東日本大震災と類似していると言われ
最近は、名前が知られるようになった「貞観地震」
西暦869年(貞観11年5月26日)
現在の7/19に発生しました。
震源地は陸奥国東方沖
地震の規模は少なくともマグニチュード8.3以上
約1000名の死傷者を出したとされています。
当時の記録 『日本三代実録』によると
貞觀三陸地震
(貞觀十一年五月)廿六日癸未。陸奥國地大震動。流光如晝隱映。頃之。人民呼。伏不能起。或屋仆壓死。或地裂埋殪。馬牛駭奔。或相昇踏。城郭倉庫。門櫓墻壁。頽落顚覆。不知其數。海口哮吼。聲似雷霆。驚濤涌潮。泝徊漲長。忽至城下。去海數十百里。浩々不弁其涯涘。原野道路。惣爲滄溟。乘船不遑。登山難及。溺死者千許。資産苗稼。殆無孑遺焉。
現代語約
(貞観11年5月)26日癸未(みずのとひつじ)の日。陸奥国(むつのくに)に大地震があった。夜であるにもかかわらず、空中を閃光が流れ、暗闇はまるで昼のように明るくなったりした。しばらくの間、人々は恐怖のあまり叫び声を発し、地面に伏したまま起き上がることもできなかった。ある者は、家屋が倒壊して圧死し、ある者は、大地が裂けて生き埋めになった。馬や牛は驚いて走り回り、互いを踏みつけ合ったりした。多賀城の城郭、倉庫、門、櫓、垣や壁などは崩れ落ちたり覆(くつがえ)ったりしたが、その数は数え切れないほどであった。河口の海は、雷のような音を立てて吠え狂った。荒れ狂い湧き返る大波は、河を遡(さかのぼ)り膨張して、忽ち城下に達した。海は、数十里乃至(ないし)百里にわたって広々と広がり、どこが地面と海との境だったのか分からない有様であった。原や野や道路は、すべて蒼々とした海に覆われてしまった。船に乗って逃げる暇(いとま)もなく、山に登って避難することもできなかった。溺死する者も千人ほどいた。人々は資産も稲の苗も失い、ほとんど何一つ残るものがなかった。
平安時代前期のこの時代
都である京都から東北は今と比べれば
かなり遠方の地ですが、国府である多賀城
があったにせよこの様な、記録がなされていると
言う事は、未曾有の被害が都人を震撼させたのでしょう。
毎年京都で行なわれる祇園祭、貞観地震の鎮魂の為に
始められたとも伝えられています。
人間の記憶は風化するものです、先人が残した記録も
語り継がなくては、何の対策にもなりません。
今回の震災では、想定外という言葉が飛び交いました
近年の記録では想定外に当たるのでしょうが、過去の
歴史を検証していれば、その繋がりも見えてくるはず
過去の警鐘は未来を写す鏡なのかもしれません。
Posted at 2012/07/10 00:19:00 | |
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東日本大震災 | 日記