まぁ なんかこの前零鴛くんとの電話で機関銃について長々話して居た様な気がする・・・・・ なわけで機関銃の事でも少々。
1884年、世界初の全自動式機関銃をアメリカ人発明家 ハイラム・マキシムが開発した。 これが現代まで続く機関銃の基礎となった。 更に無煙火薬の登場により一層の性能向上を果たす。
マキシム式機関銃の派生のドイツのMG08 第一次世界大戦で活躍 水冷式
機関銃が大規模にそして有効に初めて使われたのは日露戦争(1904〜1905)の旅順要塞攻略戦(前哨戦の南山の戦いから)においてロシア側のマキシム式機関銃が威力を発揮して日本軍は15000以上の戦死者を出している。
日本側ではホッチキス式機関銃(フランス製 空冷式)を配備(数だけならロシアより多いとも)していたが重量の嵩張る機関銃の運用には苦慮するも、秋山好古少将(海軍の秋山真之の兄)は騎兵の機動力利点と防御力の弱さを機関銃でカバーして各所活躍を残している。
ホッチキス式機関銃の本家フランスのMle1914 第一次大戦から第二次大戦までの永きにわたり使用された。
しかしながら当時の列強各国は多数の観戦武官を送り込みながらも「極東の一局地的戦いの一例」として捉え余り重視しなかったようだった。
そして1914年から始まった第1次世界大戦は戦いの戦いの様を一変させた。 幾重にも張り巡らされた塹壕 鉄条網 地雷原 そして各所に備え付けられた機関銃 もはや従来の銃剣突撃や騎兵突撃は自殺行為以外の何ものでもなくなった。
特に効果的に配置された機関銃による十字砲火は1〜2丁の機関銃は歩兵一個大隊(500〜1000)を撃退しうるとすらいわれ戦線は膠着した。
塹壕はスイス国境からイギリス海峡にまで達して迂回すら不可能になった。 従来の戦法・戦術は通用せず各国軍は「戦術が無くなってしまった」すら言ったようだ。
当時の塹壕の様子 イギリス軍のもの
上に書いた様に機関銃の存在が塹壕戦の膠着を生み出したといっても過言ではない。 其の為に新たな戦術 新兵器が多く投入された。
戦車は正に塹壕突破の為に生み出された。 毒ガスも又しかり、歩兵戦術に関していえば浸透戦術(ブルシーロフ攻勢にいたり使用されたのでブルシーロフ戦術とも)現代戦の基礎はこの頃に芽を出したし、それを芽生えさせたのは一重に機関銃の存在が大きかった。 更に短機関銃(サブマシンガン銃弾はピストル弾をい使用)も登場した。
当時決戦兵器として塹壕戦突破に使用されたドイツの短機関銃MP18
多くの犠牲を払い終結した第1次世界大戦、それからも機関銃は主役だった。 だが其れまでの機関銃は重く(50〜60キロ)のため陣地に備え付けての防御戦に限れば問題ないが機動戦には不向きだった。
そこで出てくるのは「軽機関銃(8〜10キロ)」だが当時は継続射撃や耐久性に難があり一種の「妥協の産物」とされていた。 それでも各国は徐々に開発を進め日本も大正11年には「十一年式軽機関銃」を採用している。
1924年、其れまで「妥協の産物」といわれていた軽機関銃に金字塔を打ち立てた「ZB26」が登場する。
ZB26軽機関銃

8.9キロという重量 小銃弾(7。92mm×57モーゼル弾)をそのまま使用可能 キャリングハンドルを用いた素早い銃身の交換 そして何より高い耐久性は此の銃の最大の魅力だった。 多くの国に輸出又はライセンス生産され多くの戦果とその後の機関銃設計に影響を与えた。
その後は機動戦用の軽機関銃(分隊に1丁程度) 防御又は後方支援用の重機関銃(これは専門の部隊を組み中〜大隊等に配備)での運用されていく。
1929年に起こった世界恐慌は世界を波及し世界に暗雲立ちこめベルサイユ体制 ワシントン体制に軋轢と歪みが生じ世界は再び悲惨な大戦へ進み始める。
1935年 ナチス政権下のドイツは再軍備を開始、更にここで再び機関銃に新たな派生が生まれる。
MG34
MG34 いわゆるGPMG(汎用機関銃)の先駆けで 重虜は12k弱と若干重いもののベルト式(又はドラムマガジン) 高い連射製(毎分800〜900発) 取り替え用意な銃身 最大の特徴は汎用を示すとうりこの銃は 軽機関銃(二脚)と重機関銃(三脚)の役目を両方はたす事が出来るという点で今までの概念を覆す機関銃だった。
