2009年09月09日
インサイトで北海道を旅されてる方の日記を読みつつ、色々思い出して来たので昔の思い出。秋はちょっとセンチにさせますねぇ。
僕が北海道へ向ったのは、大学を出て1年間のプー太郎生活をしていた後。
目標を掲げて大学へ入り、無事に卒業するも、「就職はどこでも良い」とは思えず、行きたい会社だけへトライを続けてました。
全て海外の会社だったのですが、まだネット回線などは細く、ファイルのやりとり等はEMSやFedExなど活用してましたね。
色々なプロジェクトへも、少し触らせてくれる会社もありましたが、就職までには至らず。外見的には、フリーターという状況。
なかなか目に見える動きが取れず、焦りもあった頃。活動の仕方と、社会に対する露出に対して興味を持ち、メディアへピックアップされる方々の研究となるわけです。
同じ事してても、メディアに載る人、載らない人の違いを探りたいと思ったのですよね。
そして、ターゲットとなったのは、当時複数の誌面に同時掲載されていた、北海道のデザイナーの方。タイミング良く、六本木で展示をされていたこともあり、早速アタック。
そのまま北海道でお手伝いをさせて頂く事になります。
契約という様な堅苦しいものはありませんでしたが、基本は無償です。
そのデザイナーさんに出会って3日後、私は北海道に居ました。
その時の所持金は3万。お金は特に関係無かったんですよね。
雪が降る頃のこと、北海道に初めて足を踏み入れ、あまりの寒さにビビります。
宿など無いこともあり、そのデザイナーさんのアトリエの一室を借りる事にして、しばらくは過ごしました。
その間に、広報の仕方。仕事の仕方など、生きて行く上で大切な基礎を教わりました。一つ一つ学ぶというよりは、普段の活動の中から盗むという形ですね。
そのウチに、その術を活用しながら、周りの方々に対して「自分の出来る事」を知ってもらい、それに対して報酬を貰う様になります。
自ら働く形の基礎ですね。初めこそ、食事やパソコンなどの物品が報酬でしたが、だんだんと、お金に変わって行きました。
僕の基礎はそこにあります。
お手伝いするデザイナーさんの環境の変化もあり、独立しました。
東京に帰るだけのお金が無かったのですが。笑
その間に住む場所も、とある会社が借りてくれた1ルームだったり、倉庫の2階を改造した場だったり、市の実験的なライフデザイン/アートスペースだったり。
様々でしたが、結果的には一度も住む場所に困る事はありませんでした。
しかも、ずっと無償。。。出会った方との縁と、感謝の気持ちを改めて感じます。
仕事はコンピューター関連に特化していきます。
デジタル関連のデザイン/制作。そこから派生し、社会人向けのスクールでの講師など。当時珍しかった、VJなどもさせて頂きましたね。
最終的には、docomoのCM製作に絡み、スクールでは旭川と札幌で4コマ/週、ZEPP SAPPOROでのFM局主催のミレニアム・カウントダウンイベントに絡む等、活動の幅が広がって行きました。
クルマも、セリカ(ST182)とスターレット(EP82)を乗り継ぎました。
その頃は住まいも、札幌市内に2部屋+車庫付で借りるまでになりました。
しかし、フィールドは札幌。ネットでの繋ぎ放題も一般化した頃ですが、情報は東京に比べると少ない。
例えば、イギリスやイタリアで発表された家具が、同時にすぐ実際に触れるコトが出来るのが東京。札幌では、画面に映る画像と、印刷された雑誌のみです。
更には、生きた情報はネットにも流れにくい状況。
地域に左右されずに、クリエイティブ関連の情報が欲しいと考えた私は、メーリングリストを立ち上げます。ネット社会だからこその、地域を選ばない情報のやり取りと、クリエイティブでの議論。(←議論は大切でした。北海道は良い人過ぎて、議論になる事が無かった。。。)
しばらくして、東京に戻ることになります。
当時は北海道に身を置く事で、東京の良い部分ばかりが見えていました。
そして、メーリングリストに参加される方々との実際の出会いを通して、東京での活動が始まります。
各企業などへの営業に関しては、札幌での実績は大きかったです。
それは会社となり、プロダクションとして現在に至ります。
こうして文章にすると、何処の誰か分からない僕に対して、色々なトライをさせてくれた北海道の皆さんの度胸に驚きます。
そして、その気持ちに感謝しなければなりません。
改めて震え立たせられる経験の延長線上に、今居る事を感じます。
Posted at 2009/09/09 20:14:37 | |
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