
墨虎は霊山に物見台を設けて遠近を一望するなど勢力益々強大となり、当時の豪族たち皆墨虎に服従して朝命に従わずまさに猛虎の如き勢いになりました。
後冷泉帝御代永承6年、源頼義公奥境鎮守のため下向し掛田に陣した時、駅民達悩みを訴えて墨虎を退治して難を除き給えとお願いしましたので源頼義公は部下に命じ墨虎を討たせることになりました。
墨虎は霊山の剣によりよく戦いましたが遂に敗れ、単身亘理まで逃れましたが、又立ち戻って隠れたり現れたりして捕まえることができず、さすがの源頼義公も大いに悩んでおりましたところ、ある夜夢の中に山の神が現れ「墨虎をとらえんと欲すれば白狼の足跡をふみ追うべし」とお告げになられました。
頼朝公は直ちに臣藤原景道に追跡を命じました。景道は郷人菅野蔵人、今神助右エ門を道案内として山中に入り険しい山並み、いばらの中を踏み分けて探し歩いていくと、果たして獣跡が点々とひときわ高くつき立った岩石に向かって続いており、これを辿って遂に岩穴(籠石)に潜んでいた墨虎を見つけました。
景道は憤然として「墨虎天罰まぬがるべからず朝命の刃に伏せ」と叫びざま、逃れるようにする墨虎めがけて短刀を投げうって背より腹に刺し貫きました。
遠近始めて安堵、源頼義公大いに山神の威徳を感じ、山頂に祠を立て虎捕山神(とらとりさんじん)と御名を称えてお礼いたしました。
後、国司北畠顕家郷城を霊山に築かれた時、源頼義公の遺績を敬重し且つ大神の威徳により勝ち戦したので篤く崇敬したと言われます。
墨虎を捕らえた事から虎捕山と呼び、刺は佐須という地名になったと言われています。
以上、公式パンフレットより

Posted at 2012/06/29 14:08:13 | |
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