4基のジェットエンジン音が甲高くなった途端、
強烈な加速でシートに身体が押しつけられ息ができないような
恐怖感に襲われていた。
飛行機の前輪のタイヤからの振動が無くなり機体が上がり始めた。
エコノミークラスに搭乗していた藤村透は右手にハンカチを握り締め
手は震え足は突っ張ったように硬直し、ふんばっていた。
「たのむ。無事離陸してくれ…!」
心の中で今まで信じたことの神様が現れては消えていった。
「神様、仏様、星の王子様、、ええっと…あ、爺ちゃん、婆ちゃん
う~ん。。とにかく どうか、どうか無事に離陸できますように」
混乱した意識の中で叫んでいた。
藤村透は、会社の出張の為、シンガポールに向かっていた。
昔から乗り物が苦手で小さい時はバス遠足では
必ず前の席に座らされていた。
いくら、薬を飲もうが梅干を食べようが、30分もせずに酔って吐いてしまった。
あだ名はゲロだった。
必ず吐くせいで俺の隣には引率の先生すら座ってくれなかった。
遠足では必ず吐いてしまう俺は
そのことで小中学生の時はよくいじめられた記憶がある。
友達と言えるほど親しい友人もできなかった。
高校・大学の時は友人はできたが、そのことがトラウマで
旅行の前日となると必ず腹痛を起こしていたので旅行の思い出は全く無い。
そんな俺が7時間を超えるフライトだ。
しかも、高所恐怖症ときている。
普通の海外出張であれば他のプロジェクトを予定に重ねて断っていたが
今回だけは断る訳にはいかなかった。
自分の乗り物が苦手な事など言えるわけが無かった。
この商談がうまく行けば昇進は間違い無いからである。
役職も管理側に出世し、年収は2倍になることはほぼ確実だろう。
駅前の狙っていたマンションも手に入れる事ができる。
兼ねてからの夢だった。
全てを見返すチャンスでもあった。
握り締めた手から汗が滲み出ていた。
目の周りの骨が陥没してしまいそうなほど目じりと鼻をしわしわにさせて
目を閉じて歯を食いしばっていた。
「ううぅ~っ」
本人は堪えてたつもりだが、口元から嗚咽が漏れていた。
後輪が浮き機体の振動は無くなったが、加速と上昇感と浮遊感はまだ続いていた。
2つ空けた窓側の席に搭乗していたフリーターの佐藤恵美は
目を剥いて楽しんでいた。
シンガポールへは観光旅行だ。
雑誌で見たマーライオンに会いたい。
そんな理由での思いつき、無計画の1人旅であった。
ファミレスのバイトで貯めた8万円を持っての旅であった。
恵美は今まで20万円以上貯めたことが無い。いや、貯まらないのである。
この前はTVの番組で焼肉特集を観て次の日、韓国へ食べに行った。
その前は外国の大地震の記事を見て貯った7万円を寄付してしまった。
気前が良いと言うよりは自分の感性に素直な性格をしていた。
どこかに出かけるたびにバイトは辞めてしまった。
上昇する飛行機の窓から、まるで子供が電車の車窓から外を見るように
小さくなる街並みに見入っていた。その目は輝いていた。
「おおお、、昇る昇る!すっごいなぁ~。私、空飛んでる♪」
「やっぱり、飛行機乗るなら前の席じゃないとネ。景色見えないし。」
ぶつぶつと独り言を言っていると隣の隣からの席のうめき声に気づいた。
振り返り通路側の席に座る25・6歳の男の人が岩のように固まっていた。
額に玉の汗を浮かべている。
「大丈夫ですか?汗、出てますよ?」不思議そうに聞いた。
「い、今話し掛けないでください。」透は目を閉じたまま必死で声に出した。
「ふぅーん」不思議そうに透を見ていた恵美は、思い出したようにまた窓に向い
ジオラマのように小さくなったビルや山脈に見入った。
しばらくすると旅客機は水平飛行に移った。
「ぽーん」シートベルトを外しても良いですと、マークが変わった。
途端に透はベルトを外しトイレに掛けこんでいった。
すっかり陸は見えなくなり海も小さくなって海面の波も見えなくなった。
空が天頂に向けて空色から藍色にグラデーションがかっていた。
満足した恵美がやっと窓から離れた。
