
地下鉄サリン事件は、1995年3月20日に日本の東京都で発生した同時多発テロ事件。警察庁による正式名称は地下鉄駅構内毒物使用多数殺人事件。日本国外では「英: Tokyo Sarin Attack」と呼ばれることがある。
14人が死亡し、およそ6300人が被害に遭ったオウム真理教による「地下鉄サリン事件」から20日で30年です。東京の地下鉄・霞ケ関駅では遺族などが犠牲者を追悼しました。
オウム真理教 狂気の“11月戦争”
30年前・1995年3月20日、当時のオウム真理教の信者が都内を走る地下鉄の3つの路線で猛毒のサリンをまき、14人が死亡し、およそ6300人が被害に遭いました。
東京・千代田区の霞ケ関駅では、構内に献花台が設けられ、遺族や被害者、それに利用客などが訪れ、花を供えて手を合わせ、犠牲者をしのびました。
被害に遭った女性 “今も影響は続いている”
都内に住む森瀬郁乃さん(52)は30年前、22歳の時に通勤の途中に地下鉄日比谷線の小伝馬町駅で被害に遭いました。
20日は霞ケ関駅と被害に遭った小伝馬町駅を訪れ、それぞれ献花を行いました。
小伝馬町駅はもっとも多くの負傷者が出た駅でした。液体状のサリンでぬれたホームを歩いて地上の出口に出たところ、息が苦しくなって病院に運ばれ「サリン中毒」と診断されて4日間、入院しました。
診察を受ける森瀬さん
事件のおよそ5年後からは、ひどい頭痛や平衡感覚を失うほどのめまいなど、サリン中毒の後遺症に悩まされるようになり、正社員としてフルタイムで働くことも難しくなりました。
さらに事件から15年後の2010年ごろからは、急に手の指の骨が痛み始め、リューマチなどを疑ったものの違うと診断され、サリンの後遺症かわからず誰にも相談できずに悩んでいたといいます。
次第に痛みが増して自分で洋服のボタンを留めたり、字を書いたりすることもできなくなり、長年、サリンの被害者の診察にあたってきた医師に相談したところ、サリンの後遺症の可能性があると診断されているということです。
19日も東京・中央区の聖路加国際病院で診察を受け、医師に対し「処方された薬で指の痛みは和らいだもののお菓子の袋などを開けることが今も難しく、影響は続いている」などと相談していました。
ほぼ毎年、献花に訪れていたということですが、この日初めて、小伝馬町駅の駅員に自分がこの駅で被害に遭ったことを伝え、これまで献花台を設置してきてくれたことに感謝を伝えたということです。
献花の後、森瀬さんは「多くの花が供えられていて『もしかしたら私も献花される側になっていたのかもしれない』と怖い思いがしました。一方で、これまでこうした場を提供してくださった駅の関係者の方々などにはとても感謝しています」と話していました。
また「後遺症のことを考えるとこれからも不安でいっぱいです。被害者を支援してきたNPO法人も今月末で解散することになり、自分で何とかしていかなければならないと感じています。国や関係機関が被害者と医療機関をつなぎ、相談に応じてもらえるような体制を作っていってほしい」と話していました。
解散する支援団体“これからも交流できる機会作りたい”
地下鉄サリン事件の被害者支援に当たってきたNPO法人「リカバリー・サポート・センター」のメンバーも、被害者たちといっしょに霞ケ関駅を訪れ、犠牲者を悼みました。
リカバリー・サポート・センターは、無料の健康診断を続けるなど、サリンの後遺症に悩む人の心や体のケアに当たってきましたが、受診者が減ったことやボランティアの高齢化などを理由に、3月末で解散することになっています。
献花は毎年、訪れてきたということですが、ことしが最後の献花となり、木村晋介理事長(80)は被害者たちに「新しい人生が来ますので、健康を取り戻して下さい。お疲れ様でした」とあいさつをしました。
木村理事長は「被害者の方にとっては決して楽ではなかったと思いますが、痛みに寄り添って活動を続けられた30年だったと思います。後遺症に悩んでいる人も多く、解散はしますが、これからも被害者たちが交流できる機会を作っていきたいです」と話していました。
オウム真理教による一連の事件では、元代表の麻原彰晃、本名・松本智津夫元死刑囚ら13人が死刑判決を受け、7年前(2018年)に執行されました。
一方、3つの後継団体は今も活動を続け「無差別大量殺人行為に及ぶ危険性がある」として団体規制法に基づき観察処分の対象とされ、公安調査庁が現在も立ち入り検査などで警戒しています。
事件を知らない世代が増えるなか、被害者や遺族の団体は国に対し、未曽有のテロを防げなかった事件の教訓を伝え続けることや、後継団体の監視を求めています。
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2025/03/20 15:38:15