その後後継ともいえるMG42も完成して此処に機関銃は完全に完成の域に達したといえる。
更に短機関銃も此処に来て多く登場する。 ドイツの MP38 MP40 アメリカのトンプソン グリースガン イギリスのステンガン ソ連のPPSh-41等が上げられ市街戦や戦車兵の自衛兵器として活躍する。
MP40 ドイツの代表的な短機関銃 映画等ではおなじみ
前大戦を遥かに上回る規模で繰り広げられた第二次世界大戦、しかし前大戦の様な塹壕戦は発生しなかった。 新たに芽生えた兵器達は発展し更に其れに合わせた戦術も加わり鉄壁と言われた幾重の塹壕やフランスの築いた大要塞線「マジノ線」を突破した。
多くの航空機が空を飛び交い、大量の戦車や装甲車が大地を蹂躙した。 しかし其処に来ても機関銃は歩兵にとって脅威であり心強い味方だった。
一例を上げるが一般的に日本軍は日露戦争当時の三八式歩兵銃と銃剣のみで戦い機関銃は殆どもっていなかった。と言われたりするが其れは大きな間違いで既に日露戦争当時から日本軍は機関銃を保有し大正時代にかけて各種国産化をして列国遅れず、いや早いくらいに軽機関銃等も開発、そして生産を行なっている。
歩兵戦も浸透戦術を徹底させ日本独自に昇華させ軽機関銃を中心とした傘型散兵戦術(肉弾突撃)は支那事変初期の第二次上海事変の際に敵側の国府軍の築いたゼークトライン(チャイニーズヒルデンブルクラインともいわれドイツ式の強固な塹壕線)を兵力劣勢(国府軍60万 日本軍20万)にも関わらず其れを突破している。
支那事変〜太平洋戦争にかけても重軽機や擲弾筒(携帯型迫撃砲)を中心とした火力は連合国からも非常に恐れられ劣勢化の硫黄島や沖縄戦では緻密な陣地と機関銃を中心とした火力で圧倒的な戦力と火力を誇る連合軍に大きな打撃を与えている。
支那事変から太平洋戦争にかけて活躍した日本軍の機関銃 上が九二式重機関銃 下が九九式軽機関銃 どちらも優れた耐久性と性能を持っていた。
特に沖縄の戦いでの「嘉数の戦い」や「シュガーローフの戦い」をして米軍はこれを「歩兵戦闘の極み」とすら言わらしめた。 無論その主火力は機関銃だった。
第二次大戦終結後は先の汎用機関銃の登場により重機関銃や軽機関銃の用途は廃れて統廃合が進んだ。
しかし、それでも汎用機関銃より軽量で小銃弾薬を使う(此の頃小銃弾の小口径が進む)分隊支援火器が派生し発達する。 分隊支援火器は歩兵の攻撃時等の支援が目的で長期的な射撃や防御線等には強度的に向いてなく汎用機関銃は未だに意義を失ってはいない。
現在の分隊支援火器の代表 MINIMI(ミニミ) ベルギー製 5.56mNATO弾を使用 多くの西側陣営に採用されている(陸上自衛隊も採用)
短機関銃は低威力と命中率の低さをして一時衰退したがH&K(ヘッケラー&コッホ)社のMP5の登場とルフトハンザ航空181便ハイジャック事件の活躍をして特殊部隊又は治安部隊向けの高性能短機関銃として復権、他にはUZI等の低価格な短機関銃は紛争地域などで使用されている。
H&K MP5の初期モデル
今現在においても各種機関銃は大小を問わず歩兵や車両又は艦艇 航空機に搭載され其の座は不動であると言って良い。 更に既に第一次大戦時から基本的なカタチは確立している(1933年採用のブローニングM2重機関銃は未だに現役)ため今後もかわらず今の地位を確保するものと思われる。
永きに渡り活躍するブローニングM2重機関銃 航空機 艦艇 車両 多岐にわたり使用されている。
機関銃の発明と共に大量の弾薬が消費されるようになり多くの死傷者も増大した。
国家間における「総力戦」をして機関銃は多くの役割を果し、更に戦争の形態すら変えてしまったとすら言える。
此の発明が善なのか悪なのかは個人的には付けられない。 もし出なかったら出なかったでで又違う何かが其の座に着くのことに変わりはないだろうしね。
登場して100年以上経っても基本的な姿や構造は変えずに未だに存在する「機関銃」 19〜20世紀という激動の時代の中である意味偉大な発明だったのかもしれないと自分は思う・・・・・・
長々と書いたが何をしたかったのかはわからん(え