「ふぅ~綺麗ね~飛行機は最高ね」ニコニコとしているところに
吐き戻すものが無くなった透がふらふらとトイレから戻ってきた。
「大丈夫ですかぁ?」
「さっきはナンカ固まっていましたけど…」
恵美は青ざめてふら付いている透にニコっと話し掛けた。
「いや、、、はい、飛行機は苦手でして。。。」青ざめた顔が赤くなった。
「そうなんですか…。大変ですね。そんなにまでして嫌いな
飛行機に乗らなきゃいけない理由があるんでしょうね。」
「はは・・。ま、まあ仕事ですから」
そう言いつつ、透は自分の欲については言えないでいた。
(金が入りゃ、楽できる、いい女もモノに出来る。欲しいものは手に入るしな。)
「あ、はじめまして。私、佐藤恵美と言います。」
「シンガポールへは観光なんですよ。へへ。」
「雑誌で見たマーライオンを目で直に見たくなって。」
雑誌の切り抜きを広げて見せた。
二十歳くらいに見えるがもう少し上かもしれない。
「そうなんですか、私は、藤村透っていいます。」
「このスーツ姿で判るうと思いますがビジネスマンです」
「会社の出張なんです。」
額に浮かぶ汗を拭きながら言った。
「え~っそうなんですか!?気づきませんでした」
「え?」透は一瞬ぽかんとなった。
「具合が悪そうなのしか目に入らなかったもので、…そ、そうですね。
よく見ればサラリーマンですよね。はは。」
「旅行はお一人なんですか?」
3席ある列の透と恵美の間の席が空いているのを見て透は聞いた。
気分は最悪だった。目が回って平衡感覚もおかしくなっていた。
「はい。気が向いたときにサッと旅に出るのが好きなんです。」
「計画とかめんど臭くて…お金が足りればすぐ出かけちゃうんです。はは」
「無計画なので、友達とかとは一緒に出かけられないんです。友達も少ないですけどね。えへへ。」
ふ~んと、透は思った。
(てことは、まともな職には就いていないな。。)
「フリーターなんですよ。私。まあ、じゃなきゃこう言う生活できませんしね。」
今まで体験した旅や、感動したこと、泣けたこと、怖かったこと、等を
勝手にベラベラ話し始めた。
商談のいつもの癖で聞き上手な透もちょっとウザッタく思う程、
恵美は喋り続けた。
気分が最悪な中、脳みそが恵美の言葉で埋め尽くされていた。
「あ、私、、お喋りしすぎましたかぁ?」
無表情になりつつある透の表情を覗きこんだ恵美が言った。
「はは、、人に話すのって好きなんで、、、て言うか
久しぶりなんで色々な話、話すの。。。」
ちろっと舌を出して、ポリポリ頭を掻いた。赤くなっていた。
「い、いえいえ、、楽しかったですよ。色々と経験されてますね。」
その仕草を見た透はあわてて自分の話を始めた。
「私は仕事仕事で休日はアパートでゴロゴロしてるのがほとんどですから」
「PS3も買ったけど、あ、知ってます?家庭用ゲーム機です。
ソフトは買ったんですがやる気が起きなくって。結局無駄金です。。。
はは、大抵ヒゲも剃らずに月曜日になってしまう日々ですね~」
うんうんと頷き、まじめに話を聞いている恵美を見てたらいろんな話が
透の口から溢れた。
「…定時なんてほとんど無し。でも残業は5時間以上ついたこと無いんです!…」
「~で、ムカツイて、アパートの外の2F用階段の支柱蹴ったらボッコリ
穴開いて、慌てて1Fの自分の部屋に駆込んで…」
話の途中でアナウンスが入った。
「ぽーん」とシートベルト着用のサインが出た。
「あれ?シートベルト??」透は腕時計を見た。
透はさっきまで気分が冴えないので機内食は断ったが、気づくと既に6時間以上が過ぎていた。
乗り物に乗るといつも何度もトイレに掛けこむのがさっきの1回だけだったようだ。
と言うかさっきトイレに駆け込んだ他、吐き戻した記憶が無かった。気分は…今は何とも無い腹が減っていた。
「あ、もう時間ですね。シートベルトしなきゃ。。。」恵美が言った。
カチリとベルトをして透は考えた。
(酔わな…かった?この俺が??嘘だろ~。克服したのか!)
頭の中はこの考えがぐるぐる回っていた。
恵美はまた窓に貼り付き次第に近づいてくる大地に感動していた。
酔いを克服できたのか問答していたためか気づいたときには着陸していた。
飛行機が着陸し扉が開いた。外は30度近くあった。
むっとした熱気が機内に入ってきた。
「到着しましたね!ふぅ~。楽しみです。」恵美はニコッと言った。
「そうですね。旅行楽しんでくださいね。恵美さん。」
透はいつもと違う爽快感を味わっていた。
日本は冬だと言うのにここは熱い。しかも湿気がある。
入国手続きを済ませ、透の夢であった明日の契約成立に向けて
会社が予約していたホテルにチェックインした。
その晩、書類に目を通しながら酔わなかった自分の事を思い出していた。
(そうだ、あの子が話し掛けてくれたんで酔わなかったのか。いつもは
胃の具合やら、浮遊感の恐怖しか考えてなかったからなあ。。。
小さいときから乗り物に乗ると、酔うな酔うな酔うな…・
そんなことしか考えていなかった気がする…)
ふっとあの子にお礼を言わなかった事が悔やまれたと同時に
いつもの癖で相手を値踏みするように、あの子を見ていた
自分が恥ずかしくなった。
(ほんと自由な考えを持つ子だったな。。。それに比べ俺は、、
何を話してたんだろ。愚痴しか言わなかったなぁ。
金、地位、女…か。。何考えてんだろ。)
自問自答を繰り返えしながら、書類のチェックを遅くまで続けていた。
翌日朝9時に会場に入り15時には商品の説明、仕様、
今後の発展性などを再度確認し、契約も無事交わす事も出来た。
社内でもこの契約はこの数年の中でも最大のものであった。
「ふう。やった。やったぞ!俺の契約だ!取れたぜー!」
約2年を掛け成立させた透の結晶だった。
「これで昇進は間違いない!!」
ホテルに戻りベッドの上ではしゃいだ。会社には契約成立と連絡をした。
帰れば昇進と社長賞が待っている。
待ちに待ったマンション購入プランも立てられる。
皆に羨ましがられ
総務の独身連中も寄ってくるだろう。
「はは、いい事尽くめだ、女には気をつけないとな。」
言った後で何か虚しくなっている自分がいた。
ふうっとベッドに沈み込んでいく体から心が抜け出してしまったようだった。
この2年間、この契約の為だけに生きてきた。そんな気がする。
それが、たった1つのサインで終わった。
「仕事か…」天井を見つめていた。
次の日は自由にして来いとの会社からの特別有給休暇が支給された。
「自由にして来いったって何にもする事無いしなぁ」ホテルでごろついていた。
ふと思い出しマップを取り出した。
(ん。マーライオンか…見に行ってみるか…。)
地図を見ると、さほどホテルから離れていないことが判った。
(歩いて、20分ってとこか。)
ホテルの外に出た。まだ10時前と言うのに暑い。太陽がでかく見える。
130Kmあまり南下すれば、もうそこは赤道である。
シンガポールリバーの河口に向かい歩いてゆく。
「なんだ…こんなものか。」
マーライオン像は,高さ8mあまりで大して迫力は無かった。
別にセントーサ島にデカイのが出来たらしいがもう、透には興味が無かった。
近くに寄るでもなくその場を立ち去ろうとした。
「あ~っ。こんな小さいのか~。。雑誌は大きく見えたのになあ…」
聞き覚えのある声だった。視線を上げるとそこに恵美が立っていた。
あちこちと汚れている服は、飛行機に乗っていた時のままの服である。
小柄な体にリュックサック1つと言う風体だった。
「や、やぁ、元気?覚えてる?飛行機で同じ列に座ってた…」
「はい!藤村透さんですよね?仕事どうでしたか?」
「名前、覚えていてくれたんですか。」
「えへへ。私、飛行機の中であんなに話したの、話聞いたの
初めてだったから」照れくさそうに恵美は言った。
「何処に泊まられてるんですか?」透が聞いた。
「え?私?えへへ、野宿なんですよ。ほら、ぴゅーっと出てきたんで、
予約とかしてないし。お金もね。ここは夜は温かくて寝やすかったですよ。
警察に見つかって怒られたみたいなんで逃げましたけど」
笑いながらとんでもない話を平然としている恵美を見て透は笑っていた。
「ははは、でも危ないですよ。女の子1人で野宿なんか。
いくら治安の良いシンガポールでも…。」
「でも、ちょっとガッカリです。マーライオンがこんなに小さいなんて。。。」
笑顔が消え、唇が尖って言った。
「別の島にデカイのがあるらしですよ。行って見ます?今から」
どうでもイイと感じていたのに今は行きたくなっていた。
「ホンとですか!?でも仕事はいいんですか?」
「もう終わりました。」
「今日は会社がくれた休みですから。実は暇でしょうがなかったんですよ」
「じゃ!是非一緒に行きましょう~っ」恵美は素直に喜んでくれた。
セントーサ島に渡り37mあるマーライオンはさすがにでかく感じた。
エレベータ-でマーライオンの体内を上がり口にあたるところへ出た。
牙がでかく、恵美は大喜びであった。
景色もよくシンガポールの市街地が摩天楼のように見えた。
その後、水族館に行き魚を見て腹が減ったことに気づき、
ファーストフード店でお腹を満たした。
支払いはその都度、透が持つと言うにもかかわらず、恵美は笑顔で断った。
「何でも平等が信条なの、、私。」
透はギクシャクしていた。いつもレジでは女性は先に出て行き
女性の支払いは透持ちが普通であった。マナーと思っていた。
それが普通だった。ドラマでも雑誌でも当然のように描かれていた。
小さな財布を開け自分の支払いをする恵美を見てて、
なんだか和やかな気分になっていった。
熱い太陽は夕日となり大海原へ落ち、辺りは夜になっていた。
「今日は楽しかった。久しぶりなんですよ会話のある旅行って。」
恵美はホンとに嬉しそうに透に言った。
「今日泊まるとこあるの?」
「いえ。また野宿です。」
「じゃ、泊まってきなよ俺のホテルに」
「ノーサンキュ。です」キッパリと言った。
「言ったでしょ、平等が信条って。私はこう決めて旅に出たんですもの。」
なんの詮索もない気持ちのよい断り方だった。
「そう、じゃあ、気を付けて…ね」
透は自分のホテルに誘ったのが恥ずかしくあった。
多少の期待もある誘いだったから。
「じゃ、これで、」恵美は手を振りながら言った。
楽しかった…。瞬間、透の頭をよぎった。
「あ、あの恵美さん、日本へ帰ったら、また会ってもらえないでしょうか?」
突然、透が言った。
「え?」驚いた表情で恵美は振りかえった。
「今日一緒にいて、、いえ、飛行機で話している時も感じてたんです。」
「素直と言うか、自然になれるんです。恵美さんといると。」
「恵美さんとなら、なにか目標が持てる、、そんな気がするんです。」
まじめな顔をした透がいた。
今までの金銭欲やら見栄は関係無い自然な言葉であった。
「え、、でも私って気まぐれですよ?それでも大丈夫なんですか?」
「フリーターだし、時間、、合わないんじゃない?」
「時間なんか、、大丈夫です。」
会社一辺倒だった透のセリフとは思えない言葉が自然と出た。
「休暇だって毎年取得しないで9割は捨てているんですから。」
「…」ちょっと考えていた恵美がニコッとして言った。
「はい。じゃ、帰ったらいろんな話のお土産もってくね!」
「ん。ああ。」
契約のサインより恵美の一言の方が何倍も嬉しかった。
「それと私も何とかしますね、、この性格。」チロッと舌を出した。
それは2人の旅が始まった瞬間だった。
透と恵美の進むはずだった人生の道と時間が変わりつつある事には今は気づいていなかった。
しかし、磁石が引き合うかのようにその二つの道はやがて
交わる事は確かなようであった。
お互いの不足した面を補うかのように。
…了